日本の古代史(縄文人・弥生人のDNA)
日本の古代史(縄文人・弥生人のDNA)
古代史探訪「古代史とDNA」(リンク)より引用します。
日本人の男性は1万4千年以上前から日本列島に住んでいた縄文人と、縄文時代後期及び弥生時代に江南地方(揚子江沿岸)から移住してきた弥生人にルーツを持っている。両者のDNA比率はほぼ半々で、弥生系がやや多い。Y 染色体はほとんど組換えを起こさず、父親から息子にそのまま伝わるため,男性の系譜の研究に役立てる事ができる。日本人のY 染色体は主として縄文系と弥生系からできており、この2 集団のY 染色体の違いは黒人と白人の差くらいに大きい。
日本人のY染色体は、旧石器時代から縄文時代に流入してきたC系統(4%)とD系統(40%)、縄文後期から弥生時代以降に流入してきたO系統(O1a 3%、O2a 1%、O2b 36%、O3 14%)とその他で構成されている。C系統は南洋方面とシベリア方面、D系統は日本とチベットに分布し縄文人の主系統、O系統はO1aが長江中流域(楚)、 O2a(越)とO2b(呉)が長江下流域、O3が黄河流域(漢)やアジア各方面、その他が2%ほどを占めている。弥生期に流入したものはO2bが多い。O2bは江南から大勢が逃亡し、九州北部と朝鮮南部に定着した。
東北アジア系騎馬民族(C3c)は日本列島には入ってきていませんので、DNAで判断する限り江上波夫先生の騎馬民族列島征服説は成り立たちません。
また地方別に見ますと吉備(中国地方)に特徴があります。D系統(縄文系)が19%と低く、その分O1a(楚系)が19%と非常に高く、O3(漢系)も31%と非常に高くなっています。O2b(呉系)は平均より少し低くて31%です。これは縄文時代に江南人などが有明海と吉備に大勢やってきて住みついたという説の証明になると私は考えています。有明海周辺のDNAについては目下調査中ですが、吉備と似た結果が分かれば面白いと思います。有明海や瀬戸内の吉備の自然環境が揚子江(長江)と良く似ていたから定着したのでしょうか。
縄文時代と違って弥生時代の江南人が列島へ移住してきた原因は、戦国時代における戦争の結果でしょう。紀元前473年に呉王夫差は越王勾践に破れ、呉が滅亡します。呉人は北方にある山東半島の南(徐州)方面に逃れます。越は紀元前334年に楚に滅ぼされます。越人は南方のベトナムや台湾方面に逃げるものと、北方の徐州方面に逃げるものに分かれます。越人に押された呉人は九州北部と朝鮮半島南部に逃れます。
楚は紀元前223年に秦によって滅ぼされます。秦の支配は厳しく、税や労役に耐えられなくなった越人は朝鮮半島西部に逃れます。楚人や漢人までもが朝鮮半島に逃れ、東部に住みつきます。その越人、楚人、漢人たちもやがて列島にも移住してきます。長江流域の楚人、呉人、越人は人種的には同類で黄河流域の漢人とは異なります。文化的にも大きく異なり、移動手段も南船北馬です。
全国制覇した秦も内紛と内乱で紀元前206年に滅亡。その後、楚漢戦争(そかんせんそう)が紀元前206年から紀元前202年の約5年間にわたり、西楚の覇王項羽と漢王劉邦との間で全面戦争となりました。またしても楚の敗北となり、前漢が成立。この時も楚人の一部が列島に逃れてきた事でしょう。このように江南人の列島への渡来は数百年かけて波状的にやってきました。列島内では、それぞれが争いにならないように住み分けていったと考えられます。列島の次に逃れていくところがないという環境の中で、争いは極力避けられたのでしょう。大陸での戦国時代に比べると、かなり戦いは減ったことでしょう。
列島全体として縄文人も弥生人を受け入れ共生しましたが、縄文人の一部は殺されたり山間地方に逃亡したと考えられます。言葉は縄文語を基本として弥生語の単語も取り入れて大和言葉(日本語)となったのでしょう。 DNAによると列島における楚人の比率は3%くらいと低いのですが、やはり支配力や文化程度は高く、影響力は大きかったのではないでしょうか。楚王の姓は羋(び)で氏は熊(ゆう)です。そこで、倭国における楚の影響について見ると、熊、隈、球磨、熊本、熊野、熊野神社、羽白熊鷲などの「くま」は楚の後裔が名付けたのではないでしょうか。それであれば、素戔嗚は楚系ということになるのですが…阿蘇、蘇我、熊襲、葛城襲津彦、倭迹迹日百襲姫などの「そ」は楚ではないでしょうか。
