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第二部:私 権 時 代   イ.人類の同類闘争=性闘争から掠奪闘争へ    

第二部:私 権 時 代  
     
    イ.人類の同類闘争=性闘争から掠奪闘争へ    
020101    
   遊牧は、羊を連れて小集団(小氏族)で独立して移動する生産様式である。しかも、遊牧部族は移動≒闘争集団ゆえに男原理の父系集団となり、元々の母系の勇士婿入り婚は父系の勇士嫁取り婚に移行している。その婚資(結納)は相当数の家畜である。従って、その小氏族=大家族そのものが、蓄財(家畜を増やすこと)を第一義目的とした私益集団的な色彩を帯びている。とりわけ、女は闘争集団に対する収束力が極度に貧弱であり、自らが生まれ育った生殖集団=闘争集団においてはじめて集団に全的に収束できるのであって、嫁ぎ先の闘争集団に全的に収束するのは困難であり、多かれ少なかれ集団との距離を残している。実際、他所者の妻たちは、夫々が別々の小氏族の出身であり、実家の小氏族を基盤にして自らの存在権を守っているので、嫁ぎ先の小集団に対して夫々に私益存在的な色彩が強くなる。  
020102    
   実家を基盤に集団との距離を保ち、私益存在的な色彩を帯びた母親に育てられた娘たちは、性的存在として誰の下に嫁ぐのが得か損かを、娘心に考えながら成長してゆく。つまり、性回路が私益=自我回路と一体化して終う。しかし、相手を選ぶ権利は家父長が握っている。そこで、許婚が気に入らないとか、夫が(他の女たちに較べて)かまってくれないとかの不満が生じると、性的存在理由の欠乏は全的に自我回路に収束し、性的存在理由を充足する機会を求めて、夫以外の男を挑発し誘惑する。その際、相手の男が集団性=規範性の高いまともな男なら、「規範を破ってはいけない」と女をたしなめるだろうし、家父長に報告されるかも知れない。従って規範破りの相手には、常に最も集団性・規範性の低い下司男が選ばれる。しかし、それは集団から見た場合であって、性的存在理由→性的自我に収束した女にとっては、己の期待に応えてくれる男が一番いい男(≒首雄)となる。かくして自我に支配された女は、その首雄収束の思い込み回路を使って、最低の下司男を最高の強者だと180度逆転させて思い込み、首雄収束を下司収束に換骨奪胎して終う。自我は、共認(集団や規範)に対する否定(反や破)をエネルギー源にしている。従って、性的自我の塊と化した女と男にとっては、規範破り=集団破壊こそが潜在的な究極の目的=快感となるのであって、この狂った性的自我こそ、人類の全ての邪心の源である。現にこの狂った性的自我は、規範破りの私的な性関係を構築し、その私的関係を核にして、最終的には集団を破壊していったのである。  
020103    
   人類が五〇〇万年に亙って封印してきたパンドラの箱を開け、性的自我から性闘争を顕現させた遊牧派生の不倫→駆け落ち集団=邪心集団は、全集団間に警戒圧力を生み出し、遂に五五〇〇年前の乾燥期、彼らによってまずイラン高原メソポタミアとインドの間の大高原)で、人類最初の同類闘争=掠奪闘争の幕が切って落とされ、次いで中央アジア高原に連なる遊牧部族の帯を介して、モンゴル高原(北方アジアの大草原)に伝播していった。  
020104    
   掠奪闘争は、部族から部族へと玉突き的に拡がり、勝ち抜き戦を通じて、次第により強大な武装集団の下に統合されてゆく。こうして、数百年に及ぶ掠奪闘争の結果、ほぼ全ての本源集団が破壊されて終った。元々、モグラの性闘争とサルの同類闘争は、性闘争=縄張り闘争の本能上でつながっていたが、性闘争の禁を破った人類も、本源集団を破壊し本源共認を解体してしまったことによって、いったんモグラ→サルと同じ本能レベルに後退し、性闘争を皮切りに同類闘争=掠奪闘争を繰り広げた事になる。  
020105    
   しかし、人類の同類闘争は、サルのそれとは全く異なる位相へと、人類を導いてゆく。サルは表情や身振りによって共認しているので、互いが見える集団内部でしか共認を形成することができない。それに対して、人類は観念共認によって集団を超えた共認を形成することが出来る。人類はバラバラにされた個体の私権闘争(その根源は性闘争)を、私権の共認に基づく私権の強制圧力によって統合し、観念共認による超肥大集団=私権統合国家を形成した。その点が、モグラやサルと違う点である。だが滅亡の危機を前にした今、それが人類の進むべき正しい道であったかどうかは、改めて根底から問い直されなければならないだろう。とりわけ、開けてはならないパンドラの箱を開けて性闘争を顕現させ、本源集団を破壊した性的自我については、充分に解明し総括しておく必要がある。  
