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シリーズ「日本人は、なにを信じるのか?」~第2回:現代日本人の宗教観

シリーズ「日本人は、なにを信じるのか?」~第2回:現代日本人の宗教観

 現代、日本人の宗教意識の調査はいくつもありますが、その一例を挙げると、2008年5月に行われた読売新聞社の調査に、日本人の特徴が顕著に現れているようですのでご紹介します。
『日本人の宗教観がカオス過ぎる理由(私感)』からご紹介します。


 読売新聞社が17、18日に実施した年間連続調査「日本人」で、何かの宗教を信じている人は26%にとどまり、信じていない人が72%に上ることがわかった。
 ただ、宗派などを特定しない幅広い意識としての宗教心について聞いたところ、 「日本人は宗教心が薄い」と思う人が45%、薄いとは思わない人が49%と見方が大きく割れた。また、先祖を敬う気持ちを持っている人は94%に達し、「自然の中に人間の力を超えた何かを感じることがある」という人も56%と多数を占めた。
 多くの日本人は、特定の宗派からは距離を置くものの、人知を超えた何ものかに対する敬虔(けいけん)さを大切に考える傾向が強いようだ。

日本は、先進国のなかでも無宗教率が非常に高く、72%もの人々が、特定の宗教を信じていないと回答しています。少なく見積もったとしても、約半数以上は、このような宗教観をもっていて、かなり高い比率だと思われます。宗教心の濃淡は50:50で割れ、逆に、先祖を敬う気持ちは94%の人が有し、自然に超越的な力を感じる人は56%もいるという結果です。
 一見、無宗教という我々の意識と断絶しているように見えますが、これが、日本人の宗教観の特殊性を感じることころです。観念力の希薄な日本人とも言われますが、なにか歴史的な理由があるように思います。それらが、日本人の可能性になにがしか、つながっているようにも思えます。まずは、各国の宗教観と日常の日本人の宗教的習俗・風習をご紹介しながら見て行きたいと思います。
いつも読んでいただきありがとうございます。

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———————————————————-続き
◆各国の宗教観
電通総研・日本リサーチセンター編「世界60カ国価値観データブック」の各国の宗教の分析、その他のサイトから各国の宗教を見てみましょう。
社会主義国家、共産主義国家で無宗教率が多いのは、『特定の宗教を信仰してはならない』という国家政策による要因が大きいので除外して考えてみたいと思います。


キリスト教プロテスタントローマ・カトリックギリシャ正教等含む)
ギリシャ:93.4% ・イタリア:81.2% ・スペイン:81.1% 
・ドイツ :70.0% ・イギリス:64.9% ・フランス:52.6% 
アメリカ:49.4% ・ロシア :47.5%
ユダヤ教
イスラエル:85.3%
イスラム
・イラン :97.5% ・トルコ:96.6% ・ヨルダン94.3% ・インドネシア:92.5%
ヒンズー教
・インド :72.2%