後漢に朝貢した奴国の倭人は自ら「呉の太伯の子孫」と言っています。奴国(博多)は呉人が中心の国だったのでしょう。吉備は縄文時代から住みついた江南人と、その後にやってきた呉人(姓は姫・き)や楚人(姓は羋・び)が多く住んでいるところです。吉備の名は姫羋(きび)からとったのかもしれませんね。穀物の黍(きび)という説もありますが、まだ学説は定まっていません。
始原の言語・日本語の可能性 母音の感性が生む心開く会話
始原の言語・日本語の可能性~(6) 母音の感性が生む心開く会話
日本語は、実体(対象)と発音が一致した美しい言語。その音を発する時の口腔内感覚→発音体感が、それが指し示す対象(実態)の様子と密接に関わっている。
これまで、子音の発音体感について3回にわたり、そして前回は、母音(アイウエオ)の発音体感の分析を展開してきました。
実体と発音が一致している美しい日本語(カ行、サ行、タ行の分析)
2重母音が作り出すやわらぎの意識(ヤ行、ワ行の分析)
ラ行(R)は哲学の響き/ナ行(N)は抱擁の感覚/ハ行(H)は熱さをあらわす
母音が作り出す感性 (ア、イ、ウ、エ、オの分析)
今回も、前回に引き続き、日本語は母音言語と呼ばれる、その「母音」の発音体感について分析を展開します。
以下、囲み部分は、黒川伊保子氏「日本語はなぜ美しいのか」より引用。
(前回の続きです)
さて、渋谷で妻を見かけた夫の話である。夫婦関係が健全なら、夫は近づいて声をかけようとするだろう。このとき、「あっ」で吊られたようになっている身体の呪縛をほどくには、ほっと力を抜くオと、前に出るイの組合せ「おい」が一番効く。出だしの瞬発力が要求されるシーンなら「いけっ」もいい。しかしまあ、容疑者を見つけた刑事じゃないんだから、ふつうは「おい」だろう・「おい、きみ」でI音を追加するとさらに体が前に出て、歩くのが楽である。
しかし、、妻の隣に若い男がいたら、夫は「えっ」とのけぞって、再び立ち止るに違いない。エは、発音点が前方にありながら、舌を平たくして、下奥に引き込むようにして出す音だ。このため「広々と遠大な距離感」を感じさせ、前に出ようとしたのに、何かのトラブルでのけぞる感覚に最もよく似合う。(中略)
さて、渋谷の妻の話に戻る。妻の隣にいたのが、最近とみに背が伸びた自分の息子だったら、夫は再び「おいおい」と言いながら、ふたりに近づくはずだ。この場合の「おい」は、ほどけるオのほうにアクセントがある。妻を呼び止めようとした、最初の「おい(い にアクセント)」とはニュアンスが違う。
ほっとした思いも手伝って、「おまえたち、こんな時間にこんなところで、何、遊んでるんだ?」とちょっと偉そうに声をかけて、「あなたこそ、残業じゃなかったの?」と言い返されたら、出す声は「うっ」しかない。受身で痛みに耐えるときのウである。
この、「あっ」「おいっ」「えっ」「おいおい」「うっ」のアイウエオ、身体感覚と密接に結びついているのがお分かりになっていただけただろうか。ニュートラルバランスのア、前にぐっと出るイ、受け止めるウ、退くエ、包み込むオ。これは、とりもなおさず口腔内の出来事である。
口腔部を高々と上げ、喉も口唇も開けっ放しにするア。あっけらかんと開放的で、ものごとにこだわらない感じが、アの発音とともに脳に届く。喉の奥から舌の中央部に向けてぐっと力の入るイは、前方に身体を運ぶパワーがある、前向きで一途な感じが、イの発音とともに脳に届く。
舌にくぼみを作って力を溜め込むウは、身体をくの字に折って、何かに耐えるような意識を作り出す。内向的で、内に秘めた潜在力を感じさせる。
舌を平たくして下奥に引くエは、広々とはるかな感じを脳に届ける。身を低くして退く体感を髣髴とさせるので、奥ゆかしさを生み出し、文脈によっては卑屈な感じを生み出す。「エへへ」という笑い声に卑屈な感じがあるのは、このためだ。
口腔内に大きな空洞を作り、そこに音声を響かせるオは、大きな閉空間を思わせる。包容力を感じさせ、リラックスさせる。大物を髣髴とさせる音でもある。