020106    
   存在理由欠損を原点とする女の共認回路は、外圧が強く従って集団収束力が強い時には依存収束を強め、首雄や仲間の期待(=集団の役割規範)に応望収束して、集団の期待=役割に応えるイイ女を作り出す。女の性機能は、真猿以来その様にして形成されてきたものであり、またこの応望収束の強さこそが、順応性や肯定性という、男には無い女の秀れた資質を生み出してきた。要するに、この様に役割規範に応望収束すれば、女は菩薩となる。しかし、同じ女が集団否定に自我収束すれば悪魔となる。外圧→集団収束力が低下すると規範収束が弱まり、自我収束が強くなってゆく。そして、何かの契機で性的存在理由が充足されなくなると、性的存在理由欠乏の全てが自我に収束し、性的自我の塊と化して規範破りの私的な男女関係を構築し、集団を破壊してゆく。集団圧力や闘争圧力や規範圧力に対する反or 破をエネルギー源とするこの性的自我こそ、私権時代に固有の女の魔性の正体であり、それは(単に一人の男を破滅させるだけではなく)集団や部族や国家を破滅に導く、滅亡の元凶ともなる。  
     
 
   ロ.私権文明を問い直す(東洋と西洋)    
020201    
   教科書が「人類の文明発祥の地」として教えるメソポタミア・エジプト・インド・中国は、全て掠奪闘争が繰り広げられた場所であり、それらの国家は、全て掠奪闘争の覇者によって作られた国家である。つまり、今日の「文明」は、全て掠奪闘争によって生み出された文明である。しかも、性闘争や私権闘争や掠奪闘争=戦争、あるいは環境や集団や精神の破壊、更には権力による支配・抑圧・疎外など、人類の罪悪と言われるものの全ては、性的自我(=邪心)を源とする性闘争→掠奪闘争→支配国家が生み出したものである。もちろん、性闘争→掠奪闘争→私権統合国家の流れが人類にとって必然の流れであり、かつこの性闘争・私権闘争系の「文明」が今後も更に進化してゆけるものであるなら、その流れに対して主観的に善悪の判断を下しても無効であり、無意味である。だが、この「文明」の帰結が人類滅亡であるとしたら、人々が戦争や破壊や権力を罪悪視し続けてきたのは基本的には正しかったのであり、それどころか、この「文明」が肯定視されてきたその根幹部そのものの是非が改めて問われることになる。  
020202    
   この私権「文明」は、人類を含めて全ての生物がその中で育まれ、進化してきた本源集団を破壊した上に築かれている。しかも、自然の摂理から大きく逸脱したその私権原理そのものが、今や機能不全に陥り、人類滅亡の危機が迫ってきた。とすれば、本源集団を破壊して終ったことが、人類の最大の誤りであった可能性が高い。ところが、西洋と東洋では本源集団の破壊度に大きな差がある。従って、この「文明」を見直す上で、西洋と東洋の違いがかなり重要なテーマとして浮上してくる。  
020203    
   人類最初の掠奪闘争がイラン高原の白人(コーカソイド)遊牧部族によって引き起こされ、それがモンゴル高原の黄人(北方モンゴロイド)遊牧部族に伝播していったことは既に述べたが、両者はその前身も、掠奪闘争の在り様も大きく異なっていた。コーカソイドはもとから狩猟部族でそれが遊牧に移行した人種であるが、北方モンゴロイドは、南方の平和な採集部族(南方モンゴロイド)が北方に移動して狩猟・遊牧に転じた人種である。乾燥期に入った頃、イラン高原にはもともと農耕・牧畜・遊牧などの諸部族が混在していた。しかも、イラン高原は急速に乾燥していったことにより、極めて深刻な食糧危機に陥った。従って、遊牧派生の邪心集団による掠奪闘争は極めて激しい容赦の無いものとなり、皆殺しが常態となる。従って、仲間を皆殺しにされて一人二人と生き残った者たちは憎悪と警戒心の塊となり、共認基盤を失って終ったことと相俟って、全面的にかつ強く自我収束する。そんな者たちが生き延びる為に寄せ集めの新たな掠奪集団を形成しては他部族を襲うという形で、数百年に亙って掠奪闘争が繰り返された。そんな生き残りの末裔が、西洋人である。それ故に、本源共認の基盤を根こそぎ解体して終った西洋人は、本源的な共認収束力≒集団収束力が極めて貧弱で、自我収束が極めて強い。しかし、自我だけでは共認を形成できない。そこで彼らは、専ら自我に基づく本源風の架空観念に収束し、架空観念で共認を形成する。  
