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ハ.私婚関係から私権の共認へ  

ハ.私婚関係から私権の共認へ    
020301    
   パンドラの箱を開け、性闘争=縄張り闘争を顕現させて終った以上、そして本源集団を解体し、本源共認を破壊して、モグラの性闘争=縄張り闘争の本能の次元まで後退して終った以上、人類は原猿と同じく雌雄解脱共認の形成から共認を再構築してゆくしかない。ところが、掠奪闘争によって人類の雌雄関係=婚姻関係は、一変して終った。本源集団が破壊され、性=婚姻の相手を定めていた婚姻規範が消滅して終った結果、性=婚姻は私的な選択に任されることになって終ったのである。性が、無政府的で本能的な性闘争に任されることに成ったとも言える。  
020302    
   しかし、性の私的な選択の場では、男女の性闘争本能の強弱差から、必然的に女の性に強い価値が生じる。しかも、闘いが無くなり生産基盤も安定してくると、男たちは解脱収束を強め、性欠乏を更に肥大させてゆく。他方、私的な婚姻関係は、女の性的自我をますます肥大させてゆく。そこで、本源集団=母系集団という安定した存在基盤を失い、性的自我に収束した女たちは、性を武器にして己の存在権を確保する方向に(つまり自ら性の商人となる方向に)、可能性収束=性的需要収束してゆく。そして、男たちを挑発しつつ性封鎖(供給制限)して、自分たちの性が「滅多なことでは売れない」「この上なく高価なものである」という性幻想を捏造する。何しろ女は、自分で自分を「至上のもの」と思い込んだら終いで、男たちは女の思い込みに基づくこの期待に応望しようとすれば、女と同じ様に「至上のものなんだ」と思い込み共認するしかない。こうして、性的商品価値(=性資本)の共認がいったん形成されると、それを手に入れる為に男は、女の好き嫌いやあれこれの要求にも迎合し、女に合わせて同じ様に思い込み共認してゆくしかなくなる。しかも、それは最基底の男女解脱共認であり、それを覆すことはもはや誰にも出来ない。  
020303    
   権力とは、否も応も無く人々を従わせることのできる力であるとすれば、女の性資本(性的商品価値)や選択権は、紛れもなく男たちを否応なく従わせることのできる権力=性権力であり、この権力を共認した以上、全ての男は否応なく女(性権力)に迎合せざるを得なくなる。この女の性権(性資本)こそ私権の原点を成すものである。もちろん、人々を否応無く従わせることの出来るもう一つの権力=男たちの武力との力関係によって、必ずしも常に性権力が絶対者に成る訳ではない。しかし、男たちが解脱(性)収束を強めてゆくにつれ、性権力は武力をも凌ぐ力を持つ様になってゆくのである。  
020304    
   決定的だったのは、勝ち進んできた掠奪部族が、最後に豊かな土地を手に入れ、農耕部族(小国家)に転身していった局面である。そこでは当初、土地は部族の共有物(=王の占有物)であり、(元)将や兵は役割分担として夫々の土地を管理しor 自ら農耕に当たっていた。しかし、各土地毎の役割分担は、忽ち管理者たちの占用権→占有権に変質してゆく。だが、闘争存在≒集団存在たる男たちだけなら、あくまでも役割分担として(必要なら配置替え=土地替えを行って)統合することも出来た筈であり(それが出来れば、その方が集団統合力は強くなる)、それが出来ずに占有権に変質していったのは、闘争=集団共認とは全く別の(むしろ、集団統合に対する遠心力・分解力ともなる)私的な男女解脱共認が強く働いた結果である。  
020305    
   もともと反(闘争)集団性が強く生殖⇒安定志向の強い女たちは、性を武器に己の存在権を安定確保すべく、私有要求を強めてゆく。他方、男たちは女の性権力に迎合せざるを得ず、従ってその要求にも迎合せざるを得ない。しかもそれは、女の期待に男が応える男女解脱共認の形となる。かくして、性権力に主導された男女解脱共認を通じて女たちの私有要求が貫徹された結果、占有権の共認が形成された。しかも、その私有要求⇒占有権の共認は雌雄解脱共認に基づくものであるが故に、社会の最基底の共認と成って確立されていった。但し、武力に基づく占有力そのものは闘って得られる男原理の力であり、それを占有権に換骨奪胎したのが性権力を武器とする女原理である。男は力、女は権、この男と女のせめぎ合いが、私権社会の在り様を、根底的に規定している。  
020306    
   私的な男女解脱共認を最基底の社会共認とし、その私的な婚姻関係を基底単位とする以上、私権(性権→占有権)に基づく私的婚姻=私有婚が社会の基底的な制度として共認されてゆくのは必然である。かくして、元々の遊牧部族の勇士嫁取り婚は、農耕に転身して以降は、私権(占有権)に基づく一夫多妻制へと変質していく。そして、戦争が無くなり戦死する男がいなくなると、世代交代の度に(解脱収束し性欠乏が肥大した)息子たちに土地を分割して与えざるを得ず、土地が小さくなると多数の妻を養うことができなくなる。従って、土地占有権に基づく一夫多妻制は、世代交代の度に土地が細分割されて、必然的にかつ急速に(3~4世代で)、一夫一妻制=一対婚に移行してゆく。更に、それ以上小さく分割できなくなると、次男以下は嫁をもらえなくなっていった。(農耕に転じなかった遊牧部族が一夫多妻のままであるのに較べて、農耕国家の一夫一妻は対象的に見えるが、どちらも私権に基づく私有婚、つまり、男が女を買い取り私有するという婚姻制の本質は同じである。)この、多妻から一妻への移行は、女の自我(独占欲)と性権力(好き嫌い、選択権)を決定的に増大させて終う。この様な女の性権力の肥大期が、小国家都市国家)の成立前後から統一国家(巨大帝国)の支配秩序が確立されるまで、三〇〇〇年から二〇〇〇年もの間、続いたのである。(注:日本人は、この様な時期を、殆ど経験していない。)  
020307    