このような母音の与える身体感覚は、明確であり、ほとんど個人差がない。アンケートなどとらなくても、その回答はことばそのものの中にある。「小さく」て「機敏な」ものにはイ段の音が格段に多く、「大らか」で「茫洋」としたものにはオ段の音が格段に多い。口腔部に大きな閉空間を作っておいて、小さく機敏な感じがしたりはしない、というのは、熱いものを触って、冷たい感じがしないのと同じくらいに、物理的に明確な現象なのである。
【心を開く会話】
さて、このように、自然体で素朴、しかも身体性と密接に結びついている母音は、会話で上手に使うと、相手の心を開くことができる。
たとえば、あいづちを打つとき、単に「そう」というより、「ああ、そうなの
」「いいね、そうなんだよね」「うんうん、そうそう」「えっそうなの?」「おっそうかい?」などと、母音と一緒に言ってあげると、相手は、あいづちの本人をずっと近くに、親密に感じる。
部下や子供、異性と接するとき、相手の本音を聞きたいと思ったら、母音のあいづちはよく効くので、覚えておくといいと思う。
さらに、「おはよう」「お疲れさま」「ありがとう」など、母音の挨拶を心がけると、ぎすぎすした職場に連帯感が生まれる。凍りついた夫婦関係がゆるむ(こともある)。
逆に、心が開くと、自然に母音のことばが増えてくる。デートの最後に「楽しかった」と言われたのなら合格すれすれ、「嬉しかった」と言われたら大成功である。「イヤ」と言われたらもう一押ししてもいいけど、「ムリ」と言われたら引きさがったほうがいい。
【甘えさせない会話】
人間関係の中では、ときには、相手と距離を取りたいこともある。踏み込ませない、甘えさせない会話を作るときは、子音の強く響くことばを使うことだ。
日本語は全ての拍に母音がもれなくついてくる(拍は日本語の発音最小単位。カナ一文字にあたる)。このため基本的には心開きあうことばが多いのだが、その中でも中国由来のことば、すなわち音読みの熟語は子音が多く、強く響く。
たとえば、仕事で同席した女性に、「ご一緒できて嬉しかった。ありがとうございました」と言われるのと、「ご臨席いただき、光栄でした。感謝いたしております」と言われるのでは、ずいぶん雰囲気が違うはずである。
「嬉しかった、ありがとう、さようなら」と「光栄でした。感謝します。失礼します」では、心の距離がかなり違う。前者なら「帰りにお茶でも」と誘えても、後者だとつけ入る隙がない。下手をすれば、別れの挨拶を差し挟む余裕もない。
生徒に「みんな、がんばろう」というより、「諸君、目標達成だ」と言ったほうが、子供たちの背筋が伸びる。部下も同じことである。また、「だめよ」と言うより「失礼よ」と言ったほうが、セクハラ男を退けられる。
渋谷のセンター街で妻を見かけてしまった男の「あっ」「おいっ」「えっ」「おいおい」「うっ」、見事な分析ですね。そして、母音を豊かに含むことばを会話で上手に使うと、相手の心を開くことができる、これも、フムフムの連続でしたね。
そして、黒川氏は、このような母音を多く含む日本語の性質は、日本人の民族性にも大きく関わっていると言います。次回はその辺を追求していきます。
縄文人と農耕技術
縄文人と農耕技術
縄文時代になぜ稲作が拡がらなかったか。
以降「縄文から弥生への新歴史像」(広瀬和雄著)の抜粋含む。
”縄文時代には後期始めより畑稲作による食料獲得方法の手段が一般化してきており、それは寒冷期に突入した時代にあってそれまでの縄文人の網羅型(自然共生型)食料体系の一翼を担ったものにすぎない。”
”縄文人の食文化は採取、狩猟、漁猟といった、自然資源を最大限、能動的に獲得する技術をもっており、それは栗林の管理やひょうたんやりょうとくの栽培植物を持つといった営みをすでに縄文前期から獲得していた。”
コメやオオムギの畑稲作開始もあくまでその延長上にあると言った見方である。
”つまり、畑稲作はほかの植物性食料の獲得方法を駆逐して、みずからを選択的かつ集中的な食料獲得の手段に高めていったのではなく、旧来の食料獲得システムに新しい一つの方法を付け加えたにすぎない。”
”いうならば、植物性食料体系の幅を拡大したのであった。そういった意味ではけっして網羅的食料体系を破壊するものではなく、むしろそれを強化する役割を担った。”
では、なぜ強化する必要があったか?
