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ロ.男女同権論はペテンである    

  ロ.男女同権論はペテンである    
030201    
   真猿以来(人類になって一段と)、存在理由の欠損を深く刻印された女が、最終的に社会的な存在理由の充足を求めてゆくのは当然である。つい二〇〇年前までは(日本では50年前までは何とか)、女たちは皆の期待=集団の中での役割(規範)に収束してその存在理由を充足させてきた。だが、性的自我と性権力で武装した女たちは、本源集団に続いて村落集団をも破壊し、もって全ての集団、全ての規範、全ての役割を破壊して終った。その上で、女たちは改めて性的自我と性権力に基づく社会的存在理由を仮構し、その仮構をテコにして、社会に進出してゆく。  
030202    
   もちろん、自我は共認の敵対物なので、自我に立脚した存在理由=役割充足などあり得ない。そこで、社会の原点として「個人」や「権利」という架空の思い込み観念を措定して、その架空観念を追求することが社会的な「役割」=「存在理由」を充足させることになるというカラクリを捏造した。しかし、専ら架空観念に頼るこのカラクリはいかにも苦しい。だから実際には、否定性(不満や不安)が強く、それ故に幻想観念に収束する必要が強い一部の病的な観念主義者しか、架空の「存在理由」など求めはしない。とは言え、それらの欺瞞観念は性権力という強大な力によって支えられており、性権力者が社会的な存在理由≒自己正当化を必要とする以上、それを満たしてくれる観念に収束してゆくのは、必然である。従って、この一部の歪んだ観念病者の架空観念が、社会共認となってゆく。  
030203    
   「個人」や「権利」という架空観念をテコに社会に進出してゆく以上、女は男と「当然、同格であり、同権である」ことになる。そして同格・同権である以上、依存存在であることや性的存在であることは認め難い屈辱となる。もちろんその屈辱視は、頭の中で架空観念に収束した時だけのことであって、肉体の方は相変わらず依存要求と性権力追求に収束し続けている。つまり、女の肉体と観念は正反対に分裂している。それは、私権時代の女が性を武器として私権を確保するしかない状態に置かれているからであって、現実を欺き肉体を欺く幻想観念によって、性権力をはじめ存在権を確保する為の無数の欺瞞共認を形成し、その欺瞞共認を武器にして生きているからである。かくして自我・私権の塊と化して性権力の拡大を目指す権力主義者たちの最終目的は、「男女同権」によって依存の鎖を断ち切る方向に収束する。そこで性権力者たちは、依存対象≒抑圧者(男であったり、社会であったりする)を目の敵にして、男女同権を唱え、社会に進出してゆく。  
030204    
   だが冒頭で触れた様に、雌雄は、メスが生殖過程を主要に担い、オスが闘争過程を主要に担うことによって調和し、バランスを保っている。つまり、メスが生殖過程の主導権を握り、オスが闘争過程の主導権を握ることで、女と男は平等なのである。現に、女たちは迎合男たちをどうにでも懐柔できる程の絶大なる性権力を手中にしている。だが、男女同権論者たちは、女が生殖過程において既に絶大な性権力を獲得し男を好きな様に懐柔していることについては口を噤んで触れないでおいて、本来男が主導権を持つべき闘争過程≒社会過程の権利だけを平等にせよと要求する。だが、これほど不平等な要求があるだろうか? これでは、男と女の力のバランスが完全に崩れる。これは、極めて悪質な詐欺である。にも拘わらず、性権力に迎合するしかない能のない男たちはそれをも共認し、かくして男女同権が社会共認となって終った。  
030205    
   その結果、男も女も急速に中性化してゆき、男らしさや女らしさが喪われていった。今や、男の本分を考えたこともない男や、女の本分を知らない女が大多数を占めるに至っている。しかし、男の様な女と、女の様な男は、男と女どちらにとっても魅力に欠け、男女夫々の充足を著しく貧弱なものにし、社会全体を殺風景にしてゆく。それより深刻なのは、男女の中性化が、雄雌の差別化という進化のベクトルに完全に逆行していることであり、人類は種として極めて危険な状態に陥ったと云わざるを得ない。事実、男女同権によって男と女の力のバランスが完全に崩れ、社会は性権力の全面支配によって女原理一色に染め上げられて終った。その結果、人類は滅亡への坂道を真っ逆さまに転げ落ちつつある。  
     
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ハ.貧困の消滅→私権の衰弱→性の衰弱    
030301    
   性権力者に主導された民主国家は、(豊かさ要求の産物たる)市場拡大と(要求主義・権利主義の産物たる)福祉制度によって、'70年頃、遂に貧困を消滅させることに成功した。但しそれは、貧困を消滅させるに至った類間の圧力(社会的な力関係)という観点から見た見解であって、自然・外敵圧力と対峙して貧困を克服した直接的な力(物質的な力)という観点から言えば、その主役は科学技術であり、要するに人類は極限時代から営々と蓄積してきた事実の認識→科学技術の進化によって、遂に貧困を克服したのだとも言える。  
030302    
   だが、貧困を消滅させた結果、私権の強制圧力が衰弱し、これまで私権の強制圧力を最大の活力源にしてきた人々の活力も急速に衰弱してきた。それに伴って、国家も企業も家族も個人も、自らを私権の強制圧力によって統合することが難しくなり、遂に3千年に亙って社会を統合してきた私権統合が機能不全に陥って終った。その結果、全ての存在が目標を失い、フラフラと迷走し始めた。更に、性権力の最大の抑圧物であった私権(占有権)の強制圧力≒男原理を去勢したことによって'80年頃には性権力の全面支配が完了し、社会は女原理一色に塗り潰されていった。女支配は子供や男たちを去勢して、(私権の衰弱によって衰弱した)活力を更にとことん衰弱させてゆく。その結果、ますます統合不全が深刻化し、社会の混迷と衰弱は年々ひどくなってきた。とりわけ'90年以降、事態は加速度的に悪化しつつある。  
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   それだけではない。社会を全面支配した性権力は、実はそれ自体では自立して存在する事が出来ない。なぜなら、性権力は自由な性市場を母胎にしており、自由な性(性の自由欠乏)は性的自我を源泉にしている。そして、自我は共認圧力(集団圧力や闘争圧力や規範圧力)に対する否定をバネとする反or 破のエネルギーでしかない。従って、自我を源泉とする性の自由欠乏も、性の抑圧力(上記の共認圧力)に対する反or 破のエネルギーでしかない。換言すれば、性権力の土壌を成す性の自由(欠乏)は、性の抑圧を前提にしている。従って、性権力が集団を破壊し性規範を解体し私権圧力を去勢して、全ての抑圧力を消去させて終うと、自らもエネルギー源を失って消え去るしかない。  
030304    
   性の衰弱は、既に私権が衰弱し始めた'70年頃から始まっている。心中物語に代表される様な、私権の強制圧力との緊張関係から生じる性の自由への強力な収束力が衰弱したことによって、'70年頃から情熱をかき立てる様な恋愛が成立しなくなり、性をムキ出しにした官能小説やポルノ映画が主流に成っていったが、それは性の火(活力)が消える直前の最後の輝き(活力)だったのである。私権の衰弱が顕著になった'90年代に入ると、性はSMや3Pに最後の活路を求め、その刺激にも飽きると、もはややることが無くなって終った。こうして'95年頃から、遂に性の自由欠乏→性闘争(恋愛)そのものが急速に衰弱し始めた。  
030305    
   既に、ネオン街は寂れる一方であり、ムキ出しの淫売屋も客が減り続けている。何よりも、性欠乏が衰弱したので性活力がそこそこ旺盛な年齢は下がる一方であり、今や性の中心は高校生・中学生である。これは、男と女の役割規範やそれに基づく男女の期待・応合や互いの肯定視など、共認に基づく人類本来の性の豊かさが喪われ、もはや物理的・本能的な性欲しか残っていないという事を示しており、実際20歳代で早くも擦れっ枯らしと成った男女が急増している。しかも、私権が衰弱して真っ先に関係耐力(厳しい自我・私権闘争に耐える関係能力)が衰弱して終ったので、互いの自我や要求に対応するのが煩わしくなってきた。その結果、衰弱した性に残された+よりも煩わしさの-の方が上回り、互いに相手を捨象する女捨象や男捨象が顕著になってきた。  
030306    
   性闘争(恋愛)を土壌として肥大してきた性権力にとって、これは致命的である。全ての抑圧力を解体して終った以上、性権力もまた消え去るしかない。だが、私権統合から性権(力)統合へと移行した途端に(or 移行途中で)、当の性権力自身が消滅すれば、社会は全面的崩壊状態に陥る。だがそれは、同じく性闘争を究極の活力源としてきた私権社会が消滅する日と時を同じくする。それは、性権(力)こそが私権の原点であったことからも、当然の成り行きであろう。  
     