020204    
   それに対して、モンゴル高原は見渡す限りの大草原であって、そこには同じ遊牧部族しかいない。加えて、イラン高原ほど乾燥が激しくない。従って、ここでは掠奪闘争というより覇権闘争の色彩が強く、皆殺しも発生したが、それより支配・服属という形が主流になる。従って、勝者はもちろん服属した氏族も、氏族集団としての本源性を強く残すことになる。東洋人は、概ねこの遊牧→掠奪の北方モンゴロイドが、採集→農耕の南方モンゴロイドを征服した混血であり、従って東洋人は小氏族(大家族)の本源性を色濃く残しており、西洋人ほど自我を肥大させていない。  
020205    
   この様な意識構造の違いは、夫々の思想の違いに典型的に現れている。同じ二六〇〇年前頃に、西洋ではユダヤ教(→その後キリスト教)、東洋では儒教が登場するが、西洋の観念信仰が自我に基づく極めて独善性・排他性の強い唯一絶対神を非現実世界に構築したのに対して、東洋の儒教は残された本源規範に基づく仁・義・信など、現実世界を導く関係規範に収束した。本源集団・本源共認を破壊して自我に収束した西洋人は、非現実の世界に失われた本源価値を(架空観念として)再構築するしかなく、かつそれが自我に基づくものであるが故に独善的・排他的な絶対観念(ex. 唯一絶対神)への思い込み信仰となるしかなかったのに対して、本源的集団と本源的共認が残存している東洋人の方は、本源規範を私権秩序と整合させることによって現実世界を律しようとした訳である。  
020206    
   本源集団を破壊した私権文明が滅亡の危機を迎えた今日、東洋人の心の底に残る本源集団性・本源共認性は、人類再生の基盤を成すものとして極めて重要になる。中でも、島国ゆえに一七〇〇年前まで掠奪闘争に巻き込まれることなく原始文明を発展させてきた日本人の心の底に残る本源的な共認体質は、極めて貴重である。もし、人類に絶滅を免れ得る資質が残されているとしたら、それは東洋人、とりわけ日本人の心の底に残された、類い稀なる縄文人的精神基盤なのではないだろうか。
  ハ.私婚関係から私権の共認へ    
020301    
   パンドラの箱を開け、性闘争=縄張り闘争を顕現させて終った以上、そして本源集団を解体し、本源共認を破壊して、モグラの性闘争=縄張り闘争の本能の次元まで後退して終った以上、人類は原猿と同じく雌雄解脱共認の形成から共認を再構築してゆくしかない。ところが、掠奪闘争によって人類の雌雄関係=婚姻関係は、一変して終った。本源集団が破壊され、性=婚姻の相手を定めていた婚姻規範が消滅して終った結果、性=婚姻は私的な選択に任されることになって終ったのである。性が、無政府的で本能的な性闘争に任されることに成ったとも言える。  
020302    
   しかし、性の私的な選択の場では、男女の性闘争本能の強弱差から、必然的に女の性に強い価値が生じる。しかも、闘いが無くなり生産基盤も安定してくると、男たちは解脱収束を強め、性欠乏を更に肥大させてゆく。他方、私的な婚姻関係は、女の性的自我をますます肥大させてゆく。そこで、本源集団=母系集団という安定した存在基盤を失い、性的自我に収束した女たちは、性を武器にして己の存在権を確保する方向に(つまり自ら性の商人となる方向に)、可能性収束=性的需要収束してゆく。そして、男たちを挑発しつつ性封鎖(供給制限)して、自分たちの性が「滅多なことでは売れない」「この上なく高価なものである」という性幻想を捏造する。何しろ女は、自分で自分を「至上のもの」と思い込んだら終いで、男たちは女の思い込みに基づくこの期待に応望しようとすれば、女と同じ様に「至上のものなんだ」と思い込み共認するしかない。こうして、性的商品価値(=性資本)の共認がいったん形成されると、それを手に入れる為に男は、女の好き嫌いやあれこれの要求にも迎合し、女に合わせて同じ様に思い込み共認してゆくしかなくなる。しかも、それは最基底の男女解脱共認であり、それを覆すことはもはや誰にも出来ない。  
020303    