   今日、一対婚はあたかも人類の始原からそうであったかの様に、思われている。あるいは、初めはそうではなかったとしても、ごく自然に、一対婚という「あるべき形」に移行してきたのだと信じられている。(例えば、サル学者の中には、何とか一対婚家族の萌芽を見つけようという偏見に満ちた問題意識を持ってサル集団を研究している者さえ、多数いる始末である。)だが、それは大きな誤りである。事実は全く逆であって、一対婚は女と男の性的邪心を源泉とする掠奪闘争の帰結として、掠奪国家によって作られた私権(性権と占有権)に基づく婚姻制であり、かつ世界中が自然に移行したのではなく、掠奪国家が人口の過半を占める採集部族をはじめ全ての平和な部族を皆殺しにし、あるいは支配することによって強制的に普遍化されていった婚姻制である。  
020308    
   なお、この点でも日本は特筆に値する文化基盤を持っている。日本人は長い間、採集部族として総偶婚(それも、最も原始的な兄妹総偶婚)を続け、一七〇〇年前に朝鮮からやってきた侵略部族に支配され統一国家が形成された後も、長い間総偶婚の流れを汲む夜這い婚を続けてきた(夜這い婚は、昭和30年頃まで一部で残っていた)。国家権力によって上から押し付けられた一対婚が庶民に定着するのは江戸時代中期からであり、現在までわずか三〇〇年間ぐらいしか経過していない。婚姻様式が社会の最基底に位置するものであることを考える時、この総偶婚のつい最近までの残存(or 一対婚の歴史の浅さ)は、日本人の心の底に残る縄文人的精神性を物語る貴重な文化基盤である。  
     
  ニ.私権の強制圧力と私権統合    
020401    
   ともあれ、人類は生存圧力に基づく同類闘争をいったん私権統合(国家)によって止揚した。しかし、それによって生存課題の全てが私権課題へと収束し、生存圧力の全てが私権圧力に姿を変えて終う事になる。(生存圧力は、絶えず本能(特に危機回路)を刺激し続けるが、私権圧力が直接に刺激し続けるのは自我回路であって、本能回路ではない。しかし、私権圧力は根源的にはモグラの性闘争=縄張り闘争の本能に発しており、私権刺激は間接的に性闘争=縄張り闘争本能を刺激するので、肉体的・本能的な圧力として作用する。)  
020402    
   私権(性権→占有権)の共認によって、社会の全ての財は私権(占有)の対象となり、人々は私権を確保しなければ生きてゆけなくなる。つまり、バラバラにされた個体の性闘争・私権闘争は、私権の共認を媒介として私権の強制圧力(それがないと生きてゆけない、否も応も無い絶対強制力)を作り出す。しかも、武力による収奪や資力による搾取によって作り出された貧困(=絶対的な生存圧力)は、私権の強制圧力を何倍にも強化し、絶対的なものにしてゆく。かくして国も、藩も、家も、個人も、全ての存在が私権(の強制圧力とそれへの収束)によって統合された私権統合の社会が形成された。そこでは、誰もが私権の獲得を目指して争い、互いに警戒心の塊となって、醜い自我に収束する(但し、絶対的な強制圧力が働いているので、近代の様に自我肥大はしない)。  
020403    
   この、私権闘争⇒私権の共認は、強制圧力を伴って私権序列の共認へと収束し、更に生涯固定の身分の共認へと収束する。それによって、私権闘争ははじめて統合され得たのであり、私権序列⇒身分序列こそ、私権統合の中枢を成すものである。かくして、財を収奪し、蓄積し、占有した少数の支配階級(持てる者≒消費階級)と、財=私権を奪われ、それ故に彼らの命に従うしかない多数の生産階級(持たざる者=働くしかない階級)との二大身分が、生涯→末代まで固定された身分社会が出来上がった。  
020404    
   ここでは、性闘争は(私権の共認によって)私権闘争へと収束し、更に私権闘争は身分序列へと収束する。従って、身分序列の私権統合が確立したことによって、一対婚も国家統合の基礎を成すものとして、身分序列に連なる家父長権(=占有権)の下に完全に組み込まれてゆく。そして、家父長によって娘の性の自由や選択権が封鎖された事によって性権力は衰退し、女たちは貞操や献身etc.一対婚規範(私権に基づくものではあるが、国家および家≒氏族の集団規範である)の下に収束して、ようやく集団に適応した存在に戻っていった。この期間が古代末から中世末まで、概ね二〇〇〇~一〇〇〇年ぐらい続いた。(注:日本は、概ね八〇〇年ぐらいである。)  
020405    
   ところで、私権社会では、言うまでもなく私権の確保が万人にとって第一義課題であるが、私権そのものは最終目的なのではない。最終目的は消費と遊興(平たく言えば遊び暮らすこと)であり、それこそが私権確保の目的である。集団を破壊した以上、もはや真の共認充足は不可能であり、私権が手に入れられるのは消費充足と遊興充足、そして究極的には支配充足しか無い。従って、私権社会では、最終目的たる「遊び暮らせる身分」を保障された消費・遊興階級こそが最終的な勝利階級であるが、その様な身分を手に入れる道は二つある。占有権力に基づく国家共認によって保障された身分(貴族や官吏や僧侶・学者や地主・資産家)と、性権力に基づく男女共認によって保障された身分(女と子供)である。これら遊興階級=勝利階級は、何れもその身分を権力によって保障されており、従って支配階級である。むしろ支配階級とは、権力に基づく共認によって支配or 遊興or 消費できる身分を保障された勝利階級であると定義した方が、分かり易い。  
   
ホ.性権力と占有権力のせめぎ合い    
020501    