”おそらく、気候の冷涼化が大きく作用したのではないか。縄文前期と後期とでは約4度ほど平均気温が違う。それにより前期では充分に採れた木の実やそれを食料とした動物が激減し、さらに前期~中期にかけて増加した人口(約3倍)と相まって、それまでの安定調和的な共存関係の持続が困難になり、新しい植物資源の補充が渇望された。そうした条件が稲作受容の大きな要因となった。”
縄文人が稲作を拒否したのかについては・・・下記のくだりで説明できる。
”後期、畑稲作が始まった後も平行して網羅的食料体系は残っており、稲作が始まった後、他文明で見られる、階層社会の成立や戦争の開始といった社会のシステムや枠組みを大幅に変換させるような形跡は見られなかった。
それは、畑稲作は既存の共同体組織で充分に対応できたと思われるし、余剰を生み出さないイデオロギーが残存し、自然を大きく破壊しない、サイクルを変動させないタブーが存在したとさえ想定できる。
後期に登場した呪術の技術はそれ(自然との関係の破壊)を戒めるために使われたとも考えられ、そのことにより、縄文時代の農耕は伝統的な獲得経済の一部を構成したにとどまり、けっして支配的な食料獲得様式にはならなかった。”
稲作を拒否したのではなく、稲作による社会の変質を拒否したのである。
「医食農同源」
「医食農同源」
食の問題は、身体にいい悪いという現象レベル(食材という単一要素)で語られることが多いが、本質は「食文化」の崩壊であり、ひいては「食文化」の母胎である「生産集団(共同体)」の崩壊にいきつく。
現代の要素還元主義(栄養素やカロリーなどの要素が主体)の栄養学がなければ健康に生きていけないのであれば、人類はとっくに滅亡している。科学的理論よりもその外圧環境(風土)において集団が長年の体験蓄積を継承してきた「食文化」の方がはるかに役に立ってきたはず。日本の伝統食をベースに体系化された理論に「正食(マクロビオティック)」があります。長くなりますが、以下引用します。
●陰性の食べ物=身体を冷やす。身体を緩める。血管を緩める。腸管を緩める。
●陽性の食べ物=身体を温める。身体を締める。血管を締める。腸管を締める。
参照:「食物陰陽表」リンク
・身土不二とは「その人が生まれ育った国や地方でできた食べ物が、その人の身体に最もふさわしい」という意味です。地球上のどの国にも固有の民族食があり、その食べ物を数百年食べ続けてその民族が繁栄していれば、その食体系は正しいということになります。
■『地域環境が作る食と健康<歯科医からの提言>』リンク
1、身土不二
・身土不二は仏教から由来している言葉で、身体(肉体と精神)と環境とが一体であり、森羅万象に当てはまる概念である。例えば「衣」「食」「住」「農」に関して考察してみると
(1)「衣」は、熱帯に住む人と寒帯に住む人とでは、衣装は当然違っていることは容易に推察できる。また気温は同じであっても、湿気の多い所に住む人と、乾燥した所に住む人では衣装の機能性も違ってくる。長い年月を経てその環境や風土にあった民族衣装が培われてきたと推測できる。
(2)「食」は、その土地に育った植物を食べて、その食べ物に順応して動物は淘汰されてきた。熱い所で採れた野菜は身体を冷やす作用があり、寒い所で採れて野菜は身体を暖める作用があるため、気温に順応できるようになってくる。また、環境や風土により焼く、炒める、炊くなどの調理法にも影響を及ぼし、それが受け継がれて伝統食が培われてきたと推測できる。
(3)「住」は、その土地に育った材料(木など)を使用して作った家が最も快適に住めると考えられる。また最も多くある材料(安価なため)を選んで建てられたと考えられる。
(4)「農」は大きく分けて、慣行農法、有機農法、自然農法あり、それぞれ利点欠点はあるが、やはりその土地の自然に任せた農法がもっとも理想と考える。特にその土地に良く育つ野菜は限られてはくるが、最も元気な野菜であると想像できる。しかし温室栽培などにすると、季節や気候には関係が無くなってくる。これは本来の農とはかけ離れたもので、元気な野菜が育っているとは思えない。
・このように「衣」「食」「住」「農」などは、環境と切り離すことが出来ないことは、容易に推測できる。また、このような環境の中でこそ「人」が健康で、快適な生活できるものと考える。
類似語で地産地消があるが、その土地で採れた物はその土地で消費されるべきものであるという概念である。物流もその地域に限られるというものである。また、その土地で循環させ、ゴミは他の地区に持ち出さない。その地域でリサイクルするのが理想とする概念だと考えられる。身土不二は生命現象を含む、すべてを包括する概念であって、地産地消はその一部の概念である。
2、医食農同源