   権力とは、否も応も無く人々を従わせることのできる力であるとすれば、女の性資本(性的商品価値)や選択権は、紛れもなく男たちを否応なく従わせることのできる権力=性権力であり、この権力を共認した以上、全ての男は否応なく女(性権力)に迎合せざるを得なくなる。この女の性権(性資本)こそ私権の原点を成すものである。もちろん、人々を否応無く従わせることの出来るもう一つの権力=男たちの武力との力関係によって、必ずしも常に性権力が絶対者に成る訳ではない。しかし、男たちが解脱(性)収束を強めてゆくにつれ、性権力は武力をも凌ぐ力を持つ様になってゆくのである。  
020304    
   決定的だったのは、勝ち進んできた掠奪部族が、最後に豊かな土地を手に入れ、農耕部族(小国家)に転身していった局面である。そこでは当初、土地は部族の共有物(=王の占有物)であり、(元)将や兵は役割分担として夫々の土地を管理しor 自ら農耕に当たっていた。しかし、各土地毎の役割分担は、忽ち管理者たちの占用権→占有権に変質してゆく。だが、闘争存在≒集団存在たる男たちだけなら、あくまでも役割分担として(必要なら配置替え=土地替えを行って)統合することも出来た筈であり(それが出来れば、その方が集団統合力は強くなる)、それが出来ずに占有権に変質していったのは、闘争=集団共認とは全く別の(むしろ、集団統合に対する遠心力・分解力ともなる)私的な男女解脱共認が強く働いた結果である。  
020305    
   もともと反(闘争)集団性が強く生殖⇒安定志向の強い女たちは、性を武器に己の存在権を安定確保すべく、私有要求を強めてゆく。他方、男たちは女の性権力に迎合せざるを得ず、従ってその要求にも迎合せざるを得ない。しかもそれは、女の期待に男が応える男女解脱共認の形となる。かくして、性権力に主導された男女解脱共認を通じて女たちの私有要求が貫徹された結果、占有権の共認が形成された。しかも、その私有要求⇒占有権の共認は雌雄解脱共認に基づくものであるが故に、社会の最基底の共認と成って確立されていった。但し、武力に基づく占有力そのものは闘って得られる男原理の力であり、それを占有権に換骨奪胎したのが性権力を武器とする女原理である。男は力、女は権、この男と女のせめぎ合いが、私権社会の在り様を、根底的に規定している。  
020306    
   私的な男女解脱共認を最基底の社会共認とし、その私的な婚姻関係を基底単位とする以上、私権(性権→占有権)に基づく私的婚姻=私有婚が社会の基底的な制度として共認されてゆくのは必然である。かくして、元々の遊牧部族の勇士嫁取り婚は、農耕に転身して以降は、私権(占有権)に基づく一夫多妻制へと変質していく。そして、戦争が無くなり戦死する男がいなくなると、世代交代の度に(解脱収束し性欠乏が肥大した)息子たちに土地を分割して与えざるを得ず、土地が小さくなると多数の妻を養うことができなくなる。従って、土地占有権に基づく一夫多妻制は、世代交代の度に土地が細分割されて、必然的にかつ急速に(3~4世代で)、一夫一妻制=一対婚に移行してゆく。更に、それ以上小さく分割できなくなると、次男以下は嫁をもらえなくなっていった。(農耕に転じなかった遊牧部族が一夫多妻のままであるのに較べて、農耕国家の一夫一妻は対象的に見えるが、どちらも私権に基づく私有婚、つまり、男が女を買い取り私有するという婚姻制の本質は同じである。)この、多妻から一妻への移行は、女の自我(独占欲)と性権力(好き嫌い、選択権)を決定的に増大させて終う。この様な女の性権力の肥大期が、小国家都市国家)の成立前後から統一国家(巨大帝国)の支配秩序が確立されるまで、三〇〇〇年から二〇〇〇年もの間、続いたのである。(注:日本人は、この様な時期を、殆ど経験していない。)  
020307    
   今日、一対婚はあたかも人類の始原からそうであったかの様に、思われている。あるいは、初めはそうではなかったとしても、ごく自然に、一対婚という「あるべき形」に移行してきたのだと信じられている。(例えば、サル学者の中には、何とか一対婚家族の萌芽を見つけようという偏見に満ちた問題意識を持ってサル集団を研究している者さえ、多数いる始末である。)だが、それは大きな誤りである。事実は全く逆であって、一対婚は女と男の性的邪心を源泉とする掠奪闘争の帰結として、掠奪国家によって作られた私権(性権と占有権)に基づく婚姻制であり、かつ世界中が自然に移行したのではなく、掠奪国家が人口の過半を占める採集部族をはじめ全ての平和な部族を皆殺しにし、あるいは支配することによって強制的に普遍化されていった婚姻制である。  
020308    