   ここで、二つの支配階級が存在するのは、私権の強制圧力を主圧力とする占有権力の統合力が、絶対的な自己矛盾を孕んでいるからである。望み通りに統合が実現され、身分が盤石なものになると、彼ら自身には生存圧力が働かなくなり、忽ち生存課題が捨象されて解脱収束を強めてゆく。課題(≒闘争)捨象して解脱(≒性)収束した以上、闘争過程から生まれた占有権力より解脱過程から生まれる性権力の方が上位になってゆくのは、必然である。かくして、闘争捨象⇒解脱収束した男(=占有権力)の目的の位置に女(性的商品価値)が鎮座し、占有権力は性権力の下に従属するものとなる。逆に言えば、女(性権力)にとって男(占有権力)は、どうにでも懐柔できる下僕となる。だから、性権力 > 占有権力というパラダイムは、女の自我を肥大させ、依存収束を依存要求(それは依存捨象の自我収束に他ならない)に換骨奪胎して終う。そして、半ば無意識に男を懐柔し、操縦し、支配する様になる。現に5千年前、メソポタミアに初めて都市国家を建設したシュメール人は、その数百年後には早くも「山の神(=女房)」に抑えられてどうすることもできない男たちの嘆きの詩を石碑に刻んでいる。  
020502    
   占有権力は闘い取って得られる男原理の権力であり、性権力は男を懐柔することによって得られる女原理の権力であるが、両者の力関係は、生存圧力→私権圧力の強さによって大きく入れ替わる。私権圧力が絶対で私権の確保が困難な時には、女・子供は私権(家父長権)に従わざるを得ず、性の自由と性権力は封鎖される。しかし、身分によって私権の確保が保証された支配階級の内部では、彼らが解脱収束してゆくことによって、しばしば占有権力よりも性権力の方が強くなる。そして、現代の様に貧困が消滅し私権の確保が容易になると、占有力(男原理)よりも性権力(女原理)の方が強くなり、占有権力と男原理は去勢されて終う。  
020503    
   問題は、何れにしても本源集団が解体されたままであり、従って性が私的な選択に任されるというパラダイムは、不変だということである。確かに、生存圧力や闘争圧力が強い時には、女自身の性の自由は封鎖されてきた。初期掠奪集団では、男たちの武力によって女の性の自由は粉砕されたし、中世封建社会では、諸国が群立する緊張圧力の下、統合力を高める必要から不倫のタブーetc.宗教や規範の確立→身分制の確立が進み、女自身の性の自由は身分制に連なる家父長権(大きくは私権統合力)によって封鎖された。しかし、性=婚姻の相手を定めた集団規範が形成されない限り、たとえ女自身の性の自由を封鎖しても、性が私的な選択に任されるというパラダイムは変わっていない。このパラダイムの下では、性権力を女自身が持つか、家父長が持つかの違いがあるだけで、性が私的な選択に任されている以上、女に属する性権力(女の性的商品価値や女側の選択権)の共認が時と共に強まり、基底的な支配共認として絶対化されてゆくという流れは変わらない。  
020504    
   事実、掠奪集団も少し安定すると(まして第二世代の息子や娘たちの代になれば)、忽ち男の解脱収束が強まり、女自身の性権力が形成され始める。そして、それ(性の自由や選択権や商品価値)は、掠奪集団→都市国家(例えばメソポタミアシュメール人ユダヤ人)→古代帝国(例えばローマ人)を通じて強くなってゆく。封建社会では、規範(or 宗教)の確立etc.によって女自身の性の自由は封鎖されたが、しかし私婚(私的な選択に任された、私的な婚姻関係)の共認は規範の確立によってより強くなっており、従って性権(性的商品価値や選択権)は娘から家父長に移っただけで、性的商品価値や私的な選択権の共認は、むしろ強化されている。従って、これら私権規範によって私的な男女解脱共認はより強化され、それを基盤とする私権(占有権)の共認も、より絶対化されている。要するに、性権力を核とする男女解脱共認と占有権の共認は、掠奪時代・古代・中世を通じて一貫して強化され、絶対化されてきたのである。  
020505    
   そして、外圧が低下し、男たちが闘争捨象⇒解脱収束する度に、性権力が強化され、強化された性権力に基づく女主導の男女解脱共認が、社会の最基底の支配共認としてはびこっていった。それは、貴族をはじめ支配階級全般に及び、更に都市住民全般に及んでゆく。そして、いったん女原理の支配共認が芽生えると、それが一段と闘争捨象⇒解脱収束を強めさせるので、ますます女原理の支配共認が強くなってゆき、その悪循環で(破滅的な闘争圧力でも働かない限り)もはや歯止めが効かなくなる。事実、近世から現代までは一直線に、かつ止まる所を知らず性権力とその支配共認が肥大してゆく過程だったのである。  
020506    
   しかし、この支配共認は極めて見え難い。男たちは、この上なく高価な性を手に入れる為に自ら進んで女に迎合し、納得づくで女の要求を受け入れ、それを共認しているからである。だが、本当に共認しているのなら、後で嘆いたりしない。そもそも、男は男同士の闘いに勝つ事によって女を獲得してきた動物であり、女の思し召し(好き嫌い)に迎合共認すること自体が、男の本意に反している。男は、性を武器とする女の性封鎖によって否応無く、恐ろしく高価な性的商品価値を共認させられ、その意に反して女の私的選択権を共認させられて終ったのであり、その結果が際限のない性権力とその支配共認の肥大化である。  
020507    
   要するに誰もが当然のことと思い込んでいる好き嫌いや恋愛や男女の私的関係は、私権時代に固有の性的自我が作り出したものであり、そして反集団に根差すこの性的自我こそ、集団や国家を破壊してゆく元凶である。しかもこの悪魔は、常に美しい幻想で身を包み、その正体が極めて見え難い。だが、私権時代の男たちは、そうとも知らずに自らも性的自我(独占欲)の塊りと化して女の尻を追いかけまわしてきた(しかも頭では女を軽視し続けながら)。その結果が、今日の女支配=性権力支配を招いたのである。  
020508    
   もちろん、これらは全てパンドラの箱を開け、性闘争を顕現させて終った私権時代のみに固有の現象であって、集団規範によって性が律せられ、女たちが依存収束⇒首雄収束していた五〇〇万年に亙る人類本来の男女の在り様からは、著しく逸脱して終っており、その逸脱=性権力支配が、やがて人類を滅亡の淵に追い込むことになる。  
   