ニ.市場の崩壊  
     
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030401    
   しかし、性権力支配は、その前に社会を全面崩壊させて終うだろう。貧困が消滅し、私権の強制圧力が衰弱したことによって、私権圧力(とりわけ貧困圧力)によって人工的に膨らまされてきた物的欠乏が衰弱し、市場は縮小するしかなくなったからである。にも拘わらず、性権力に主導された豊かさ要求や福祉要求etc.の支配共認はそのままなので、市場はバブル化する事によって無理な拡大を続けるしか無い。従って世界市場のバブル化とその崩壊=経済大破局は、もはや不可避である。現に、米・欧の株価は6倍近く(NY1万1千ドル)に超バブル化して終っており、そう成るのを誰も止められなかった(それどころか、大多数の人々がそれを歓迎している)。しかし、バブルは必ず崩壊する。これも、誰にも止めることは出来ない。従って、世界の株価の同時大暴落→世界大恐慌は必至である。つまり、性権力に支配された市場は、もはや大破局という形で爆発的・暴力的に、一気に縮小させられるしかなくなった。ここまでは100%確実で、これは予測というより、疑問の余地のない既定の事実である。  
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   多分、株価が7倍を超え=NYが1万2千ドル前後の段階で、世界バブルは崩壊し、世界大恐慌に突入するだろう。それはおそらく、数年後である。大恐慌なら'29年にも経験している。だが、'29年の大恐慌と21『初頭の大恐慌は、その前提条件が全く違っている。'29年は貧困の圧力が強く働いており、当然生活は貧しく、生活必需品(ex. 一足の靴、一本の傘、一枚の服)に近い様な需要が過半を占めていた(ex. 電器メーカーはテレビではなく電球を作っていた)。従って、大恐慌に成っても需要は3割減程度で留まり、失業者も2割前後で留まっていた。それに物的欠乏が強いので、大恐慌=金融破綻が納まれば、市場は再び力強く拡大してゆく事が出来た。しかし、現在は生活が豊かになり、必要な物は一家に一台以上揃っているし、服や靴に至っては5年ぐらい買わなくても済むぐらい各家庭に大量に備蓄されている。従って、大恐慌に成れば(既に現在の日本人の消費態度が明示している様に、)先行き不安に備えてサイフのヒモを締め、食糧と日用品以外の物は殆ど買わなくなる。従って、需要は一気に7割減まで落ち込み、失業者も5割を超えて終う。これは、市場が過去に経験した事のない事態である。  
030403    
   '29年と21世紀初頭の大きな違いは、もう一つある。'29年は、生産人口の過半が農業に従事していた。大地に根を下ろした農業とその村落共同体は、秩序安定性が極めて強い。たとえ都市=市場の秩序が混乱しても、人口の過半が住む農村の秩序は(貧困→娘の身売りまで追い詰められても)崩れない。むしろ、失業者の何割かを実家=農村が吸収した。要するに、人口の過半が住む農村(農業)という社会秩序の安定基盤、かつ市場破綻の受け皿が存在していた。だが21世紀、農業人口は5%も居らず、村落共同体は破壊され尽くしている。もはや、安定基盤も受け皿も存在しない。  
030404    
   食糧が高騰し、取り付け騒ぎが全銀行を襲い、企業の5割が倒産し、失業者が6割に達するという事態を治めることが、農村(人口)という安定基盤も受け皿もない条件下で、国家や支配階級に出来るのだろうか。彼らは、こうなる事が分かっていながら認識転換できず、従って何の展望もないまま、闇雲に市場拡大を続行してこの事態を招いた。彼らが、何の展望も示せなかったのは当然である。性権力支配(特にその支配共認)による私権の衰弱と性欠乏・物的欠乏の衰弱は、誰にも止めることの出来なかった性権力支配の必然的帰結であり、そして私権および性欠乏・物的欠乏の衰弱とは、性闘争→私権闘争を究極かつ最大の活力源としてきた私権時代の終焉に他ならないからである。つまり、支配階級とその支配共認は、もはや社会を統合する資格と力を失ったのであり、そもそも返済不能な国家赤字=国家破綻が象徴している様に、既に統合不能に陥ったからこそ、この大破局を迎えたのである。  
030405    
   私権圧力=活力の全面衰弱、女原理の全面支配と思考停止、そして財政破綻から経済破局へ、どこから見てもこれは支配階級と支配共認がもはや統合能力を失った結果としての破局である。従って、支配階級→支配共認が、この事態を治め社会=国家を再統治することは全く不可能である。この事態は、支配共認を根底から覆す全く新たな理論が登場し、新たな統合共認が形成されない限り、治められない。従って、このままでは(=支配共認のままでは)全面的に秩序が崩壊し、国家や軍隊も瓦解して、食糧を求める人々が互いに殺し合い、滅亡してゆく可能性が極めて高い。これは予測ではあるが、論理必然的な、(論理に見落としがなければ)100%に近い確率の予測である。おそらく、米・欧・露・中は、その様にして滅亡してゆくだろう。  
     
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ホ.「観念機能、作動せず。」=思考停止    
030501    
   今や、日本人の大部分は不安と閉塞感に囚われ、多かれ少なかれ滅亡の危機を感じ取っている。しかし、感じているだけで何もしようとはしない。誰もが滅亡の危機を感じているのに、誰も正面からこの問題を考えようとはしない。これは、実に奇妙な状態である。社会は、不気味な沈黙に押し包まれ、まるでその時が来るのを待ち望んでいるかの様である。いったい、どうしたと言うのか? なぜ誰も考えず、何もしようとしないのか?  
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   それは、日々が平穏に過ぎてゆき、本能を直撃する様な現在形の危機圧力=生存圧力が殆ど働いていないからである。人類は、これまで五〇〇万年に亙って、過酷な自然圧力・外敵圧力に晒されて生きてきた。そして更に五五〇〇年前(縄文人は一七〇〇年前)、同類闘争の圧力が加わって以降は、集団を破壊した性闘争・私権闘争を私権の共認によって統合する事によって、それら生存圧力の全てを私権の強制圧力に変換させ、その私権の強制圧力を最大の活力源としてきた。つまり、誰もが私権の確保を第一義課題として生きてきた。とは言え、農業生産の時代はまだ自然圧力も働いていたし、頭を使うべき自らの生産基盤も持っていた。何より、藩や村落という共同体が強い力を持っており、それら集団の課題や規範に応えてゆかなければ、私権を確保することも維持することも出来なかった。従って、己の私権を超えた超越課題=考えなければならない課題はいくらでも残っていた。  
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   しかし、市場社会になると、それらの共同体は悉く解体されて、私権を確保しさえすればそれだけで生存が保障される様になり、その結果、己の私権に関わること(異性の獲得や入試・就職や地位・職務)以外のことは、己の属する集団のことも社会のことも、何も考えなくなって終った。それでも、貧困の圧力が働いていた'70年までは、私権を確保する為に(賃上げや民主主義など)考えるべき社会課題は残っていた。しかし、貧困が消滅し、私権の確保が容易になると、文字通り(遊ぶこと以外)何も考えなくなって終った。  
030504    
   だが、よく考えてみれば、私権の強制圧力が衰弱したということは、長い間抑圧され続けてきた本源共認の再生可能性が開かれたということであり、本来ならその可能性に強く収束してゆく筈である。まして、滅亡の危機が迫っているとなれば、本来なら必死になって滅亡からの脱出口を考えている筈である。いったい、なぜ何もしようとせず、誰も考えようとしないのか? 全ては、私権にしか反応しない様に徹底して囲い込まれてきた結果である。私権(性権→占有権)を唯一絶対価値とし、私権に関わること以外のことは徹底して排除するその脳回路上では、私権が確保されている以上、もはや何の生存圧力=危機圧力も働かず、危機圧力が働かない以上、危機脱出に向かおうとする可能性収束力=新しい活力(何かをやろうとする気持ち)が生じない。同様に、本源収束の可能性が開かれても、私権にしか収束しない様に囲い込まれた脳回路は、自ら(=私権)と対立する本源意識を徹底して排除する。しかも、私権にしか収束しないこの脳回路自身は、私権の衰弱に応じて、際限なく自らの活力を衰弱させてゆく。こうして私権にしか反応しない脳回路は、私権が衰弱すると一切何も反応しなくなって終った。  
030505    
   かくして人類は、新しい可能性が開かれても何もしようとせず、滅亡の危機が目前に迫ってきても誰も考えようとせず、ただひたすら活力を衰弱させてゆくだけという状態に陥ってしまった。観念機能を命綱としてきた人類にとって、これは致命的である。観念機能が作動しなければ、人類は絶滅するしかない。だが、人類最大の危機が迫っているにも拘わらず、危機圧力が働かず、観念機能が作動しないというこの現状こそ、もはやいかなる言い逃れも通用しない、市場社会の絶対的欠陥を明示するものである。  
     