・農から生まれた野菜を食して生きている私達は、食と農を切り離しては考えられない。気候や風土の違いによる食文化や農法、農場から食卓までの流通や保存の問題などいろいろあるが「食と農」は同源と言える。
・「医と食」を同源にする考え方は東洋医学の考え方で、食により病気にもなるが治療にもなる。医学の父といわれているヒポクラテスも「食べ物で治せない病気は医者でも治せない」と言っている。東西を問わず医と食は切っても切り離せない。
・医=食 食=農 故に医=農という数学的な図式ではなく、「医は農に、農は自然に学べ」と解いている人もいるぐらいである。理由として
(1)医は人(動物)を農は植物を対象にしているが、どちらも生物である。生物の特徴として環境に左右されるため、環境をいかに快適にするかを考えなければならない。
(2)栄養は、人は腸の絨毛によって、植物は根の毛根より吸収される。
(3)腸内細菌や土壌細菌によって健康が左右される。善玉細菌をいかに増やすかが健康作りや野菜作りの基本になる。
3、正しい食事とは何だろうか
(1)食に関する考え方
・最近では健康に関する情報が氾濫し、実に多くの健康法・健康食品が取り上げられるようになった。しかしその情報一つ一つを見てみると非常に混乱しているように思われる。
・「卵は完全食品である」と言う人がいる一方で「アトピーの原因になる」と言われる。「肉は栄養がある」と言われるかと思えば「脂肪が多すぎるから避けた方がいい」と説かれる。あげくは水ひとつとっても「毎朝、一杯ずつ飲め」と勧められたとたん「腎臓に負担がかかる」と注意されるといった具合である。
・すべての食べ物について良否の考え方は存在すると言っていいし、ましてある特定の食べ物に特効薬的な効果を期待するのは危険ですらある。食べ物についてはもっと大局的に捉えていかないとかえって本質を見失うことになるだろう。
・日本人が日本の気候風土の中で育んできた伝統的な食習慣を基本として、食生活に関する考え方を体系的にまとめたものとしては、桜沢如一氏が提唱した「正食」がある。
人間も生物である以上、環境(外圧)からは切り離しては存在できない。「医食農同源」という考え方には非常に共感できます。医、食、教育など人間の基本的な営みは結局、食を供給する「農」に帰一するのかもしれません。
その「農」のあり方がその社会の代表的な価値観なのではないでしょうか。そして、現在の日本の「農」は化学肥料、農薬漬けで効率偏重の「近代農法」です。「農」を見直すことは、すなわちその基盤たる生産集団(共同体)を見直すことに通じます。「食」の本質的解決はこの位相で考えなければ解決には至らないのだと思います。
シリーズ「日本人は、なにを信じるのか?」~第2回:現代日本人の宗教観
シリーズ「日本人は、なにを信じるのか?」~第2回:現代日本人の宗教観
現代、日本人の宗教意識の調査はいくつもありますが、その一例を挙げると、2008年5月に行われた読売新聞社の調査に、日本人の特徴が顕著に現れているようですのでご紹介します。
『日本人の宗教観がカオス過ぎる理由(私感)』からご紹介します。
読売新聞社が17、18日に実施した年間連続調査「日本人」で、何かの宗教を信じている人は26%にとどまり、信じていない人が72%に上ることがわかった。
ただ、宗派などを特定しない幅広い意識としての宗教心について聞いたところ、 「日本人は宗教心が薄い」と思う人が45%、薄いとは思わない人が49%と見方が大きく割れた。また、先祖を敬う気持ちを持っている人は94%に達し、「自然の中に人間の力を超えた何かを感じることがある」という人も56%と多数を占めた。
多くの日本人は、特定の宗派からは距離を置くものの、人知を超えた何ものかに対する敬虔(けいけん)さを大切に考える傾向が強いようだ。
日本は、先進国のなかでも無宗教率が非常に高く、72%もの人々が、特定の宗教を信じていないと回答しています。少なく見積もったとしても、約半数以上は、このような宗教観をもっていて、かなり高い比率だと思われます。宗教心の濃淡は50:50で割れ、逆に、先祖を敬う気持ちは94%の人が有し、自然に超越的な力を感じる人は56%もいるという結果です。
一見、無宗教という我々の意識と断絶しているように見えますが、これが、日本人の宗教観の特殊性を感じることころです。観念力の希薄な日本人とも言われますが、なにか歴史的な理由があるように思います。それらが、日本人の可能性になにがしか、つながっているようにも思えます。まずは、各国の宗教観と日常の日本人の宗教的習俗・風習をご紹介しながら見て行きたいと思います。
いつも読んでいただきありがとうございます。
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———————————————————-続き