ヘ.支配共認=権力の共認と表層観念の共認    
020601    
   性権力に基づく男女解脱→役割共認であれ、武力→占有権力に基づく私権の共認→身分の共認であれ、支配階級は常に、権力に基づく共認を基底的な社会共認(国家共認)として形成し、その社会共認によって、自らの権力と身分を盤石なものとして確立する。権力に基づく共認が基底的な社会共認となるのは、私権闘争が自分以外は全て敵とする(共認の余地のない)自我と自我の激突であり、従って私権闘争は否も応もない絶対的な力によってしか制圧=止揚できないからである。それ故、私権闘争を制圧・止揚した権力の共認が、秩序形成の上で最基底の社会共認となる。性権力はもっと複雑だが、本質は同じである。占有権力も性権力も共に私権である事には変わりがなく、男と女の私権闘争において占有権力を性権力が上回った以上、当然、性権力の共認が占有権力の共認を凌いで最基底の社会共認となる。(もともと性闘争は、男同士の間の力=占有権力によって止揚されていたが、その占有権力を性権力が上回ると、性闘争も性権力によって止揚される様になる。)何れにしても、まず権力そのものたる「性権=性的商品価値と私的選択権」の共認や「占有権」の共認が強制的に(否応無く)形成され、それを核にして、男女役割の共認や身分の共認が形成されてゆく。この様な私権時代固有の社会共認を、支配共認と呼ぶ。支配共認という言葉には、それが権力の共認に基づいているという意味と、それ以外の認識が全て排除され共認内容がそれ一色に染め上げられて終うという、二重の意味が掛け合わされている。  
020602    
   支配共認はそれに止まらず、更にその権力を正当化する為に、無数の架空観念(幻想観念)を生み出し、それらをも社会共認としてゆく。つまり、肉体を直撃する様な深層の共認である性権力や占有権の共認の上に、本源価値を幻想観念化した本源的架空観念(古代宗教や近代思想)の共認を形成して支配共認の全体が構成されており、真実=深層の権力の共認を架空観念の表層共認がスッポリ包み込んでいる。もっと正確に言うと、深層の権力の共認は否応無しの絶対的共認≒不快な、認めたくない共認であり、そうであるが故に自己正当化できる様に幻想観念化されたのが表層共認である。従って、人々は心地よく酔わせてくれる架空観念に浸って、真実(=権力の共認)をあえて見ようとはしなくなる。  
020603    
   それは、サル・人類が解脱動物だからであり、とりわけ共認を唯一の武器として進化してきた人類は、異性や仲間や集団との共認充足なしには生きられない動物だからである。ところが、性闘争→私権闘争→私権統合によって本源集団は解体されて終ったので、失われた本源価値(異性や仲間や集団との共認充足)を幻想観念化して、頭の中で共認充足するしかなくなって終った。しかも、その様な幻想観念(古代宗教や近代思想)を創り出した思想家たちは、本源価値を破壊した、本源価値の対立物たる現実を否定し、反現実or 脱現実のベクトルに貫かれた非現実の地平に、本源価値を再生する幻想観念(「神」や「人間」や「自由・平等・博愛」やそれらを具有した「個人」や、それらを実現する「民主主義」)を構築した。従って、現実否定から出発し、現実から目を背らせた上で成立している古代宗教や近代思想は、初めから現実を変革できる筈もなく、現にそれら(例えば神の世界や自由・平等・博愛を具有した個人)が実現された例しがない。  
020604    
   それでも人間は共認充足なしには生きられず、頭の中で自己正当化をはじめとする様々な解脱充足を得る必要から、本源価値を幻想観念化した古代宗教や近代思想は、強く共認されていった。性権力や占有権力などの権力の共認こそが人々が肉体化している現実の共認である以上、古代宗教や近代思想はあくまでも頭の中だけの表層共認に過ぎず、突き詰めれば、脳内を充足させる為の解脱剤でしかない。しかし、それでも人々がそれを必要としており、それ故にそれが社会共認と成った以上、それは共認動物の社会統合上、頂点に君臨する事になる。従って、それら古代宗教や近代思想は社会統合上の絶大なる力を獲得し、僧侶や学者は支配階級の一員となる。支配階級から見れば、はじめから現実を変革する力などなく、むしろ私権の核を成す家族や恋愛を美化して人々を共認統合してくれる幻想観念は願ったり適ったりで、自分たちの身分を脅かさない限り有り難く利用すべきものであり、僧侶や学者の方は、私権(身分)を求める存在(深層意識)と現実を捨象した意識(表層観念)は初めから断絶しているので、彼らの主張が認められ、かつ高い身分が保障されるとなれば願ったり適ったりで、両者の思惑はピッタリ一致する。こうして、いったん支配階級の中に組み込まれた後は、それら宗教や思想は、ひたすら現状維持に貢献する支配共認に変質する。  
020605    
   以上からも明らかな様に、古代宗教と近代思想は、全く同じ現実捨象→幻想収束の認識パラダイムの産物であり、従ってその効用も同じである。少なくとも近代思想は、その現実捨象の認識パラダイムにおいて、宗教を一歩も超えていない。だから、近代思想は宗教であり、麻薬である。ただ、近代思想が古代宗教と異なるのは、次の点である。古代宗教が本源価値に立脚しているのに対して、近代思想は、一方では性的自我や抜け駆け性闘争(性市場)や私権闘争(商品市場)という現実に立脚し、もう一方では本源価値風の欺瞞観念に立脚している。近代思想が観念に立脚するのは、ムキ出しの自我や性闘争のままでは共認が成立しないからである。人々に共認される為には、醜い現実を捨象し、本源風に美化しなければならない。でなければ、思想として成り立たない。しかも、顕在意識は常に醜い現実の方を捨象し、美化された欺瞞観念に収束する。だから、近代思想はそれが集団破壊を究極の目的とする性的自我に基づくものであることも、その最大の価値たる自由な性=恋愛が規範破りの抜け駆け性闘争であることも、それら一切の真実を捨象し、真の現実から目を背らせる。むしろ、それら真の現実から目を背らせ、それを本源風の欺瞞観念で美化し正当化することによってその醜悪な現実を覆い隠すことこそが、近代思想の唯一の存在理由なのである。従って、その思想(欺瞞観念に収束した顕在意識)と現実(醜い自我や性闘争や私益闘争に収束した肉体存在)とは完全に断絶しており、もし思想と現実(意識と存在)を同じ地平で突き合わせれば、その思想は忽ち瓦解して終う。要するに近代思想は、一から十までその全てが人々を欺いて共認を形成する為の詐欺観念で構成されている。だから近代思想は、その全体が人々をペテンに嵌める為の詐欺思想である。  
   
 