第四部:場の転換
 
    生存圧力から同類圧力へ    
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  [生存圧力とは、自然圧力と外敵圧力。同類圧力とは、性闘争や期待・応望や同類闘争etc.同類間で生み出される全ての圧力、狭義には、期待・応望の共認圧力を指す。]  
    イ.人類500万年のパラダイム転換  
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   女主導の支配共認は、反集団の自我に基づく思い込みの信仰共認(自我や私権や恋愛・自由・個人・人権etc.を唯一絶対とする信仰共認)であるが故に、人類を出口のない全面閉塞の袋小路に閉じ込めてゆく。まず第一にこの唯一信仰は、私権の獲得に結び付かない様な課題や外圧を全て捨象して終うので、際限なく環境を破壊し、肉体を破壊し、精神を破壊し、あるいは集団を破壊し、国家(財政)を破壊し続けてゆく。その結果、人類滅亡の危機が迫ってきたが、この唯一信仰は、己の私権とは無縁な滅亡の危機という問題をも捨象して終うので、誰も滅亡対策を真剣に考えていない。第二にこの唯一信仰は、滅亡問題や本源共認など、私権信仰に対立するor 都合の悪い課題や認識は徹底的に排斥してゆくので、私権や恋愛・自由・個人・人権に替わる新たな認識→共認が全く形成されない。その結果、人類の社会共認はこの唯一信仰一色に染め上げられ、新しい可能性や活力が何も生まれて来ない。しかも第三に、その様に人々の意識を私権信仰の中に囲い込みながら、私権圧力の衰弱に応じて労働活力や関係耐力の衰弱、あるいは性欠乏・物的欠乏の衰弱etc.当の私権活力は衰弱する一方である。かくして、性権力とその支配共認=囲い込み共認は、人類を全面閉塞の牢獄に閉じ込めて終った。それは同時に、性権力とその支配共認自身が、全面閉塞状態に陥ったことを意味する。今や人々は、支配共認に囚われた牢獄の中で、ただじっと死を待っているだけである。  
040103    
   だが、この現実を冷静に直視すれば(つまり、囲いの外から見つめれば)、簡単な事実が見えてくる。即ち、人類を閉じ込め、出口を塞いでいる(そして破局→滅亡に追い込んでゆく)のは、唯一絶対の支配共認という、頭の中に巣くう観念に過ぎない。人類は、単に支配共認=囲い込み共認という自我に基づく観念信仰の牢獄に囚われているだけである。それが観念に過ぎないなら、人類に突破できない筈はない。確かに、自身以外の全てを排除する自我の唯一絶対信仰の余りの偏狭さと頑固さや、その根をなす集団否定の性的自我の根深さに立ち竦みor 絶望的になっている人は多い。だが、絶望する必要も竦む必要も全くない。なぜなら、この支配共認=囲い込み共認は、放っておいてもあと数年で経済大破局によって爆破され、全面的に砕け散って終うからである。だから、それまでに支配共認を根底から覆す、新たな理論パラダイムが構築されなければならない。もし、新たな理論が構築されないまま大破局に突入すれば、人類は共認統合を形成することができないまま、全ての秩序を破壊して滅亡して終うからである。  
040104    
   もちろん、支配共認に替わる新たな理論パラダイムの構築は難課題であり、ましてそれに基づく新たな統合共認の形成は超難課題である。しかし、可能性はある。何よりもまず、人類の進むべき道は、既にほぼ明らかである。ここまでの人類史を総括すれば、人類を滅亡に導いた(少なくとも全面閉塞に陥らせた)根本原因が、性闘争を顕現させ、本源集団を破壊して終ったことにある(そして、その上に築かれた性の私的選択に基づく私権文明の全体が、その私的な性選択の必然として現在の支配共認を生み出し、その支配共認に囲い込まれて全面閉塞状態に陥り滅亡してゆくのだという)ことは、既に明らかであろう。だとすれば、人類の進むべき方向は『本源集団を再生し、集団規範の内部に性闘争を封印すること』、そして私権を廃棄したこの本源集団を原点として『本源集団が相互にネットワークで結ばれた共認社会を構築すること』であり、それ以外に人類を再生する道はない。  
040105    
   これは、単なる理想論ではない。もっと切迫した実践課題である。奇妙なことに、まだまだ私権の圧力が強固であった近代初期に、西洋で様々な理想論が出現した。そして私権が衰弱した今、理想論は全く出て来なくなった。それは、理想論の正体が支配共認の一部or 分派でしかなかったことを明瞭に物語っている。その証拠に、支配共認の根本パラダイムである性の私的選択の問題性を指摘した「理想論」は一つもなく、全てそれを当然の前提としている。西洋人は、その程度の「本源性」しか持ち合わせていないから、支配共認(架空観念)が全面的に行き詰まって終うと、もはや何も生み出せないのである。遥かに強い本源性を有する日本人には観念としての理想論など無用であり、ただその(本源性の)再生or 実現の為の事実≒構造の解明が必要なだけである。しかも事態は切迫しており、もし本源集団→共認社会の実現の方向へと早急に新たな社会共認を形成することが出来なければ、人類は滅亡する。  
040106    
   既に、本源共認を破壊し抑圧してきた私権の強制圧力は衰弱し、その支配共認は全面閉塞状態に陥って、衰弱死を待つばかりである。今や、本源集団・本源共認の再生を妨げるものは、死に体の支配共認以外に何もない。とりわけ、真っ先に私権の強制圧力を衰弱させ、唯一バブルの崩壊を経験している日本人には、(それも欠かせない条件だが)それ以上にもっと深い所で、大きな可能性が与えられている。一七〇〇年前まで、掠奪闘争に巻き込まれることなく純粋な原始文明を発展させてきた縄文人の心を受け継ぐ日本人には、つい戦前まで採集時代の総偶婚→夜這い婚が広く残り続けていた事が象徴している様に(注:婚姻制は、社会共認の最基底に位置する)、本源的な集団収束や共認収束がまだまだ強く、従って闘いや仲間を第一とする男原理や、そんな男の期待や役割に応合する女原理もまだ多少は残っている。従って、性権力が全面支配を強めてゆく時代の中にあっても、心の奥底に潜む本源回路が支配共認の囲いを突き破って、新たな思想を紡ぎ出す可能性を僅かに残している。少なくとも我々は、貧困が消滅し始める前後('75年頃)から支配共認に対峙して共同体=『類』を建設し、共同体の目で現実を直視し事実を追求し続けてきた。そして、支配共認に替わる本源共認の理論パラダイム(=倒錯観念とは全く異なる、事実認識の体系)を、かろうじて大破局の直前に、何とか作り上げた。他にも、支配共認と対峙して、全く新しいパラダイムを構築してきた人たちが、居る筈である。今や、人類の可能性はそこにしかない。  
040107    
   だが、もし人類が私権社会・市場社会とは全く異なる別の理想社会を構築したとしても、やはり生存圧力は大して働かないだろう。なぜなら、生存圧力(自然圧力や外敵圧力)を克服した直接の主役は、事実の認識→科学技術だからである。今後とも人類は、事実の認識→科学技術を進化させ、物的な生存圧力を克服し続けてゆくだろう。そこで、完全に行き詰まり、終焉の時を迎えた私権(性権→占有権)→市場拡大の支配共認など全て捨象して(頭の中から消し去って)、改めてサル以来の人類史の大きな流れの中で現代を捉え返せば、誰にでも分かる、実に簡単な事実が浮かび上がってくる。つまり、人類は、すでに物的な生存圧力をほぼ克服したのだ! これは、実に人類五〇〇万年の全史を覆す様な、場(パラダイム)の大転換である!  
040108    
   サル→人類が共認機能→観念機能を武器に進化してきた動物であり、その生存と進化の前提条件の一つであった物的生存圧力(自然圧力と外敵圧力)⇒物的生存(≒生産)課題をほぼ克服し得たのだとすれば、あるいは少なくとも動物的な生存圧力はもはや主要な活力源たり得ず、従って物的生産はもはや第一義課題たり得ないとしたら、残るのは同類圧力の活力源しかない。人類は、これまで五〇〇万年に亙って自然圧力・外敵圧力だけを対象とし(そして期待・応望の同類圧力を生命源として)、共認機能と観念機能を進化させてきた。そして五五〇〇年前(日本は二〇〇〇年前)、同類闘争圧力が加わるや否や、わずか数千年で、自然圧力・外敵圧力をほぼ克服してしまった。これから先、人類は同類圧力(同類闘争圧力も含む)を主活力源として、共認機能・観念機能を更に進化させてゆくしかない。元々サルは、同類圧力を主活力源として共認機能を進化させてきたのだから、それは基本的には充分に可能である。  
     