◆各国の宗教観
電通総研・日本リサーチセンター編「世界60カ国価値観データブック」の各国の宗教の分析、その他のサイトから各国の宗教を見てみましょう。
社会主義国家、共産主義国家で無宗教率が多いのは、『特定の宗教を信仰してはならない』という国家政策による要因が大きいので除外して考えてみたいと思います。
キリスト教(プロテスタント、ローマ・カトリック、ギリシャ正教等含む)
・ギリシャ:93.4% ・イタリア:81.2% ・スペイン:81.1%
・ドイツ :70.0% ・イギリス:64.9% ・フランス:52.6%
・アメリカ:49.4% ・ロシア :47.5%
ユダヤ教
・イスラエル:85.3%
イスラム教
・イラン :97.5% ・トルコ:96.6% ・ヨルダン94.3% ・インドネシア:92.5%
ヒンズー教
・インド :72.2%
上記は、一神教であるヒンズー教、イスラム教、キリスト教、ユダヤ教の分布です。この地域は、歴史的にも、略奪や戦争、植民地政策、厳しい自然環境に苛まれた場所と合致していて、私権社会5000年に渡る結果として、このような宗教観(唯一絶対の神の世界)が形成されたのだろうと思います。また、インドのヒンズー教は、バラモン教から聖典やカースト制度を引き継ぎ、土着の神々や崇拝様式を吸収しながら徐々に形成された多神教となり、現在も信仰されています。上記では、50%程度の人々がキリスト教信者であるアメリカですが、こんな記事もありました。
●アメリカ人の九割が神を信じている
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ニューズウィークが先日実施した世論調査によれば、アメリカ人の実に91パーセントが神の実在を信じている。何らかの宗教団体に属しているものは87パーセント、最も多いのはもちろんキリスト教徒で82パーセントを占める。
人口の半数近い48パーセントの人が、ダーウィンの進化論を排斥しており、大学卒業生の三分の一が、聖書の天地創造説を事実だと考えている。特に信心深いとされるプロテスタントの福音主義者にいたっては、73パーセントもが、人間は神が自身の姿に似せて作り給うたのだと信じているそうだ。
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この記事は、固く信仰を貫く米国と雑多な宗教観の日本の違いが明確に現れていて、正反対の現象と思われます。現実の充足の場である本源集団が悉く解体され、観念にすがるしかない傾向の国と村落共同体充足の場が連綿と残存してきた国の違いであるように思います。アジアは、仏教、イスラム教が主流ですが、日本、韓国、ベトナムは、無宗教が多く、日本は、無宗教・仏教が主流です。我が国では、無宗教と主張する人々が多い反面、日常、信心は意識せずとも宗教的行事に参加していることに気づきます。具体的に見て行きましょう。
◆お盆
・お盆は、祖霊を死後の苦しみから救済するための仏事で仏教行事です。旧暦の7月15日を中心に、供物を供えて祖先の霊を家に迎え。13日に迎え火を焚き、16日におくり火を焚いて送り出すような風習が染み付いています。
◆命日・墓参り
・命日は、個人の死去の当月当日や月忌があり、仏壇にお花を供えたり、お墓参りをしたりします。特に、一周忌、三周忌、十三周忌、十七周忌、三十三周忌の墓前の法要は、仏教徒でなくても行われ、お寺、もしくは自宅に僧侶を呼び、お経を唱えてもらい、家族そろってお墓参りすることが多いです。
◆お彼岸
・彼岸は、浄土を表し仏教用語です。春分・秋分の日を中日とした前後の7日間に仏事を行うことで、春分の日・秋分の日がそれぞれ国民の祝日にまでなっています。これは、日本独自の仏教行事で法律にも「先祖を敬い、亡き人を偲ぶ日」と規定されています。個人やご先祖の冥福を祈る追善供養、己の功徳を積むことの意味があるようです。
◆地鎮祭・上棟式・提訴式・竣工式
・最近は、地鎮祭は、安全祈願祭とも起工式とも言いますが、よく、政教分離に違反するものとして裁判沙汰になってしまう場合があります。その判決は、習俗的行事であり、神道の布教・宣伝を目的とするものではないので、憲法違反でないと結論付けられたり、されなかったりで、非常に曖昧な判断になっています。法的には、宗教行事なのか?習俗的行事なのか?わかりませんが、社会通念上は、神主さんは信者を増やすということを意識されていないし、私たちも建物の建設の無事完成と安全をみなで祈るという意図だけであり、神事式でも仏式でもその他の様式でも気にせず、出席していますね。
◆クリスマス