   なお、この点でも日本は特筆に値する文化基盤を持っている。日本人は長い間、採集部族として総偶婚(それも、最も原始的な兄妹総偶婚)を続け、一七〇〇年前に朝鮮からやってきた侵略部族に支配され統一国家が形成された後も、長い間総偶婚の流れを汲む夜這い婚を続けてきた(夜這い婚は、昭和30年頃まで一部で残っていた)。国家権力によって上から押し付けられた一対婚が庶民に定着するのは江戸時代中期からであり、現在までわずか三〇〇年間ぐらいしか経過していない。婚姻様式が社会の最基底に位置するものであることを考える時、この総偶婚のつい最近までの残存(or 一対婚の歴史の浅さ)は、日本人の心の底に残る縄文人的精神性を物語る貴重な文化基盤である。  
     
 
 
    ニ.私権の強制圧力と私権統合    
020401    
   ともあれ、人類は生存圧力に基づく同類闘争をいったん私権統合(国家)によって止揚した。しかし、それによって生存課題の全てが私権課題へと収束し、生存圧力の全てが私権圧力に姿を変えて終う事になる。(生存圧力は、絶えず本能(特に危機回路)を刺激し続けるが、私権圧力が直接に刺激し続けるのは自我回路であって、本能回路ではない。しかし、私権圧力は根源的にはモグラの性闘争=縄張り闘争の本能に発しており、私権刺激は間接的に性闘争=縄張り闘争本能を刺激するので、肉体的・本能的な圧力として作用する。)  
020402    
   私権(性権→占有権)の共認によって、社会の全ての財は私権(占有)の対象となり、人々は私権を確保しなければ生きてゆけなくなる。つまり、バラバラにされた個体の性闘争・私権闘争は、私権の共認を媒介として私権の強制圧力(それがないと生きてゆけない、否も応も無い絶対強制力)を作り出す。しかも、武力による収奪や資力による搾取によって作り出された貧困(=絶対的な生存圧力)は、私権の強制圧力を何倍にも強化し、絶対的なものにしてゆく。かくして国も、藩も、家も、個人も、全ての存在が私権(の強制圧力とそれへの収束)によって統合された私権統合の社会が形成された。そこでは、誰もが私権の獲得を目指して争い、互いに警戒心の塊となって、醜い自我に収束する(但し、絶対的な強制圧力が働いているので、近代の様に自我肥大はしない)。  
020403    
   この、私権闘争⇒私権の共認は、強制圧力を伴って私権序列の共認へと収束し、更に生涯固定の身分の共認へと収束する。それによって、私権闘争ははじめて統合され得たのであり、私権序列⇒身分序列こそ、私権統合の中枢を成すものである。かくして、財を収奪し、蓄積し、占有した少数の支配階級(持てる者≒消費階級)と、財=私権を奪われ、それ故に彼らの命に従うしかない多数の生産階級(持たざる者=働くしかない階級)との二大身分が、生涯→末代まで固定された身分社会が出来上がった。  
020404    
   ここでは、性闘争は(私権の共認によって)私権闘争へと収束し、更に私権闘争は身分序列へと収束する。従って、身分序列の私権統合が確立したことによって、一対婚も国家統合の基礎を成すものとして、身分序列に連なる家父長権(=占有権)の下に完全に組み込まれてゆく。そして、家父長によって娘の性の自由や選択権が封鎖された事によって性権力は衰退し、女たちは貞操や献身etc.一対婚規範(私権に基づくものではあるが、国家および家≒氏族の集団規範である)の下に収束して、ようやく集団に適応した存在に戻っていった。この期間が古代末から中世末まで、概ね二〇〇〇~一〇〇〇年ぐらい続いた。(注:日本は、概ね八〇〇年ぐらいである。)  
020405    
   ところで、私権社会では、言うまでもなく私権の確保が万人にとって第一義課題であるが、私権そのものは最終目的なのではない。最終目的は消費と遊興(平たく言えば遊び暮らすこと)であり、それこそが私権確保の目的である。集団を破壊した以上、もはや真の共認充足は不可能であり、私権が手に入れられるのは消費充足と遊興充足、そして究極的には支配充足しか無い。従って、私権社会では、最終目的たる「遊び暮らせる身分」を保障された消費・遊興階級こそが最終的な勝利階級であるが、その様な身分を手に入れる道は二つある。占有権力に基づく国家共認によって保障された身分(貴族や官吏や僧侶・学者や地主・資産家)と、性権力に基づく男女共認によって保障された身分(女と子供)である。これら遊興階級=勝利階級は、何れもその身分を権力によって保障されており、従って支配階級である。むしろ支配階級とは、権力に基づく共認によって支配or 遊興or 消費できる身分を保障された勝利階級であると定義した方が、分かり易い。  
     