ロ.共認社会の生存圧力と同類圧力    
040201    
   もっとも、これまでサル・人類は、自然圧力・外敵圧力・縄張り闘争圧力などの動物的な生存圧力を前提として期待・応望の同類圧力=共認圧力を形成し、それを主活力源にして生存し、進化してきた。それに対して、物的な生存課題をほぼ克服した人類に、充分な同類圧力=共認圧力が形成されるのだろうかという疑問が湧く。しかし、その心配は無用である。  
040202    
   自然圧力・外敵圧力は、未来永劫に亙って働き続け、消滅することはない。第一に、科学技術の発達etc.によって物的生産の為の労働が、流通も含めて1/3 以下に縮小されたとしても、その縮小された物的生産課題は、日々の労働課題として残り続けている。第二に、現在でも環境破壊・肉体破壊をはじめ、深刻な自然圧力・外敵圧力は働き続けている。現在は、私権に関わる事にしか意識が向かわないので問題が捨象されているだけで、私権社会が消滅すれば、人々がこれまで目を逸らせてきたこれら人類的生存課題が、一気に顕在化されるだろう。第三に、現在、人類は地震さえ解明し切れていないが、未来的には氷河期・乾燥期の再来や太陽の衰弱や、更には宇宙の消滅etc.自然圧力は無限に存在する。また現在は、ガンやアトピーエイズさえ克服できていないが、人類の進化=変化に伴う新たな外敵圧力も無限に生成され続ける。  
040203    
   要するに、人類がほぼ克服し得たのは動物的(本能を直撃する様)な自然圧力・外敵圧力だけであって、本能では感取できない、しかし観念機能では認識or 予測できる人間的(超動物的)、かつ全人類的な自然課題・外敵課題は、未来永劫生まれ続ける。しかも、人類がそれらの課題の中の何をどれだけ重視するかは、人類の共認に委ねられている。つまり、全人類的生存課題→期待と応望(=追求・創造)→評価闘争=共認闘争→社会共認の形成、そしてその社会共認にとって重要な新たな人類的生存課題が更に追求され、その環が塗り重ねられてゆく。これが、同類圧力社会=共認社会の基本パラダイムである。  
040204    
   だが、圧力=課題はそれだけではない。人類にとって最も厄介な動物的課題、即ち性闘争・同類闘争をどう止揚するのかという課題が、(おそらく未来永劫に)残り続ける。しかし、物的・動物的な生存課題をほぼ克服した人類の性闘争・同類闘争は、もはや動物的な縄張り闘争ではあり得ない。では、動物的生存課題を克服した人類の性闘争・同類闘争は、どの様なものに成るのだろうか?  
040205    
   それに答える前に、「同類闘争」の中身が、既にこれまでも大きく変容して来た事に注目しておく必要がある。モグラや原猿の性闘争は、直接的には雌の獲得を目的とする(つまり、性情動を主エネルギーとする)縄張り闘争である。しかし、闘争共認によって闘争集団が形成され、その闘争集団の中に雌が組み込まれて終った為に、真猿の同類闘争では雌の獲得はもはや目的外となり、もっぱら縄張りの維持を目的とする縄張り闘争となる。つまり、雌(+縄張り)から、縄張りのみへと目的(=主回路)そのものが大きく変容し、切り換わっている。また人類も、六〇〇〇年前から三〇〇〇年前にかけて、性闘争から掠奪闘争へと同類闘争の中身を大きく変容させた(それは、原猿→真猿と基本的には同じ流れである)が、それらが国家に統合された後は、人類の同類闘争はもっぱら私権闘争に変容する(注:私権闘争とは、バラバラにされた個体の性闘争+縄張り闘争そのものであり、それは原猿というより、モグラそのものの位相である。つまり、私権時代とは、同類闘争が一気にモグラの段階まで後退して終った時代である。)  
040206    
   さて、本源集団を原点(単位)とする共認社会では、まず性闘争が集団の婚姻規範によって封印されて終うだろう。もちろん、そこには人類の歴史的総括である性闘争のタブーの共認も働いている。それは基本的に真猿の位相であるとも言えるが、(真猿の性闘争の封鎖は不充分で、しばしば破られるのに対して)期待・応望の充足=共認充足を最大の活力源とするが故に、その充足を妨げる自我や性闘争を封印してゆく共認社会は、むしろ性闘争を徹底して封印した極限時代や採集時代の人類の位相に近い。従ってそれは、ごく最近まで五〇〇万年に亙ってそうであった、人類にとって最も馴染み深い在り方である。  
040207    
   また、既に動物的な生存圧力を克服した共認社会では、人類的課題に対する期待・応望の同類圧力=共認圧力が解脱充足と並んで主活力源となり、人々の期待に応える政治や哲学や科学や芸術が主活動となる。そして、期待・応望を主活力源とするそれらの活動は、評価収束によって必然的に創造闘争=共認闘争の圧力を形成し、それが期待・応望の主活力を加圧する。つまり、共認社会の同類闘争は、人類的課題に応える創造競争=共認闘争となる。(政治であれ哲学であれ科学であれ芸術であれ、提起された認識は共認の獲得を目的としており、最終的には社会共認となることを目指しているので、創造競争は本質的には共認闘争である。)但し、あくまでも人々の期待に対する応望が主目的であって、闘争が主目的なのではない。闘争圧力は、評価収束によって期待・応望から必然的に派生する期待・応望の強化圧力であり、それによって人類的課題に対する期待・応望の活力は、極めて強力なエネルギーを持つことになる。  
040208    
   人類的課題に対する期待と応望を主活力源にして創造活動を営み、評価収束による創造競争=共認闘争(=同類闘争)によって圧力=活力を高め、その同類闘争を同じ評価収束⇒評価共認によって統合する社会、これは原始人には夢想だにできなかった社会である。にも拘わらず、同類圧力=共認圧力を生命源とする社会であるという根本パラダイムは、極限時代と同じである。ただ人類は、動物的な生存圧力の場を超えて、超動物的な同類圧力=共認圧力の場へ移行する段階を迎えただけである。それは、共認動物が到達するべくして到達した必然的世界であり、実は滅亡の危機に瀕した今こそ、動物的限界を引きずっていた前史が終わり、真の人類史が始まる、その起点となる時なのである。  
     