上記は、一神教であるヒンズー教イスラム教、キリスト教ユダヤ教の分布です。この地域は、歴史的にも、略奪や戦争、植民地政策、厳しい自然環境に苛まれた場所と合致していて、私権社会5000年に渡る結果として、このような宗教観(唯一絶対の神の世界)が形成されたのだろうと思います。また、インドのヒンズー教は、バラモン教から聖典カースト制度を引き継ぎ、土着の神々や崇拝様式を吸収しながら徐々に形成された多神教となり、現在も信仰されています。上記では、50%程度の人々がキリスト教信者であるアメリカですが、こんな記事もありました。
アメリカ人の九割が神を信じている
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ニューズウィークが先日実施した世論調査によれば、アメリカ人の実に91パーセントが神の実在を信じている。何らかの宗教団体に属しているものは87パーセント、最も多いのはもちろんキリスト教徒で82パーセントを占める。
人口の半数近い48パーセントの人が、ダーウィンの進化論を排斥しており、大学卒業生の三分の一が、聖書の天地創造説を事実だと考えている。特に信心深いとされるプロテスタント福音主義者にいたっては、73パーセントもが、人間は神が自身の姿に似せて作り給うたのだと信じているそうだ。
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 この記事は、固く信仰を貫く米国と雑多な宗教観の日本の違いが明確に現れていて、正反対の現象と思われます。現実の充足の場である本源集団が悉く解体され、観念にすがるしかない傾向の国と村落共同体充足の場が連綿と残存してきた国の違いであるように思います。アジアは、仏教、イスラム教が主流ですが、日本、韓国、ベトナムは、無宗教が多く、日本は、無宗教・仏教が主流です。我が国では、無宗教と主張する人々が多い反面、日常、信心は意識せずとも宗教的行事に参加していることに気づきます。具体的に見て行きましょう。
◆お盆
・お盆は、祖霊を死後の苦しみから救済するための仏事で仏教行事です。旧暦の7月15日を中心に、供物を供えて祖先の霊を家に迎え。13日に迎え火を焚き、16日におくり火を焚いて送り出すような風習が染み付いています。
◆命日・墓参り
・命日は、個人の死去の当月当日や月忌があり、仏壇にお花を供えたり、お墓参りをしたりします。特に、一周忌、三周忌、十三周忌、十七周忌、三十三周忌の墓前の法要は、仏教徒でなくても行われ、お寺、もしくは自宅に僧侶を呼び、お経を唱えてもらい、家族そろってお墓参りすることが多いです。
◆お彼岸
・彼岸は、浄土を表し仏教用語です。春分秋分の日を中日とした前後の7日間に仏事を行うことで、春分の日秋分の日がそれぞれ国民の祝日にまでなっています。これは、日本独自の仏教行事で法律にも「先祖を敬い、亡き人を偲ぶ日」と規定されています。個人やご先祖の冥福を祈る追善供養、己の功徳を積むことの意味があるようです。
地鎮祭上棟式・提訴式・竣工式
・最近は、地鎮祭は、安全祈願祭とも起工式とも言いますが、よく、政教分離に違反するものとして裁判沙汰になってしまう場合があります。その判決は、習俗的行事であり、神道の布教・宣伝を目的とするものではないので、憲法違反でないと結論付けられたり、されなかったりで、非常に曖昧な判断になっています。法的には、宗教行事なのか?習俗的行事なのか?わかりませんが、社会通念上は、神主さんは信者を増やすということを意識されていないし、私たちも建物の建設の無事完成と安全をみなで祈るという意図だけであり、神事式でも仏式でもその他の様式でも気にせず、出席していますね。
◆クリスマス
・イエスキリストの降誕(誕生)を祝う祭で、キリスト教のれっきとした宗教行事であるが、日本では、年末の風物詩の一つとなり、仏教徒神道信者と称していても、ツリーを飾り、クリスマスを祝う。江戸時代に幕府がキリスト教を徹底的に弾圧したことから、明治の初めまでまったく受け入れられなかったにも係わらず、戦前、戦後より、民間企業はマスコミなどの先導により、普及し、大衆化し、キリスト教信者でなくても抵抗なく、楽しんでいる。
節句
・七五三では、千歳飴を食べて親が自らの子に長寿の願いを込めて、わが子の成長を祝います。必ずといっていいほど誰もが、七五三の写真を持っているようです。もともとは、氏神への収穫の感謝を兼ねて子供の成長を感謝し、加護を祈るようになったことが起源とも言われていますが、氏神とは、神道の神。神道の風習であり、それは、意識していませんね。
・七夕は、緑・紅・黄・白・黒の五色の短冊に願い事を書き、葉竹に飾ることが一般的に行われています。五色とは中国の五行説からであり、陰陽道とつながるところがあります。もともとは、お盆の行事の一環。江戸時代中期には既に江戸で七夕祭りが始まっており、仏教と庶民の先祖供養の習合による宗教にまつわるもので、織姫と彦星の伝説は、妙見信仰にもつながるという説もありますが、あまり、意識していません。
五節句と言われる、1/7人日の節句(七草)・3/3桃の節句(雛祭り)・5/5菖蒲の節句端午の節句)・7/7七夕・9/9菊の節句で陰陽思想に通じるところがりますが、意識していませんね。
◆初詣、除夜の鐘、初日の出
初詣が習慣化したのは、明治時代中期ころのようで、もともとは、「年籠り」と言い、家長が祈願のために大晦日の夜から元日の朝にかけて氏神の社に籠る習慣で、それが発展して、年が明けてから初めて神社や寺院などに参拝する行事となったようです。一年の感謝を捧げたり、新年の無事と平安を祈願したりしていますが、神道の行事でありながら、寺院・仏寺など意識せず詣出ていることが多いようです。今や、日本人の風習として、初日の出、除夜の鐘などとともに固定され、宗教行事でないかのように振舞われます。
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◆節分・豆まき
仏教行事なのか神道行事なのか?わかりませんが、古来日本では、季節の変わり目には邪気(鬼)が生じると考えられており、それを追い払うための悪霊払いの行事が執り行われたようです。豆撒き行事は、撒かれた豆を自分の年齢(数え年)の数だけ食べ、自分の年の数の1つ多く食べると、体が丈夫になり、風邪をひかないというならわしがあるところもあります。鬼に豆をぶつけることで、邪気を払い、無病息災を願うという意味合いがりますね。寺社が邪気払いに行った豆打ち儀式が起源のようですが、日本では室町時代以降の風習のようです。これも、あまり、宗教行事と意識せず私たちは楽しんでいます。
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こうしてみると、もとは、宗教や信仰に起源があるとしても、ひとたび習俗や風習となってしまったものはもはや宗教と見なさいという価値観が日本人にはあるようです。縄文人の受け入れ体質の影響か?古代人の自然への感謝の念からか?日本人は、こういった意識が寛容で、広く、許容できる柔軟な観念体系をもっているようです。しかし、排他的性質のある宗教に限定的に帰依することを嫌い、争いごとを好まない日本人の宗教観・観念体系は、これまた、おもしろいなぁと思いました。
阿満利麿(あま・としまろ)氏の著書「日本人はなぜ無宗教なのか」より、日本人の宗教観の特徴を示す事例がありましたので紹介します。


無宗教」「無神論者」という言葉が、どれだけ無造作に使用されているかのよい見本がある。それは、ある本を読んでいて発見したのだが、村祭りに欠かせぬ人物として、村人から絶大な支援を得ている神主が、こともあろうに、「無神論者」を自認しているのである。
 その神主は、「神仏に敬虔であるから神主業を努めているのではなく、 【むらがそれを必要とするから、また、私のなかでも家系や地縁が断ち切れない重みがあるから、これを役目と心得て】そうしている」といったあと、「無神論者である私のような立場の者が、祭祀役が務まるのも、また、日本のむらの祭りではなかろうか」と結んでいる(神崎宣武「いなか神主奮戦記」より)

 私も共感できる部分が多く、むらや周りの人々が期待するから、宗教行事も風習や習俗に定着して、宗教行事であることも意識せず、受け入れ、多様な観念体系を作っているのだろうと思います。これが、現代日本人の宗教観であり、それを無宗教といっているにすぎないのではないか?と思います。
 前述したアンケート結果では、その中でも92%のものが先祖を崇拝すると語っています。この先祖崇拝=祖霊信仰がなぜ、こんなに多いのか?その成り立ちを見てゆくことで、また、私たちの観念体系が理解できるのではないかと思います。次回にご期待下さい。