  ホ.性権力と占有権力のせめぎ合い    
020501    
   ここで、二つの支配階級が存在するのは、私権の強制圧力を主圧力とする占有権力の統合力が、絶対的な自己矛盾を孕んでいるからである。望み通りに統合が実現され、身分が盤石なものになると、彼ら自身には生存圧力が働かなくなり、忽ち生存課題が捨象されて解脱収束を強めてゆく。課題(≒闘争)捨象して解脱(≒性)収束した以上、闘争過程から生まれた占有権力より解脱過程から生まれる性権力の方が上位になってゆくのは、必然である。かくして、闘争捨象⇒解脱収束した男(=占有権力)の目的の位置に女(性的商品価値)が鎮座し、占有権力は性権力の下に従属するものとなる。逆に言えば、女(性権力)にとって男(占有権力)は、どうにでも懐柔できる下僕となる。だから、性権力 > 占有権力というパラダイムは、女の自我を肥大させ、依存収束を依存要求(それは依存捨象の自我収束に他ならない)に換骨奪胎して終う。そして、半ば無意識に男を懐柔し、操縦し、支配する様になる。現に5千年前、メソポタミアに初めて都市国家を建設したシュメール人は、その数百年後には早くも「山の神(=女房)」に抑えられてどうすることもできない男たちの嘆きの詩を石碑に刻んでいる。  
020502    
   占有権力は闘い取って得られる男原理の権力であり、性権力は男を懐柔することによって得られる女原理の権力であるが、両者の力関係は、生存圧力→私権圧力の強さによって大きく入れ替わる。私権圧力が絶対で私権の確保が困難な時には、女・子供は私権(家父長権)に従わざるを得ず、性の自由と性権力は封鎖される。しかし、身分によって私権の確保が保証された支配階級の内部では、彼らが解脱収束してゆくことによって、しばしば占有権力よりも性権力の方が強くなる。そして、現代の様に貧困が消滅し私権の確保が容易になると、占有力(男原理)よりも性権力(女原理)の方が強くなり、占有権力と男原理は去勢されて終う。  
020503    
   問題は、何れにしても本源集団が解体されたままであり、従って性が私的な選択に任されるというパラダイムは、不変だということである。確かに、生存圧力や闘争圧力が強い時には、女自身の性の自由は封鎖されてきた。初期掠奪集団では、男たちの武力によって女の性の自由は粉砕されたし、中世封建社会では、諸国が群立する緊張圧力の下、統合力を高める必要から不倫のタブーetc.宗教や規範の確立→身分制の確立が進み、女自身の性の自由は身分制に連なる家父長権(大きくは私権統合力)によって封鎖された。しかし、性=婚姻の相手を定めた集団規範が形成されない限り、たとえ女自身の性の自由を封鎖しても、性が私的な選択に任されるというパラダイムは変わっていない。このパラダイムの下では、性権力を女自身が持つか、家父長が持つかの違いがあるだけで、性が私的な選択に任されている以上、女に属する性権力(女の性的商品価値や女側の選択権)の共認が時と共に強まり、基底的な支配共認として絶対化されてゆくという流れは変わらない。  
020504    
   事実、掠奪集団も少し安定すると(まして第二世代の息子や娘たちの代になれば)、忽ち男の解脱収束が強まり、女自身の性権力が形成され始める。そして、それ(性の自由や選択権や商品価値)は、掠奪集団→都市国家(例えばメソポタミアシュメール人ユダヤ人)→古代帝国(例えばローマ人)を通じて強くなってゆく。封建社会では、規範(or 宗教)の確立etc.によって女自身の性の自由は封鎖されたが、しかし私婚(私的な選択に任された、私的な婚姻関係)の共認は規範の確立によってより強くなっており、従って性権(性的商品価値や選択権)は娘から家父長に移っただけで、性的商品価値や私的な選択権の共認は、むしろ強化されている。従って、これら私権規範によって私的な男女解脱共認はより強化され、それを基盤とする私権(占有権)の共認も、より絶対化されている。要するに、性権力を核とする男女解脱共認と占有権の共認は、掠奪時代・古代・中世を通じて一貫して強化され、絶対化されてきたのである。  
020505    