ハ.場の転換(意識下の活力転換)    
040301    
   科学技術によって自然・外敵圧力をほぼ克服した人類には、もはや本能を刺激し続ける様な物的な生存圧力は、僅かしか働かない。従って人類は、物的な生存圧力を活力源として存在し続けることが、既に出来ない状態にある。人類にとって生存圧力が無効だとしたら(少なくとも主圧力たり得ないとしたら)、残る圧力は同類圧力=共認圧力しかない。つまり人類は、生存圧力の場から同類圧力の場へ、存在の場を大転換しなければならない段階を迎えたのである。  
040302    
   にも拘わらず、この決定的なパラダイム転換の事実に、誰も気付いていない。誰もが潜在意識で感じ取ってはいるが、明確な概念として『生存圧力から同類圧力への場の移行』を確認できた者はいない。大学という温室に逃げ込んで殆ど現実の圧力を受けず、専ら欺瞞観念を弄ぶだけでまともに現実→事実を追求して来なかった大多数の人文学者は、殆ど現実→事実を知らない。学者以外の小説家や評論家やマスコミは、売文で身を立てている以上、主要には幻想観念に磨きをかける方向にしか思考が向かわない。そして官僚や経済人は、仕事に追われてそもそも物を考える時間がない。要するに支配階級(注:自然科学者は、生産階級であって支配階級ではない)は、ごく少数の例外を除いて誰も己の存在をかけて現実を直視し、本気になって事実を解明しようとはして来なかった。従って、欺瞞観念に浸り切った支配階級やその支配共認に染脳され続けてきた大衆は、未だに『同類闘争』という概念も、『共認』という概念も、何も知らない。それでは『場の大転換』を、見抜ける訳がない。もちろんそれらは、そうと教えられれば誰でも確認できる、簡単な事実に過ぎない。それが人類固有の観念機能の凄さであり、誰かが(たった一人でも良い)可能性のある事実を発見できれば、その事実は忽ち共認されて万人のものとなる。

 繰り返すが、人類は既に同類圧力によって活力を生み出すしかない状態にあり、かつそれは既に実現可能な状況にある。ただ、誰もそれに気付かず、衰弱する一方の生存圧力→私権圧力に依拠したままでいるので、全ての活力が衰弱する一方なのである。だが、意識下(観念回路の奥にある共認回路や本能回路)では、既に 『活力の転換』が始まっている。本源価値(異性や仲間や集団との共認充足や自然との本能充足)を破壊し、抑圧してきた私権の強制圧力が衰弱した以上、抑圧されてきた本源的な共認欠乏や本能欠乏が活性化し、意識下の共認回路や本能回路が本源充足へと可能性収束してゆくのは、必然である。かくして、'70年貧困の消滅と共に始まったこの意識下の本源収束の潮流は、'90年私権の衰弱が誰の目にも明らかになるにつれて顕在化し、共認収束(親和収束・仲間収束)や自然収束の大潮流を形成しつつある。ボランティアや自然サークル・環境サークルの興隆は、この潮流の最も見え易い表層の現象である。また、要因は複雑だが、若者の男女関係の主軸が、性関係から親和(安心収束)関係へ移行したのも、中心にあるのはこの潮流である。もっと見え難いが、子供たちの世界でいじめが深刻化してきたのも、子供たちにとって仲間圧力が絶対的な場=パラダイムとなった結果である。
 
040303    
   だが、異性関係は自我や独占欲や好き嫌いに妨げられ、本当に心を開いた和合充足を得られないでいる。それどころか、男女同権や依存捨象(要するに性権力)に妨げられて、充足の中身が薄くなる一方である。仲間関係も自我や抜け駆けの性闘争や私権闘争に妨げられ、警戒心を解くことが出来ないので、本当に心を開いた仲間充足を得ることが出来ない。それに課題が(遊びしか)ないので、関係の中身が薄くなる一方である。それどころか、私権が衰弱して真っ先に関係耐力(自我・私権のせめぎ合いに耐え得る関係能力)が衰弱して終ったので、互いに自我を恐れて相手の心の中に踏み込めなくなり、異性関係や仲間関係が表層化(上辺だけ仲良し化)する一方である。また集団(企業)に至っては、私権統合の権力体のままであり、その上集団自身が強制的な利益競争の圧力に貫かれて終っているので、集団との共認充足は極めて困難な状態にある。要するに、本源収束の潮流の前には悉く私権(性権・占有権)第一の支配共認が立ち塞がり、その可能性収束を妨害し封鎖している。  
040304    
   それでも、私権が衰弱し本源充足の可能性が開かれた以上、意識下の本源収束(共認収束と自然収束)の潮流は成長し続ける。そして'90年以降、それは意識上に上り始め、人々(特に若者)は相手との期待・応望を第一とする表層観念的な規範共認に意識的に収束する段階まできた。強制圧力を脱した日本人(縄文人)の本源収束の大潮流は、既にそこまで来ているのである。だが、社会は支配共認一色に染め上げられ、それ以外の共認は唯一信仰への囲い込みによって排除されている。(だからこそ、右記の期待・応望を第一とする規範共認も、表層観念化せざるを得ないのである。)その上、支配共認の中身が権力共認・観念共認とも自我に基づく唯一信仰の共認であるが故に基本的には全く動かない。従って、意識下の本源収束は、自我や恋愛や自由や個人や権利を正当化した支配共認(囲い込み共認)によって意識上への出口を塞がれ、それ以上は先端収束できずに、ただ本源欠乏(共認欠乏と自然欠乏)だけが蓄積されてゆく。  
     
ニ.場と主体のズレ(圧力と活力源のズレ)    
040401    
 
 全ての生物は、場の圧力を活力源としている(そもそも外圧に最適反応する様に、本能そのものが作られている)。だから、自然圧力=本能活力源である。人類の場合は、主要な存在の場が共認圧力の場に移行しており、その共認圧力を主要な活力源にしている。だから、共認圧力=共認活力源である。ところが現代の支配共認は、自我に基づく思い込み収束(唯一絶対信仰)による極度な固定観念の共認なので、殆ど変化しない。従って、固定観念の共認が作り出す圧力も、急激には変化しない。ところが、この支配共認の中身は性闘争・私権闘争の本能につながっているので、意識下での場の変化に即応して活力が先行して変化してゆく。従って、変動期になると場(圧力)と主体(活力)の間に大きなズレが生じる。
 