・イエスキリストの降誕(誕生)を祝う祭で、キリスト教のれっきとした宗教行事であるが、日本では、年末の風物詩の一つとなり、仏教徒や神道信者と称していても、ツリーを飾り、クリスマスを祝う。江戸時代に幕府がキリスト教を徹底的に弾圧したことから、明治の初めまでまったく受け入れられなかったにも係わらず、戦前、戦後より、民間企業はマスコミなどの先導により、普及し、大衆化し、キリスト教信者でなくても抵抗なく、楽しんでいる。
◆節句
・七五三では、千歳飴を食べて親が自らの子に長寿の願いを込めて、わが子の成長を祝います。必ずといっていいほど誰もが、七五三の写真を持っているようです。もともとは、氏神への収穫の感謝を兼ねて子供の成長を感謝し、加護を祈るようになったことが起源とも言われていますが、氏神とは、神道の神。神道の風習であり、それは、意識していませんね。
・七夕は、緑・紅・黄・白・黒の五色の短冊に願い事を書き、葉竹に飾ることが一般的に行われています。五色とは中国の五行説からであり、陰陽道とつながるところがあります。もともとは、お盆の行事の一環。江戸時代中期には既に江戸で七夕祭りが始まっており、仏教と庶民の先祖供養の習合による宗教にまつわるもので、織姫と彦星の伝説は、妙見信仰にもつながるという説もありますが、あまり、意識していません。
・五節句と言われる、1/7人日の節句(七草)・3/3桃の節句(雛祭り)・5/5菖蒲の節句(端午の節句)・7/7七夕・9/9菊の節句で陰陽思想に通じるところがりますが、意識していませんね。
◆初詣、除夜の鐘、初日の出
初詣が習慣化したのは、明治時代中期ころのようで、もともとは、「年籠り」と言い、家長が祈願のために大晦日の夜から元日の朝にかけて氏神の社に籠る習慣で、それが発展して、年が明けてから初めて神社や寺院などに参拝する行事となったようです。一年の感謝を捧げたり、新年の無事と平安を祈願したりしていますが、神道の行事でありながら、寺院・仏寺など意識せず詣出ていることが多いようです。今や、日本人の風習として、初日の出、除夜の鐘などとともに固定され、宗教行事でないかのように振舞われます。
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◆節分・豆まき
仏教行事なのか神道行事なのか?わかりませんが、古来日本では、季節の変わり目には邪気(鬼)が生じると考えられており、それを追い払うための悪霊払いの行事が執り行われたようです。豆撒き行事は、撒かれた豆を自分の年齢(数え年)の数だけ食べ、自分の年の数の1つ多く食べると、体が丈夫になり、風邪をひかないというならわしがあるところもあります。鬼に豆をぶつけることで、邪気を払い、無病息災を願うという意味合いがりますね。寺社が邪気払いに行った豆打ち儀式が起源のようですが、日本では室町時代以降の風習のようです。これも、あまり、宗教行事と意識せず私たちは楽しんでいます。
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こうしてみると、もとは、宗教や信仰に起源があるとしても、ひとたび習俗や風習となってしまったものはもはや宗教と見なさいという価値観が日本人にはあるようです。縄文人の受け入れ体質の影響か?古代人の自然への感謝の念からか?日本人は、こういった意識が寛容で、広く、許容できる柔軟な観念体系をもっているようです。しかし、排他的性質のある宗教に限定的に帰依することを嫌い、争いごとを好まない日本人の宗教観・観念体系は、これまた、おもしろいなぁと思いました。
阿満利麿(あま・としまろ)氏の著書「日本人はなぜ無宗教なのか」より、日本人の宗教観の特徴を示す事例がありましたので紹介します。
「無宗教」「無神論者」という言葉が、どれだけ無造作に使用されているかのよい見本がある。それは、ある本を読んでいて発見したのだが、村祭りに欠かせぬ人物として、村人から絶大な支援を得ている神主が、こともあろうに、「無神論者」を自認しているのである。
その神主は、「神仏に敬虔であるから神主業を努めているのではなく、 【むらがそれを必要とするから、また、私のなかでも家系や地縁が断ち切れない重みがあるから、これを役目と心得て】そうしている」といったあと、「無神論者である私のような立場の者が、祭祀役が務まるのも、また、日本のむらの祭りではなかろうか」と結んでいる(神崎宣武「いなか神主奮戦記」より)
私も共感できる部分が多く、むらや周りの人々が期待するから、宗教行事も風習や習俗に定着して、宗教行事であることも意識せず、受け入れ、多様な観念体系を作っているのだろうと思います。これが、現代日本人の宗教観であり、それを無宗教といっているにすぎないのではないか?と思います。