   そして、外圧が低下し、男たちが闘争捨象⇒解脱収束する度に、性権力が強化され、強化された性権力に基づく女主導の男女解脱共認が、社会の最基底の支配共認としてはびこっていった。それは、貴族をはじめ支配階級全般に及び、更に都市住民全般に及んでゆく。そして、いったん女原理の支配共認が芽生えると、それが一段と闘争捨象⇒解脱収束を強めさせるので、ますます女原理の支配共認が強くなってゆき、その悪循環で(破滅的な闘争圧力でも働かない限り)もはや歯止めが効かなくなる。事実、近世から現代までは一直線に、かつ止まる所を知らず性権力とその支配共認が肥大してゆく過程だったのである。  
020506    
   しかし、この支配共認は極めて見え難い。男たちは、この上なく高価な性を手に入れる為に自ら進んで女に迎合し、納得づくで女の要求を受け入れ、それを共認しているからである。だが、本当に共認しているのなら、後で嘆いたりしない。そもそも、男は男同士の闘いに勝つ事によって女を獲得してきた動物であり、女の思し召し(好き嫌い)に迎合共認すること自体が、男の本意に反している。男は、性を武器とする女の性封鎖によって否応無く、恐ろしく高価な性的商品価値を共認させられ、その意に反して女の私的選択権を共認させられて終ったのであり、その結果が際限のない性権力とその支配共認の肥大化である。  
020507    
   要するに誰もが当然のことと思い込んでいる好き嫌いや恋愛や男女の私的関係は、私権時代に固有の性的自我が作り出したものであり、そして反集団に根差すこの性的自我こそ、集団や国家を破壊してゆく元凶である。しかもこの悪魔は、常に美しい幻想で身を包み、その正体が極めて見え難い。だが、私権時代の男たちは、そうとも知らずに自らも性的自我(独占欲)の塊りと化して女の尻を追いかけまわしてきた(しかも頭では女を軽視し続けながら)。その結果が、今日の女支配=性権力支配を招いたのである。  
020508    
   もちろん、これらは全てパンドラの箱を開け、性闘争を顕現させて終った私権時代のみに固有の現象であって、集団規範によって性が律せられ、女たちが依存収束⇒首雄収束していた五〇〇万年に亙る人類本来の男女の在り様からは、著しく逸脱して終っており、その逸脱=性権力支配が、やがて人類を滅亡の淵に追い込むことになる。  
     
 
    ヘ.支配共認=権力の共認と表層観念の共認    
020601    
   性権力に基づく男女解脱→役割共認であれ、武力→占有権力に基づく私権の共認→身分の共認であれ、支配階級は常に、権力に基づく共認を基底的な社会共認(国家共認)として形成し、その社会共認によって、自らの権力と身分を盤石なものとして確立する。権力に基づく共認が基底的な社会共認となるのは、私権闘争が自分以外は全て敵とする(共認の余地のない)自我と自我の激突であり、従って私権闘争は否も応もない絶対的な力によってしか制圧=止揚できないからである。それ故、私権闘争を制圧・止揚した権力の共認が、秩序形成の上で最基底の社会共認となる。性権力はもっと複雑だが、本質は同じである。占有権力も性権力も共に私権である事には変わりがなく、男と女の私権闘争において占有権力を性権力が上回った以上、当然、性権力の共認が占有権力の共認を凌いで最基底の社会共認となる。(もともと性闘争は、男同士の間の力=占有権力によって止揚されていたが、その占有権力を性権力が上回ると、性闘争も性権力によって止揚される様になる。)何れにしても、まず権力そのものたる「性権=性的商品価値と私的選択権」の共認や「占有権」の共認が強制的に(否応無く)形成され、それを核にして、男女役割の共認や身分の共認が形成されてゆく。この様な私権時代固有の社会共認を、支配共認と呼ぶ。支配共認という言葉には、それが権力の共認に基づいているという意味と、それ以外の認識が全て排除され共認内容がそれ一色に染め上げられて終うという、二重の意味が掛け合わされている。  
020602    
   支配共認はそれに止まらず、更にその権力を正当化する為に、無数の架空観念(幻想観念)を生み出し、それらをも社会共認としてゆく。つまり、肉体を直撃する様な深層の共認である性権力や占有権の共認の上に、本源価値を幻想観念化した本源的架空観念(古代宗教や近代思想)の共認を形成して支配共認の全体が構成されており、真実=深層の権力の共認を架空観念の表層共認がスッポリ包み込んでいる。もっと正確に言うと、深層の権力の共認は否応無しの絶対的共認≒不快な、認めたくない共認であり、そうであるが故に自己正当化できる様に幻想観念化されたのが表層共認である。従って、人々は心地よく酔わせてくれる架空観念に浸って、真実(=権力の共認)をあえて見ようとはしなくなる。  