    ト.性市場→商品市場の発生と繁殖    
020701    
   古代・中世・近世を通じて、また西洋でも東洋でも、その身分によって生存を保障され、生存圧力を捨象した支配階級は、忽ち解脱収束して性欠乏を肥大させ、宮廷サロン(=規範破りの自由な性市場)で遊興に明け暮れる只の消費階級に堕落してゆく。(従って、彼らは必然的に滅亡して新興勢力に取って代わられたが、その新興の支配階級も忽ち堕落していったので、性市場は絶えることなく続き、戦乱も繰り返し起こり続けた。)  
020702    
   この消費階級の主役は、宮廷サロン=規範破りの自由な性市場で性的商品価値=性権力を獲得した、支配階級の女たちである。国家に集積された巨大な富を消費する消費階級が存在する以上、その消費の場=性市場に、私権の獲得を狙う遊牧集団etc.が交易集団に姿を変えて、金・銀・宝石や毛皮・絹織物etc.を持って群がってくるのは、必然である。つまり、私権の強制圧力は、必然的に支配階級⇒堕落した消費階級を生み出し、自ら働く事なく遊興に明け暮れる消費階級は、その性市場を母胎にして、必然的に(私権の強制圧力に追い立てられて働くしかない)生産階級に商品市場を作らせる。ここで最も重要なことは、『市場の真の主は、市場の外にいる』という点である。市場の真の支配者は、国家や性市場の中に、支配階級=消費階級として存在しており、彼らは直接に市場の建設を担ったりはしない。市場の創出と拡大を主体的に担うのは、私権の強制圧力に追い立てられて働くしかない生産階級自身なのである!  
020703    
   更に中世末、ヨーロッパ半島や島国日本では、封建体制を統合する中央集権の体制を固めることができたことによって、各国の統合状態が安定する。そして、中央集権による安定した平和状態が二〇〇~三〇〇年続き、戦争圧力が著しく低下する。それに伴って闘争第一の男原理が衰退し、解脱収束→軟弱化が進んで、規範破りの性闘争(=恋愛)が勢いを得、自由な性市場が繁殖してゆく。近世には都市全域が性市場化し(例えばルネッサンス人間主義、その中心は性であり、その象徴が「ロミオとジュリエット」や「曾根崎心中」である)、人間主義恋愛至上主義に導かれたその巨大な性市場を母胎として、急速に交易市場が拡大していった。  
020704    
   市場拡大という新たな富の源泉を発見した国家(支配階級)は、自ら市場拡大へと可能性収束してゆく。とりわけ西欧列強は、南北アメリカ大陸・アジア大陸・アフリカ大陸の未開部族や後進民族を虐殺(アメリカでは皆殺しに)して世界中の富を掠奪し、掠奪した富を源泉にして市場を急拡大させる事に成功した。市場拡大競争は、生産性上昇への期待圧力を生み出すと共に、列強間の戦争圧力をも生み出し、両者あいまって(主要には戦争圧力が)科学技術の進展を促す。そして、科学技術の発展は更に市場拡大を促すという、拡大再生産を実現してゆく。もちろん、それら全てが私権闘争⇒私権の強制圧力(とりわけ貧困の圧力)を大前提としていることは言うまでもない。  
020705    
   また、性市場の猛烈な繁殖は、自由な性(=恋愛)の称揚から個人主義と自由・平等・博愛の思想を生み出し、それらを下敷きにした市場の拡大=商人や労働者の拡大は、旧支配階級を打倒する必要から、民主主義の思想を生み出した。それらに導かれて、近代社会=市場社会=工業生産社会=民主主義社会が形成されたが、しかし市場や工業生産や民主主義(という言葉)は、決して近代社会の真髄を語ってはいない。それら全ては、規範破りの自由な性市場の繁殖に基づいており、そこにこそ近代の真髄がある。即ち近代とは、近世にはじまる規範破りの性闘争→性市場がそのまま繁殖し続け、それにつれて性権力=女原理が、共認を始め社会を全面侵触→全面支配してゆく時代である。  
020706    
   そして、最も恐ろしいのは、武力闘争や身分序列が、基本的に力で目的を達成しようとする男の方法論(正攻法)なので、反撥を生み(活力を衰弱させることがなく)、問題が見え易い(対策を考えることが出来る)のに対して、私権の共認や市場の共認は性市場や男女解脱共認を母胎としており、従って基本的に懐柔して納得づくで目的を達成しようとする女の方法論(懐柔法)なので、反撥が生じず、問題が殆ど見えないという点である。哀れな生産階級は、私権を共認している以上、私権闘争をも主体化せざるを得ず、豊かさ要求を共認している以上、市場拡大や利益競争をも主体化せざるを得ず、かくして否も応もない疎外労働にひたすら明け暮れることになる。だが、「暑いのでマントを脱いだ」旅人の様に、それが自分の意思であり、自分自身であると思い込んでいるその「自分」は、支配階級=消費階級(根源的には邪心存在)によってそう思うべく仕組まれ、囲い込まれて作られた自分なのである。これは、実に大掛かりなペテンである。(そういえば、ヒトラーは、「嘘は大掛かりであればあるほどバレ難く、真実らしくなる」と言っていたが、「資本論」に全力を傾注し、市場の中に真の原因を求め続けたマルクスなどは、頭のテッペンからツマ先まで、完全にペテンの術中に嵌まった事になる。哀れ。そして何と恐ろしい。)  
     
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チ.性権力を正当化する欺瞞思想    
