magoさんのブログ

yahooブログより移動

日本の歴史(年表)第5回~日本の私権時代の始まり(概況)

305143 日本の歴史(年表)第5回~日本の私権時代の始まり(概況)
 

第5回は弥生時代(BC220年)~古墳時代大和朝廷(680年)までを見て行きます。

年表にかかる前にこの時代を貫徹する流れを文章にしておきます。

弥生時代は稲作伝来から半島経由の弥生土器の誕生をもって時代区分にしている。水田稲作伝来は前10世紀に九州に入っているが、拡大は遅々として進まず、稲作が全国に武器、銅鐸の青銅器文化をもって拡大したのは前3世紀以降である。弥生時代が500年早まったとするのではなく、北九州で戦争が勃発した前220年を弥生時代の始まりとする。
クニの始まりとなった弥生時代から大和朝廷形成までは中国、朝鮮半島の戦乱と連動しており。言い換えれば中国、半島の敗北部族の受け皿として、できあがったのが日本国と言える。一方で土着の縄文人、縄文晩期に渡来した江南人が形成した弥生人が新たな渡来人と混合し、文化的にも合流したのが日本でもある。従って渡来人が支配したのではなく、渡来人が日本に融合したのだ。

渡来人と一言でいっても時代ごとに何派も別れて渡来した。
役者だけ見ても以下のようにある。

呉越戦争の敗者である呉越人、秦帝国から逃れた徐福、魏の圧力から逃れた高句麗人、半島で敗れた伽耶人、国の滅亡で送られてきた百済の官僚、

彼らはそれぞれ敗北部族故に最初は日本国内で住み分けて定着するが、3世紀以降は縄張りが接触し、高句麗勢力対伽耶+土着勢力という構図の中で古墳を築造して日本列島にマーキングをしていった。その中で弱体だった伽耶勢力は百済を取り込み、蘇我氏の政治力を使って一気に大和朝廷を築き上げた。

弥生時代前半は呉越戦争の敗者が渡来。
呉越戦争の敗者は日本だけではなく朝鮮半島馬韓弁韓)にも渡来し、水田稲作文化を形成した。最も日本に近い、弁韓伽耶地域とも呼ばれ北九州地域と一体となって倭国を形成する。鉄の生産拠点でもあった伽耶は1世紀には北九州に九州王朝を作るが、これは半島側から見れば、倭国という集合体における日本側の拠点に過ぎない。

一方で中国に登場した秦時代に日本に亡命した徐福率いる技術者集団は各地に散らばり、その後の古代豪族の核となり、各地に伝説(徐福伝説)を作っていく。徐福直系の豪族が3世紀から始まる大和朝廷の中心者となった葛城氏であり、彼が各地の徐福ネットワークを作って畿内を中心に3世紀には王朝を形成していく。

その王朝を形成する契機は出雲から新潟にかけて渡来し始めた高句麗勢力である。
中でも出雲はそれまで拠点としていた伽耶+土着勢力が大規模な戦争で敗れ、中国地方及び畿内に移動する。(物部氏
高句麗勢力は出雲、尾張日本海側を占拠するが、畿内に入る事ができず、やがて関東を中心とした東へ拠点を移動する。それが日本史では描かれていない関東日本国という大和朝廷と並存する規模の国であった。日本には古代から西と東には異なる国があったことになる。(古事記日本書紀は日本支配の為の歴史書でそれら都合のわるい史実は残していない)

高句麗勢力が前方後方墳、土着+伽耶勢力(後に加わった百済勢力)が前方後円墳を形成して列島を埋め尽くすが、7世紀前半から始まる高句麗の弱体化―敗北によって国内の高句麗勢力は勢いを失う。以降は古墳築造が終焉し、それまで高句麗相手に連合していた伽耶系と百済系の争いが起きる。

一巳の変(645年)で蘇我氏は殺害されるが、蘇我氏の優れた外交、国内統合によって国家として祖形ができた日本は、その後登場した百済系の藤原不比等によって継続されていく。

次の投稿でこれらの史実を年表で追いかけていきます