040402    
   人類は、既に動物的な生存圧力を超えた同類圧力=共認圧力を活力源とするしかない状態にあり、現に動物的な生存圧力→私権圧力の衰弱という場の変化に反応して潜在意識(本能回路や共認回路)は本源収束を強め、自然充足や共認充足を主活力源にしようとしている(妨害物がなければ、とっくにしている)。ところが、顕在意識は支配共認一色に染脳されており、その支配共認は己に対立する本源意識を排斥し、意識下に封じ込め続ける。しかも、その支配共認は性闘争→私権闘争を基にして形成されているので意識下の本能回路に連なっており、その意識下の部分は、場の変化に反応してどんどん衰弱してゆく。要するに、支配共認が全ての桎梏(手かせ足かせ)となっており、その旧い共認圧力は一方では新たな共認形成を抑圧・封鎖しながら、他方その旧い共認圧力が作り出す筈の活力は、衰弱する一方である(従ってその共認圧力も、急激ではないが、相当に低下している)。従って、複雑なことに、新たな場と旧い主体のズレ(潜在意識と顕在意識の断層)、および旧い場と旧い主体のズレ(旧い共認圧力と旧い私権活力の断層)が相互に絡み合っており、この場と主体の間の二重のズレが、現代人に得体の知れない大きなストレスを負荷し、疲労を蓄積させてゆく。  
040403    
   まず第一に、既に私権追求(更には性の自由追求)の活力は衰弱する一方なのに、共認圧力は私権(性権・占有権)第一のままなので、さっぱりリアリティーがなく、ヤル気の起こらない私権課題に(それでも囲い込まれてそれを共認している以上、ましてそれが社会的共認圧力として働いている以上)否応なく立ち向かわなければならない。この状態は、人々に深刻な空焚き疲労・燃え尽き疲労を強いる。これは納得ずくの筈の囲い込み共認による強制的・全身的体罰であり、人類に対する拷問に近い心身損壊の残虐行為である。(もちろん、この角度から、子供や男たちの「人権擁護」が省みられたことは一度もない)。  
040404    
   更に第二に、既に本心(意識下の本能回路や共認回路)は、本源的な自然収束や共認(期待・応望)収束に向かっているのに、その大部分が囲い込みの支配共認に蓋されて意識上への出口を塞がれ、抑圧され続ける。この状態は、人々から可能性収束の芽を摘み取り、人々に無為感や無力感を植え付け、人々を深刻な無気力状態に追い詰めてゆく。これも、人類に対する拷問に等しい残虐行為である。  
040405    
   当然、この得体の知れない巨大なストレスは、癒し欠乏(=現代の不全感)を強めさせる。かくして男たちは(粗大ゴミ扱いされながら、それでもなお)家庭収束(※実態は個室収束である)を強め、遊興の場であるネオン街さえ寂れてゆく。前述した若い男女の安心収束も、若者の仲間収束も、この癒し収束が根になっている。大人だけではない。今や子供まで、何をするにも「疲れた」「どっこらしょ」を連発し、疲れ果てながら日々をやり過ごしているという有り様である。これが、囲い込みによって作られた「私の彼氏」「私の子供」の実態である。だが、事態はストレスを解消すれば済む様な、甘いものではない。場(=環境)に適応できなくなった生物は、絶滅するしかない。これは、外圧=環境と生き物を貫く大原則であって、人類ももちろん例外ではない。  
040406    
   人類の障害物は唯一つ、支配共認の固定回路だけである。人類は、既に同類圧力を主要な活力源とするしかない状態にあり、人々は、身(の基底部=本能回路と共認回路)を既に同類圧力=共認圧力の場に置いている。ただ、顕在意識だけが固定観念に収束する様に囲い込まれ、その欺瞞観念に囚われて相変わらずこの世は生存第一・私権第一で、そこ(生存圧力=私権圧力の場)で生きるしかないのだと、思い込まされているに過ぎない。だが、既に見てきた様に、生存第一→私権(性の自由と占有権)第一→市場第一→権利第一の支配共認では活力が衰弱するばかりであり、それどころかこのままでは間違いなく人類は滅亡する。今や、支配共認は人類を全面閉塞状態に閉じ込める牢獄でしかない。しかも、無期ではなく、もうすぐ人類を窒息死させるガス室となる。何度も指摘してきたが、特に致命的なのは、この支配共認に囚われている限り、誰も何も考えようとしないことである。だから、この支配共認の下では何も新しい認識が生まれず、従って、人類の新たな活力源となるべき共認闘争圧力(新たな同類闘争圧力の中枢となるべき圧力)が全く生じてこない。既に古い生存圧力は(囲い込み共認によって)衰弱し、新たな同類圧力=共認圧力は(囲い込み共認に封鎖されて)生じないとしたら、この囲い込み共認を爆破して終わない限り、人類は何をやる気力もないまま、ただ衰弱死を待つだけである。  
     

ホ.支配共認根絶の共認闘争    
040501    
 
 このままでは、人類は滅亡する。今、人類に求められているのは『生存圧力の場から同類圧力の場』への存在の場の転換であり、それは人類五〇〇万年の歴史を覆す様な、極めて根底的なパラダイムの転換である。にも拘わらず、人類の命綱たる共認が支配共認一色に染まったまま動かないので、活力が衰弱する一方であり、次の活力源たる新たな共認圧力も生まれてこない。邪心を嘘で塗り固めた支配共認を粉砕しない限り、人類に未来はない。今、人類が成すべき最も重要な課題は、支配共認を根底から覆し、新たな場に適応した新たな社会共認を形成してゆくことである。
 
040502    
   既に大多数の日本人は、時代や社会に対する閉塞や危機や不安をほぼ共認しており、更に過半の人が、何かが起きてくれることへの期待を潜在的に共認している。その背後には、前述した意識下での共認収束・自然収束の大潮流がある。また、今や支配階級と支配共認は完全に行き詰まっており、人々は政府や学者やマスコミの主張にウンザリし、少し意識の高い人なら、もはや彼らには何も期待しなくなっている。その深部では、性権力も既に自己崩壊過程に入っており、少し志のある男なら、女の要求にウンザリし、もはや自我女には何も期待しなくなりつつある。この様に、支配共認が形骸化して力を失い、時代閉塞を打ち破る新たな理論と運動が広く期待されているとしたら(現在それはなお、潜在的な期待圧力であるが)、新たな社会共認を形成してゆく土壌は、既に充分に出来ている。  
040503    
   生存圧力(自然圧力や外敵圧力)は、向こうからやってくる圧力であった。しかし、共認圧力は、期待と応望によって自分たちが作り出す圧力である。例えば解脱共認は、先ず自分から心を開いて相手に期待し応望しようとしない限り、決して形成されない。闘争共認も同じであって、先ず自分から期待し提起し応望しない限り、決して形成されない。従って、何事もまず自分から期待し応望してゆかない限り、同類圧力=共認圧力は形成されてゆかない。本当は期待しているのに、思い通りにならないとすぐに自我収束して「あんな葡萄は酸っぱいに決まっている」と相手を否定し、自分で自分の心を閉ざして期待することを止めて終えば、共認充足は得られず、そのぶんだけ自らの活力を低下させてゆく。既に新たな活力源は、同類圧力⇒期待・応望の共認充足しかない。だとすれば、何よりもまず最大の活力源としての『同類』と『期待・応望』の大切さを心に刻み、支配共認に逆らって意識的にでも心を開き、期待にフタをしないことが決定的に重要になる。  
040504    
   期待と応望の視座を更に広げて共認社会を展望すれば、そこでは全人類的課題が有る限り、人々の期待と応望が作り出す同類圧力=共認圧力は不滅である。だが考えてみれば、今現在、人類が直面している人類滅亡という課題以上に大きな人類的課題は、無い。また、支配共認を打倒し、新たな共認を形成してゆく共認闘争圧力以上に強力な同類圧力=共認圧力は、無い。動物的な生存課題をほぼ克服した人類が、これから先生きてゆく共認圧力の場は、人類滅亡という極限的な人類的課題に応え、悪性腫瘍と化した支配共認を根絶して、新たな社会共認を形成しようとする共認闘争によって、生み出されるのである。  
040505    
    経済破局を引き金としてその数年後に始まる殺し合いを阻止し、人類本来の共認社会を実現できるか否かは、最初の共認闘争圧力を作り出せるか否かにかかっている。もちろん、大破局に突入し、強烈な生存圧力に晒されれば、黙っていても人々は立ち上がり、殺し合いを始めるだろう。だがそれでは(たとえ何%かが生き残ったとしても)、旧時代に戻るだけである。我々の運動が次の人類史を切り拓くものであるとすれば、あくまでも破局の生存圧力が働く前に、共認闘争による新たな共認圧力が生み出されなければならない。  
040506    
   新たな共認形成は、屈することなく支配共認と対峙して現実を直視(⇒事実を追求)し続け、それ故にいち早く滅亡の危機を捉えて、社会を根底から変革する新たな認識パラダイムを構築し得た者が、それを社会に提起することから始まる。もし、その認識が人々の期待に応え得るものであり、とりあえず数%の共鳴を得ることが出来れば、それは共認上の乱を呼び起こし、共認闘争圧力を生み出すことが出来るだろう。もちろん、この凄絶な共認闘争の後には、人々を否応無く従わせてきた性権力や占有権力などの権力は本源集団の内部で解体され、権力によって強制されることなく主体的に人々の期待に応える政治や哲学や科学や芸術の創造競争(本質的には共認の獲得・形成を目指す共認闘争)の圧力が、主要な共認圧力となって人類の存在の場を形成する。  
040507    
   人類の存続と再生をかけて我々が今から開始する、共認闘争が生み出す圧力こそ、生存圧力に代わる同類圧力=共認圧力の原点となるものであり、人類が求める新たな活力の源流となるものである。支配共認根絶の共認闘争は、全ゆる点で次の人類社会=共認社会を象徴するその縮図であり、この共認闘争を担う共認ネットワークは、そのまま共認社会の原型となり、更にそのまま共認社会の基軸(統合機関)となるだろう。  
040508    
   我々の提起が、どこまでの共認闘争圧力を作り出せるかは、実践してみなければ分からない。新たな共認圧力は、新たな認識パラダイムを構築し得た者が、敢えて共認上の乱を興すことによってしか、形成されてゆかないが、正直なところ、それが我々であるのかどうかは大いに疑問である。言うまでもなく、それは我々でなくても、答えを見付けた人なら誰でも良い。それは天のみが知るところである。しかし、これまでのところ、どこからも提起はなく、何の運動も興っては来なかった。しかも、事態は切迫している。とすれば、我々が共認上の乱を興すしかない。成るか成らないかは、誰にも分からない。しかし、可能性がそれ以外になく、かつそこに僅かでも可能性があれば、それは必然となる。それが、実現の原理である。  
     