020802    
   性闘争=恋愛の主体は当然個人であり、その個人は、当然規範から自由でなければならない(何しろ規範破りの性闘争なのだから)。そこで、恋愛が至上のものとして共認され、自由な性市場が繁殖してゆくと、下司な迎合男(近世・近代の思想家)たちが、活力溢れる性市場に幻惑されて(何しろ、そこは社会の最基底の男女共認が形成される場である)、「個人こそ社会の原点であり」、「自由こそ最も大切な価値である」などと主張して、現実には性市場にしか実在しない、個人や自由を社会全体の原点や価値にスリ替え、この事実に反するとんでもない架空観念が性市場の繁殖と共に広く行き渡って、社会共認となって終った。こうなると、モテない男まで「我思う。故に我在り。」などと訳の分からないことを呟いて、個人主義自由主義に加担してゆく。言うまでもなく、性的自我こそ、人類を滅亡に導く邪心の源なのであって、それが人間存在にとって原点である根拠やましてや至上のものである根拠など、どこにも存在しない。同様に、「個人が原点である」根拠などどこにも存在しないし、「自由が最高である」根拠もどこにも存在しない。それどころか、それらの観念は悉く生命存在の摂理や人間存在の事実に反した嘘(or 幻想)であり、そこにあるのは邪心存在にとってはそう思い込んだ方が意識を統合し易いという自我の思い込み(=自我統合)だけで、事実に基づく根拠など一切無い。(考えてみれば、既にこの段階で、共認動物たる人類の滅亡は刻印されていたのである。)  
020803    
   但し、ここで「思想家」という者の特性に触れておく必要がある。近代思想を作ってきたのは、一般に現実に対する否定性(不安や不満)が強く、それ故に自我収束→観念収束の強い観念タイプの人間、もっとはっきり言えばかなり偏った人間である。従って近代思想には、常にどこか病的で虚弱な観念主義の臭いが付きまとっている。しかし、病的であれ何であれ、その観念が女の性的自我や社会的存在理由を正当化してくれる都合の良い観念でありさえすれば、それは共認され、支配共認となる。その様にして近代思想は形成され、共認されていったのである。  
020804    
   この様にして、女(と迎合男)たちが恋愛(性闘争)や性権力の共認を男女解脱共認=最基底の支配共認として確立した以上、自由主義個人主義をはじめ、全ての社会共認が女原理一色に染め上げられてゆくのは必然である。ところが、生殖存在たる女は元来、貯蔵や豊かさ志向etc.身の安定を求める傾向が強いが、他方の闘争集団への収束力は貧弱で、従って依存性が極めて強い。しかも性的自我の本質は、反集団性・反規範性に、つまりは反社会性にある。だから、集団や社会の為に何を成し得るかという発想は皆無で、専ら自分の為に社会は何を成すべきか(してくれるか)という発想しか出てこない。そんな存在が、役割規範を破棄して性的自我に収束すれば、『集団や社会をどうする』という視点など完全に欠落し、専ら集団や社会に対して、豊かさや安定や保障を要求するだけの要求の塊と化して終う。つまり、集団=自己(集団あっての自分)という自然に則した存在原理が、集団捨象の自我収束によって徹底的に排除され、あるのは他者否定と自己正当化の塊たる自我と要求だけとなる。  
020805    
   しかし、剥き出しの自我では人々に共認されない。社会に要求する以上、それがあたかも本源的要求であるかの様に見せかけなければならない。そこで、際限なく肥大してゆく反社会的な自我やそれに基づく要求を正当化する為に、もっともらしく幻想観念化した権利という欺瞞観念を捏造した。権利とは、集団捨象の自我→要求をもっともらしく見せかける為の架空観念に過ぎない。だから、近代思想が掲げる権利は、どれを取っても「この権利は絶対である」という根拠など全く何も無いのであって、あるのは己の自我・私権を貫徹する為の一方的な要求だけである。だからこそ、近代思想は権利だけを絶対的なものとして主張し、義務を欠落させているのである。その上、性市場を基盤に絶大なる性権力を手に入れたことによって、女たちの性的自我と、それに基づく豊かさ要求や保障要求は際限なく肥大してゆく。しかも、豊かさが実現されればされる程or 私権が保障されればされる程、性権力を抑圧する私権(占有権)の強制圧力が低下して、性権力は際限なく肥大してゆく。かくして、自我・私権の塊となって性権力の拡大に収束した女たちは、必然的に要求主義・権利主義の塊となる。  
020806    
   しかし、それらは全て人々を欺いて共認を形成する為の欺瞞観念なので、彼らは決して醜い自我の現実には触れないで、美化された幻想観念しか見せないし、見ようともしない。従って、彼らが「個人」とか、「自由」とか、「市場」とか言う時、それは常に現実ではなく、美化された欺瞞観念を指すことになる。つまり、彼らには現実そのものを直視することができない。もし現実を直視すれば、その欺瞞思想は忽ち瓦解して終う。従って、当然のことながら実現されたのは醜い自我(エゴ)の現実のほうだけで、現実離れした、その奇麗事の欺瞞観念が言葉通りに実現されたことは、一度もない。要するに近代思想とは、反集団・反共認の自我を本源風の欺瞞観念で塗り固めただけの代物であり、狼(エゴ)が正体を隠す為に被る羊の皮にすぎない。そこには一片の真理も事実もない。あるのは、ただ欺瞞(or 詐欺)観念だけである。中でも「恋愛」と「個人」と「人権」と「福祉」は、本源価値を踏襲しているかの様に装いながら、その実、中身をすっかり自我や権利に換骨奪胎し、本源価値を破壊してゆく極めて悪質な欺瞞観念である。これほど粗悪で悪質な「思想」は、人類史上に例がない。  
     
リ.性権力と市場主義・民主主義    
020901    