020603    
   それは、サル・人類が解脱動物だからであり、とりわけ共認を唯一の武器として進化してきた人類は、異性や仲間や集団との共認充足なしには生きられない動物だからである。ところが、性闘争→私権闘争→私権統合によって本源集団は解体されて終ったので、失われた本源価値(異性や仲間や集団との共認充足)を幻想観念化して、頭の中で共認充足するしかなくなって終った。しかも、その様な幻想観念(古代宗教や近代思想)を創り出した思想家たちは、本源価値を破壊した、本源価値の対立物たる現実を否定し、反現実or 脱現実のベクトルに貫かれた非現実の地平に、本源価値を再生する幻想観念(「神」や「人間」や「自由・平等・博愛」やそれらを具有した「個人」や、それらを実現する「民主主義」)を構築した。従って、現実否定から出発し、現実から目を背らせた上で成立している古代宗教や近代思想は、初めから現実を変革できる筈もなく、現にそれら(例えば神の世界や自由・平等・博愛を具有した個人)が実現された例しがない。  
020604    
   それでも人間は共認充足なしには生きられず、頭の中で自己正当化をはじめとする様々な解脱充足を得る必要から、本源価値を幻想観念化した古代宗教や近代思想は、強く共認されていった。性権力や占有権力などの権力の共認こそが人々が肉体化している現実の共認である以上、古代宗教や近代思想はあくまでも頭の中だけの表層共認に過ぎず、突き詰めれば、脳内を充足させる為の解脱剤でしかない。しかし、それでも人々がそれを必要としており、それ故にそれが社会共認と成った以上、それは共認動物の社会統合上、頂点に君臨する事になる。従って、それら古代宗教や近代思想は社会統合上の絶大なる力を獲得し、僧侶や学者は支配階級の一員となる。支配階級から見れば、はじめから現実を変革する力などなく、むしろ私権の核を成す家族や恋愛を美化して人々を共認統合してくれる幻想観念は願ったり適ったりで、自分たちの身分を脅かさない限り有り難く利用すべきものであり、僧侶や学者の方は、私権(身分)を求める存在(深層意識)と現実を捨象した意識(表層観念)は初めから断絶しているので、彼らの主張が認められ、かつ高い身分が保障されるとなれば願ったり適ったりで、両者の思惑はピッタリ一致する。こうして、いったん支配階級の中に組み込まれた後は、それら宗教や思想は、ひたすら現状維持に貢献する支配共認に変質する。  
020605    
   以上からも明らかな様に、古代宗教と近代思想は、全く同じ現実捨象→幻想収束の認識パラダイムの産物であり、従ってその効用も同じである。少なくとも近代思想は、その現実捨象の認識パラダイムにおいて、宗教を一歩も超えていない。だから、近代思想は宗教であり、麻薬である。ただ、近代思想が古代宗教と異なるのは、次の点である。古代宗教が本源価値に立脚しているのに対して、近代思想は、一方では性的自我や抜け駆け性闘争(性市場)や私権闘争(商品市場)という現実に立脚し、もう一方では本源価値風の欺瞞観念に立脚している。近代思想が観念に立脚するのは、ムキ出しの自我や性闘争のままでは共認が成立しないからである。人々に共認される為には、醜い現実を捨象し、本源風に美化しなければならない。でなければ、思想として成り立たない。しかも、顕在意識は常に醜い現実の方を捨象し、美化された欺瞞観念に収束する。だから、近代思想はそれが集団破壊を究極の目的とする性的自我に基づくものであることも、その最大の価値たる自由な性=恋愛が規範破りの抜け駆け性闘争であることも、それら一切の真実を捨象し、真の現実から目を背らせる。むしろ、それら真の現実から目を背らせ、それを本源風の欺瞞観念で美化し正当化することによってその醜悪な現実を覆い隠すことこそが、近代思想の唯一の存在理由なのである。従って、その思想(欺瞞観念に収束した顕在意識)と現実(醜い自我や性闘争や私益闘争に収束した肉体存在)とは完全に断絶しており、もし思想と現実(意識と存在)を同じ地平で突き合わせれば、その思想は忽ち瓦解して終う。要するに近代思想は、一から十までその全てが人々を欺いて共認を形成する為の詐欺観念で構成されている。だから近代思想は、その全体が人々をペテンに嵌める為の詐欺思想である。