 
  ヘ.秩序収束⇒規範・制度の共認圧力と政権闘争  
040601    
   もちろん、共認闘争は新たな圧力=活力の核であって、核だけで必要な圧力=活力の全てが形成できる訳ではない。支配共認の背後には商品市場←性市場が存在しており、それらを封鎖して終わない限り、自我・私権(性権・占有権)は衰弱しながらも発生し続ける。そうである限り、人々の頭の中に巣喰う自我・私権意識がそれと対立する本源意識を排除し続け、本源的な共認圧力がなかなか肉体的な活力源に成ってゆかないことになる。では、性市場・商品市場を縮小し封鎖してゆく為には、どこに楔を打ち込むのが最も有効か?  
040602    
   性闘争の場としての性市場は、(その定義に従えば)モグラ以来、原初的・本能的に存在している。しかし、共認動物の性闘争→性市場は性闘争=縄張り闘争の本能のままに在るのではない。逆に性闘争本能を止揚→規制する秩序収束の共認圧力が恒常的に働いており、共認された権力と制度が、性闘争や性市場の在り方を絶対的に規定している。商品市場ももちろんそうであって、私権闘争を止揚→規制する権力と制度によって、私権闘争や商品市場の在り方は絶対的に規定されている。性市場は、(性闘争本能をそこに収束させた)性的自我に基づく否も応もない性権力の共認をはじめ、それを保障する私権制度やそれに付帯する性幻想や恋愛観念などの共認が作り出した圧力の場であり、商品市場は(縄張り闘争本能をそこに収束させた)自我に基づく否も応もない占有権力の共認をはじめ、それを保障する私有制度やそれに付帯する個人や自由や豊かさ追求の共認が作り出した圧力の場である。つまり、性市場や商品市場は、性闘争を下敷きにした自我闘争と、それを止揚した権力(性権→占有権)およびそれを保障する私権制度、およびそれらを正当化する欺瞞観念の共認によって作られたものである。  
040603    
   これら秩序収束の共認圧力(権力と制度と観念の共認圧力)に備わる力の絶対性は、例えば徴税制度が制定されている限り(払わなければ投獄されるという、暴力装置つきで)否も応もなく税を収奪されるとか、学校制度が制定された以上、否応なく学校に行かなければならないとか、身近に至る所で感じられる所であるが、その絶対的な力は、権力によっても形成されるが、実はそれ以前に共認圧力によって形成されている。たとえ真猿や人類私権時代の性闘争・私権闘争の様に出発点は性闘争・私権闘争⇒力による制圧であったとしても、その背後には、絶えざる闘争と破壊には耐えられずに安定収束する生き物全般を貫く摂理が働いており、それ故に共認動物も闘争よりも制圧を支持し、性闘争・私権闘争を制圧した力の序列を共認したのである。この序列共認は、皆が求める安定⇒秩序維持の為の共認であり、(同時に共認された序列闘争の様式に則って、順位の上昇を図ることはできても)その序列規範(≒制度)そのものを破壊することは誰にも(例えば、その私権闘争の制覇力をもってしても)出来ない。まして人類史の大部分を占める極限時代や採集時代には、この秩序収束の共認圧力によって性闘争・私権闘争は完全に封印され、秩序維持の為の集中婚規範=制度や総偶婚規範=制度をはじめ、様々な規範・制度の共認圧力が絶対的な力として働いている。  
040604    
   この絶対的な力は、絶えざる闘争と破壊を回避しようとする根源本能(適応本能や危機逃避本能)を下敷きにした安定収束⇒秩序収束⇒規範収束によって与えられており、その秩序収束力⇒規範共認圧力は、危機時には解脱収束力⇒解脱共認圧力をも凌ぐ絶対的な圧力の場を形成する。そして、この秩序収束⇒規範(制度)共認の圧力こそが、サル・人類の恒常的な存在の場を形成している。その場(圧力)の中では、たとえ性闘争や私権闘争が発生し、それ自体は力によってしか制圧できないとしても、その制覇力の序列共認が形成されて性闘争・私権闘争をくるみ込み、絶えざる闘争と破壊を回避してゆく。従って、規範(制度)共認の圧力=場こそが、権力をも包摂して終う、より包摂的な場(圧力の場)なのである。  
040605    
   人類において、秩序収束⇒規範・制度の共認圧力は、それほどに絶対的である。当然、規範や制度が人々の意識≒価値観を規定する力も、ほぼ絶対的である。従って、私婚制や私有制をはじめ、私権法制がそっくりそのまま残っている限り、性闘争・私権闘争は発生し続け、従って性市場・商品市場は蔓延り続ける。そうである限り、認識転換は極めて困難となる。現に我々(『類』)が経験している様に、たとえ理論を共認し認識転換したとしても、現実生活の全てが個人を主体とし、個人に性権や占有権や参政権を与える法制度の下にある限り、法制に規定されて肉体的次元から自我や私権意識が発現し続ける。従って、新たな共認がなかなか現実の力とならず、従って肉体的な活力源に成ってゆかない。とりわけ性=婚姻を私的な選択に委ねる規範・制度の下に在る限り、集団破壊の性的自我や私権収束が至る所で顕現し、そうである限り、本源的な共認圧力=活力源が現実化しない。  
040606    
   要するに、人類の新たな活力源=同類圧力の場を形成する為には、認識の共認という意味での狭義の共認圧力だけでは不充分なのであって、その認識の共認が秩序収束力に基づく本源的な規範・制度の共認圧力に変換されて初めて、絶対的な(当然、現実的・肉体的な)活力源=同類圧力の場が実現する。従って、まずは参政権を手始めに、最終的には占有権や性権(選択権)に至るまで、それらの主体を個人から集団に移行させ、私権法制を全面解体して本源法制を確立してゆくことが不可欠となる。逆に言えば、既に生命力を失った自我・私権が未だに生成され続け、形骸化した性市場・商品市場が未だに生き長らえているのは、秩序収束力に基づく(しかし現状、それに替わるものがない)私権法制の共認圧力という人工呼吸装置によってであり(実際、それに替わるものがないのにそれを破壊すれば、秩序が崩壊=滅亡する)、私権法制に替わる本源法制の共認圧力が働き始めれば、自我・私権や性市場・商品市場など一気に吹き飛び、雲散霧消して終うに違いない。  
040607    
   さて、もともと本源集団を破壊した性闘争→掠奪闘争を止揚したのは、私権統合国家であり、それ以降、性闘争→私権闘争を統合し、私権(性権→占有権)の共認を核とする様々な法制度を作ってきた国家(国会)こそ、性を私的選択に任せる性闘争のパラダイムを含め、性闘争・私権闘争の全てを包摂し、その在り様を規定している全ての要である。従って、自我・私権を廃棄し、性市場・商品市場を縮小→封鎖する為に不可欠かつ最も有効な場は、私権統合国家そのものである。つまり、本源的な共認圧力=新たな活力を現実化する為に我々が楔を打ち込むべき場は、国家である。  
040608    
   実際、国家は性闘争・私権闘争の在り様(私的な性関係や性権・占有権や一対婚や自由な性)を絶対的に規定しており、それらが生み出した性市場→商品市場をも規定している全ての要=社会的な秩序収束の要である。従って、秩序収束の頂点に立つ国家権力さえ掌握すれば、その絶対的な秩序収束力=規範・制度の共認圧力によって、自我・私権や性市場・商品市場などどうにでもなる。従って、新たな共認圧力を現実の力=肉体的な活力源として固めてゆく為には、政権の奪取が不可欠である。今や、民主国家(国会)は社会共認に従う存在であり、また、本来国会は共認社会を統合する共認ネットワークの頂点に位置すべき機関である。だから、共認社会の実現を目指す運動が国家権力を掌握することに、(その権力を破棄することさえ出来れば)大きな矛盾はない。もちろん、殺し合いを阻止する為には、事実に立脚した可能性のある理論とそれに基づく正しい施策が不可欠であり、その為にも政権の交替が必要なことは言うまでもない。従って我々の提起する共認闘争は、必然的に新政権の樹立を目指す政権闘争となる。おそらく、共認闘争を担う共認ネットワークを母胎にして、新政権を目指す新政党が結成されることになるだろう。  
     