   既に見てきた様に、市場の真の支配者は性権力者=性本階級である。しかも、性本階級は要求するだけであって、現実に市場を拡大していったのは資本階級と生産階級である。この内、資本階級(貴族や地主や大商人。私権の共認によってその財=権力を保障された階級)は、その権力=財の拡大を市場拡大に委ねられており、市場拡大は性市場の主たる性権力者の思し召しに委ねられている。従って、資本階級(国家階級)は、性本階級(性権力者=女たち)の意に従わざるを得ない。資本もなく、私権の強制圧力に追い立てられて働くしかない生産階級が、資本階級の、従って性本階級の意に従わざるを得ないのは当然だが、それ以前に、彼らはそもそも性市場において性権力者の意に沿うべく完全に懐柔されて終っており、だからこそ進んで市場の囚人となった階級である。性権力者に迎合し、その思い込み共認によって囲い込まれた囚人は、もはや市場から出ることを許されず、市場の中でひたすら利益競争と疎外労働に励むしかない。  
020902    
   そもそも女王バチ(性的商品価値)に群がる働きバチ(生産者)という性市場のパラダイムを母胎にして、その上に物的商品価値⇒賃金労働という同じパラダイムを重ねたものが、商品市場である。従って、性市場(性本階級の要求)を母胎にして市場を拡大していった資本階級と生産階級は、性本階級の意に従わざるを得ないのであって、彼らが恋愛と市場拡大(市場主義)の共認に引き続いて、自由主義個人主義を錦の御旗として掲げたのは当然である。従って、重ねて言うまでもないが、自由・個人主義とは性闘争→性市場→市場拡大を正当化する為の欺瞞観念であり、突き詰めれば性権力を正当化し、拡大する為のイデオロギー以外の何物でもない。  
020903    
   しかし、性市場→商品市場を拡大するには、自由主義個人主義だけでは不充分である。資本階級が市場を拡大し、富を拡大する為には、邪魔な束縛(ex. 身分制や通行手形)を断ち切る為にも、有利な利権(税制や商権、更には財投や戦争利権)を手に入れる為にも、国家権力を掌中にする必要がある。しかも、資本階級は少数だが、バックには市場拡大を求める圧倒的な性本階級と、彼女らに懐柔された生産階級がいる。そこで資本階級が打ち出したのが、旧支配階級(身分制の王侯・貴族)を打倒する主権在民の主張、つまり民主主義である。そして、既に性市場で新たな権力を握っていた性本階級(と彼女らに迎合する生産階級)の支持を得て、資本階級のブルジョワ革命(市民革命)は成功する。確かに、民主主義は資本階級が打ち出したものであるが、しょせんそれも豊かさと性権力の拡大を要求する性権力者たちの手の平の上で踊らされたものでしかなかった事が、その後、次第に明らかになってゆく。  
020904    
   既に述べた様に、元々が依存存在で安定(保障)志向の強い女たちが、自我・私権の塊となって性権力を拡大してゆく時、性権力者たちは必然的に要求主義・権利主義の塊となる。もちろん、市場を拡大(=富を拡大)する為には、例えば搾取し過ぎて市場が恐慌(縮小過程)に陥るのを防がなければならず、その為には労働組合法(→賃上げ)etc.を認めざるを得ないし、あるいは市場拡大の為には財政支出の一環として福祉制度を拡充した方が得策である。しかし、資本階級が当初(目先の利益もあるが、それよりむしろ男原理から)それらに反対していた事は紛れも無い事実であり、その彼らが初めはしぶしぶ、今や積極的に人権主義や福祉主義を認めるに至ったのは、要求主義・権利主義の塊と化した性権力者たちの思し召し(専横とも言う)の故以外の何物でもない。  
020905    
   それに対して、民主主義・福祉主義をより強く要求したのは、支配階級ではなく、大衆の方であるという反論と現象事実がある。しかし、大衆と言ってもそれは市場の住人のことであり、市場の住人である以上、(支配階級発の)豊かさ追求⇒市場拡大を自己目的化せざるを得ないのは当然である。また、市場で生きてゆく以上、自らの私権要求を実現すべく民主主義を主張し、福祉主義を主張するのも当然である。更にまた、(支配階級と違って)市場で生きてゆくしかない以上、民主・福祉の要求が(支配階級より)切実になるのも当然である。つまり、より強く要求したからと言って、彼らが主役だという事にはならないのである。(もし本当に彼らが主役なら、とっくに理想社会が実現されている筈である。)  
020906    
   その証拠に、彼らはそもそも市場でしか生きてゆけない様に囲い込まれた市場の囚人であるという、より決定的な事実には何ら異を唱えず、盲目的に従っている。それは、性闘争→性権力→男女共認によって市場(=都市)で豊かな刺激に囲まれつつ、より豊かな生活を目指すことが理想だと思い込んで終っているからであるが、彼らが「それが自分だ」と強く思い込んでいるその目的意識そのものが、実は性権力者によってそう思うべく誘導され、囲い込まれて作られた意志なのである。  
020907    
   あるいは、所有税(ex. 地税)がわずか1%なのに、生産税(法人税)がどんどん高くなり、65%も収奪されるに至っているという事も、顕著な事例である。性本階級やその手先である資本階級(つまり、近代支配階級)にとって、大切なのは蓄積(財or 資本)であり、地税etc.所有税を殆どゼロにして法人税所得税を極端に重くし、生産者(経営者や労働者)から取れるだけ毟り取る様にしたのが彼らであり、(ごく少数の資本階級にそんな事が出来る訳がないので、)真犯人が性権力者たちである事は、疑問の余地がない。  
020908    
   要するに、市場社会の真の支配者は、性権力者である。その母胎を成す自由な性市場や男女解脱共認を通じて、男たちはどうにでも懐柔できる。だからこそ、全ての社会共認は、最終的に男女同権と福祉主義(換言すれば要求主義・権利主義)一色に染め上げられていったのである。  
     
 
第三部:市場時代
     
    イ.支配共認に従う民主国家    
030101    
   民主主義は、私権統合国家の核心部を、(全く実質を伴っていない、形式だけではあるが、)身分制から合議制に変えた。その意義は大きい。合議とは共認であり、国家は社会共認に従う存在となったのである。だが、合議制になったにも拘わらず、なぜ国家→社会は根底から変わらないのか? その答えは、既に明らかだろう。確かに、国家は社会共認に従っている。しかしその社会共認は、全て支配共認なのである。支配共認とは、強制的に(否応無く)形成された「性権力」や「占有権力」、つまり権力そのものの共認であり、それを基盤にして、権力者=支配階級が己の権力や身分を正当化し、維持する為に形成された架空観念(欺瞞観念)の共認である。人々は、その私権を共認し、自由な性=恋愛を共認し、市場拡大を共認し、自由や個人や権利を共認している。そうである限り、私権統合→性権力支配→市場拡大→権利拡大のパラダイムも変わらない。西洋の民主主義は、権力によって否応無く支配共認に染脳されて終った民に主権を与えただけである。あくまでも支配共認の枠の中での合議、これも大掛かりなペテンの一つである。  
030102    
   支配共認に従う存在である以上、民主国家は必然的に性本階級の意のままになってゆく。ところが、性権力者たちの要求は、単に旧支配階級を打倒し、身分制を解体するだけでは止まらなかった。性的自由の本質は、反集団・反規範にある。従って、性権力と市場の相互拡大が進むにつれて、性的自由を抑圧する村落共同体やそこでの集団規範や、更には一対婚規範(婚前交渉のタブーや不倫のタブー)さえもが、徹底的に解体されていった。だが、集団や規範の解体は、人類を致命的な袋小路に追い込んでゆくことになる。  
030103    
   人類の命綱たる共認は、解脱共認と闘争共認で構成されている。女原理の男女解脱共認と男原理の闘争・集団共認でバランスを取っていると言っても良い。確かに、不全課題に対応する解脱共認(中でも雌雄解脱共認)は共認機能の最基底に位置しているが、その上部には個体や集団を超えた超越課題に対応する闘争共認の世界が存在する。そして、自然や外敵や他国との闘争圧力が強くなればなるほど、それら超越課題に対応すべく、集団統合力が強まってゆく。この外圧→闘争→集団の世界は、基本的に闘争存在たる男原理の世界である。そして、農業生産の時代(ほぼ近代初期)までは、自然や他藩との闘争圧力がまだまだ強く働いており、それらの課題に対応する村落や藩などの集団の統合力もまだまだ強かった。つまり、女主導の男女解脱共認によってどれだけ強く性権や占有権に収束しようとも、決して捨象できない、男女解脱共認を超えた外圧と超越課題が存在していた。従って、いかに私権第一とは言え、何よりもまず国や藩や村落の集団課題や集団規範に正面から対応しなければ、私権を確保することも維持することも出来なかった。言い換えれば、己の私権を超えて、考えなければならない外圧や超越課題や集団規範が存在していた。  
030104    
   だが、反集団の性的自我を原動力とする性市場→商品市場が社会の隅々までをも覆い尽くし、全ての集団が解体されて終った結果、人々は文字通り私権さえ確保すれば生存が保障される様になり、己の私権に関わること以外は、己の属する集団のことも社会のことも何も考えなくなって終った。つまり、性権力によって人類は、己の私権にしか反応しない(それ以外のことには全く反応しない)様に完全に囲い込まれて終ったのである。それにしても、社会のことなど何も考えない様にしておいて、その上で投票させる「民主主義」とは、何なのだろうか。ここにも、西洋式の民主主義の欺瞞性が又一つ、如実に現れている。  
030105    
   村落共同体や集団規範の解体は、外圧・闘争・集団という男原理の全面崩壊でもあった。その結果、存在基盤を失った男たちはますます女に対する迎合を強め、それに伴って社会共認はますます女原理一色に染められてゆく。しかも、女は性的自我に立脚しており、そうである限り女が集団や社会に立脚することなどあり得ない。女たちが「社会」や「権利」を口にする時、常にそれは己の自我・私権を貫徹する為の欺瞞であり、全ては自己を正当化し人々を騙す為の架空観念であるに過ぎない。当然、女の思い込みと要求(性的自我や、性闘争=性市場や、豊かさ=市場拡大)を正当化する為に作られた近代思想も、全てが人々を騙しペテンに嵌める為の欺瞞観念であり、全てが事実に反する嘘である。実際、その欺瞞の仮面を剥がせば、「自由」も「個人」も「権利」も、全てその正体は自我・私権を貫徹する為の思い込みであり、思い込みであるが故に、これほど無根拠で、排他的で、暴力的な観念は他になく、これほど柔軟性のない(都合の悪いことは事実さえ受け入れない)救い様のない固定観念は他にない。  
030106    
   だが民主国家は、この支配共認に従わざるを得ない。つまり国家(自治体を含む)は、性権力(と迎合男)の要求に従わざるを得ない。そうして市場拡大や福祉要求に応え続けてきた結果、国家は七〇〇兆もの借金を抱え込んで終った。これはGDP、つまり国民が1年間働いて稼ぎ出す額を超えた金額である。既に、国家財政は完全に破綻し、今やこの赤字=借金をどう返済するのかを考えることさえ、支配階級を含め全員が放棄して終っている。この様に国家を蝕み、徹底的に集団を破壊してゆく要求主義・権利主義こそ、人類を滅亡させる(その止めを刺す)人類のガンである。自己増殖し続けるこの悪性腫瘍の根が、性闘争(=恋愛)と性権力支配にあることは、言うまでもない。むしろ、性を私的選択に委ねる性市場とそこでの恋愛こそ、人類の悪性腫瘍そのものであると言うべきだろう。この性の私的選択というパラダイムを変えない限り、性権力支配→要求主義・権利主義→人類滅亡の流れは変わらない。とすれば、開けてはならないパンドラの箱を開けて性闘争を顕現させ、全ての動物がその中で育まれ進化してきた(人類もその中で人類に進化してきた)本源集団を破壊して終ったことこそ、自然の摂理に反した人類の最大の誤りだったのである。