 
  ト.本源集団の再生  
040701    
   民主国家は、既に社会共認に従う一個の共認体となっている。しかしそれは、共認動物が棲息する場である以上、当然のことなのであって、共認動物が形成する集団は、国家であれ企業であれ、当然全て共認統合体である。その意味で、本来的(=潜在的)には、国家は私権闘争の統合体である以前に、何よりも国民の共認体である。ただ、性闘争・自我闘争を基底パラダイムとする集団は、それを制覇した力の共認=否応のない権力の共認を基軸とするしかなく、そこではとうてい仲間同士の共認によって集団が形成されているとは感じられないので、共認体ではなく権力体として意識されることになる。実際、それは性闘争や自我を封印してきた本源集団から大きく逸脱しており、共認統合体と言うより権力統合体と呼ぶ方が適わしい。しかし、権力の共認を基軸とした統合体であるとは言え、それでも広義には、秩序収束を基盤にした共認によって統合された共認統合体なのであって、実際、国家や企業は支配共認をはじめ至る所で形成される様々な共認によって統合されているのである。  
040702    
   しかも、私権圧力が衰弱し共認圧力が強まってゆくにつれて、国家の本質はますます私権統合体から共認統合体へと変質してゆく。今後、占有権力に続いて性権力が衰弱すれば、国家は一気に共認統合体へと近づくだろう。しかし、性闘争・自我闘争を基底パラダイムとしている限り、何らかの権力の共認を基軸とするしかなく、それでは決定的な限界がある。要するに、超肥大集団とバラバラの個体という性闘争・私権闘争のパラダイムのままでは、国家は権力共認→支配共認の統合体でしか在り得ず、それでは人類は滅亡する。国家が真の共認統合体となる為には、何よりも本源集団の再生が不可欠であり、その上でそれら本源集団を原点とする共認ネットワークの構築が不可欠である。  
040703    
   国家と同様に企業も、本来的(=潜在的)には、市場で利益追求に明け暮れる存在である以前に、何よりも一個の生産体であり、更にそれ以前に一個の共認集団である。(現代でも、思想の自由、結社の自由は、民主主義の大前提として表向きは共認されている。)もっとも、絶対的な私権の強制圧力が働いていた頃は、企業は何よりも先ず利益を追求する存在で、「本来は、それ以前に一個の生産体であり、共認集団である」事を省みる余裕など殆どなかった。しかし、私権の強制圧力が衰弱し、(福祉や環境や贈収賄に対する)共認圧力が強まってゆくにつれ、企業も利益追求存在である以前に、社会の成員たる一生産体(or 集団)である事を慮らざるを得なくなってきた。もちろん、いかに私権圧力が衰弱しても権力体である限り、その成員に結社の自由などある訳もなく、「本来は、自分たちで作る自分たちの集団である」という自覚は乏しいが、しかしそのままでは活力も統合力も衰弱して企業として生き残ることが出来なくなるので、いずれは『自分たちの生きる場を自分たちで築く』共同体に転換してゆかざるを得ないだろう。しかも、それは類が実証した様に、認識を転換しさえすれば30年前でも実現できたことなのである。  
040704    
   企業を私権統合から共認統合に変えるのは決して不可能ではなく、むしろ簡単である。企業を合議制の共同体に変えれば良い。例えば、会議を中央席から同心円形に二重・三重に囲む形にし(当社では「劇場会議」と呼んでいる)、まずは取締役を中央に座らせ、外側に部課長たちが座って自由に発言させるという風に、取締役会をオープンにしてしまう。それが出来たら次は、部門ごとに部課長が中央に座り、外側に全社員が座って自由に発言するという風にして、完全にオープンな全員参加型の体制に変えてゆく。もちろん、その為には経理を含めた全情報を全社員に公開する必要がある(その為には、相当量のシステム化が必要になる)ことは言うまでもない。  
040705    
   近代社会は、民主主義を標榜してきた。だが、民主主義を口にするのなら、何よりもまず日々の仕事の場=生産体を、自分たちで動かすことのできる共同体に作り変えるのが、本当ではないのか。日々エネルギーの大半を費やして生産活動を営む、最も身近な集団を自分たちで動かすことのできない権力体のままにしておいて、はるかに遠い超肥大集団=国家(議会)に四年に一回投票するだけの、西洋式の民主主義など全くのごまかしである。人類が五〇〇万年に亙ってその中で育まれ進化してきた『自分たちで動かすことのできる生産体or 集団』は、人間にとって決して失ってはならない絶対的人権である。人々から生命の母胎とも言うべき本源集団を奪い盗り、何もできない様に去勢しておいて(現に、サラリーマンからは何の運動も生まれなかった)、支配共認に染められた民に「主権」を与えただけのまやかしの「主権」在民や、支配共認の枠内に矮小化された「人権」尊重へと国民を染脳するのは、むしろ犯罪的でさえある。  
040706    
   企業を合議制の共同体に変革しさえすれば、三年以内に『自分たちの生きる場を自分たちの手で作ってゆく』ことの大切さを、皆が体得してゆくだろう。言い換えれば、共認と集団の大切さが体得されてゆくだろう。それは、長い間権力によって封鎖されてきた、人類本来の豊かな共認充足の再生に他ならない。しかし、それだけではなお不充分である。私権=権力を破棄し、真の共認集団を形成する為には、究極のところ性闘争を封鎖することが不可欠である。性闘争・自我闘争を封鎖しない限り、それを制圧する権力の共認が必要になる(注:社会主義国の失敗の究極の原因は、そこにある。つまり、恋愛や一対婚を無自覚に肯定したままでいたが故に、必然的に権力が必要になり、また必然的に市場社会へと移行していったのである)。共認集団の共認圧力(集団規範)の内部に性闘争(共認の破壊物)を封鎖することができて初めて、共認圧力が全的な活力源となる土壌(仕組み)が出来上がり、その枠組みの中で活力=共認充足を高める必要から、必然的に自我も封印されてゆくだろう。それは、闘争と生殖を包摂した全的なる本源集団の再生に他ならない。そして、それは人類を正常な自然の摂理の中に戻し、人類を精神破壊から救い、滅亡を回避する為に不可欠な道程である。  
040707    
   もちろん、恋愛や一対婚をごく当然のものと信じ込んでいる自我女や迎合男たちの抵抗は、大きいだろう。だが、抵抗しても無駄である。そのままでは、人類は滅亡する。人類再生の可能性がそこ(性を集団の中に組み込んだ本源集団の再生)にしかない以上、人類はそこに収束してゆく。人類の敵=性権力者や迎合男たちは、ただ絶滅してゆくだけである。現に、彼ら電源の切れかかったロボットたちは、何もしようとせず、ただ廃棄処分される日をじっと待っているだけではないか。それが嫌なら、考えればいい、立ち上がればいい。共