前述したアンケート結果では、その中でも92%のものが先祖を崇拝すると語っています。この先祖崇拝=祖霊信仰がなぜ、こんなに多いのか?その成り立ちを見てゆくことで、また、私たちの観念体系が理解できるのではないかと思います。次回にご期待下さい。
シリーズ「日本人は、なにを信じるのか?」~プロローグ
シリーズ「日本人は、なにを信じるのか?」~プロローグ
こんにちは。
みなさんは、年末はクリマスイブ、年始は初詣。2月はバレンタイデー、8月はお盆、秋には豊穣祭。 :D と、色々な宗教の行事に参加されていますね。日本人にとっては全く違和感のないところですが、外国人から見るとかなり無節操に見えているようです。この違いはどこから生じるのでしょうか?1神教と八百万の神の違いなのでしょうか? :roll:
又、本能を直撃し 世界を驚嘆させた3.11では、日本人はすぐに集団第一・助け合いの行動に向かいました。これには外国人は相当に驚いたようです。
普段の生活でも、本能を直撃する状況でも日本人は明らかに世界基準と異なっているようですね。
何か深いところで、日本人と(1神教の)外国人の思考方法がことなっているようです。
この違いを、「宗教観」を元に日本人の特殊性として解明してゆきたいと思います。いつも応援をよろしくお願いします。
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さて、このシリーズでは、こうした意識の元に以下のストーリーで進めてゆく予定です。
もちろん、この激動の時代にあって、時々刻々の状況に応じて組み替えて行く予定です。
どうぞご期待ください。
第1回:プロローグ
第2回:現代日本の宗教観
第3回:祖霊信仰とは何か?誰が持ち込んだのか?
第4回:それ以前の日本人の原始宗教観とは?精霊信仰とは?
第5回:神道と日本の原始宗教とのつながりとは?神社NWとは?
第6回:仏教が日本に定着したのはなぜか?
第7回:神仏習合はなぜなされたのか?
第8回:日本人の信仰は一神教世界とどう違うのか?
第9回:日本人の可能性は?
第1回は渡来人はどのように縄文人集落に食い込んで言ったのかというテーマです。
弥生時代再考~プロローグから2ヶ月が経過しましたが、いよいよシリーズを再開したいと思います。第1回は渡来人はどのように縄文人集落に食い込んで言ったのかというテーマです。
近年、弥生時代が早まるという事が考古学の世界で取り沙汰されています。“弥生時代500年早まる”という藤尾慎一郎氏の「新弥生時代」の一説です。水田稲作の伝来時期を遺構から炭素年代法で算出し、較正年代を加え、弥生時代が従来の紀元前3世紀から最大紀元前10世紀にまで遡るという説です。これは2003年に新聞発表され、センセーショナルなニュースとなったのですが、その後徐々ににこの説は浸透しており、稲作伝来を弥生時代と定義付けるなら、開始年代は最低でも200年、最大で500年遡る事はほぼ間違いないようです。以下、藤尾氏の説を弥生時代の年代設定と仮定して記事を始めていきたいと思います。
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「紀元前10世紀(3000年前)に九州地方に水田稲作伝来。300年間で畿内に広がり、紀元前6世紀に近畿で稲作が始まる。さらに関東にはその後400年、紀元前2世紀に伝わる。」
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【初期水田稲作は渡来人と縄文人の融合の中で徐々に浸透していった】
紀元前10世紀の水田稲作の跡は佐賀県唐津の菜畑遺跡です。
また少し遅れて前9世紀には北九州の板付遺跡で水田稲作が始まっています。
さらに前7世紀には有明湾で水田稲作が始まりました。
なぜこの時期に北九州で稲作が始まったのか?2つの要因があります。
一つは北九州そのものが持つ地理的特性です。
縄文晩期、既に4000年前頃から九州では畑作中心の栽培農耕が行なわれています。この地域は古くから長江流域の渡来民が徐々に入り込んでおり、栽培技術や栽培品目はその技術と共に大陸から伝え及んでいました。これは稲作に限らず人、物の玄関口であった土地の持つ特性です。
二つ目は福岡の早良平野は縄文晩期の気候変動により広い沖積平野が形成された事です。さらに出来たばかりの平野には縄文人集落がまだ形成されておらず無人の良好な土地が広がっていたのです。これが農耕を営む絶好の条件をもたらし、技術を持った江南人が渡来して直ぐに水田稲作を始める契機になったのでしょう。
玄関口である北九州に絶好の無人の農地があった。これが弥生水田の始まりとなりました。
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さて、この時代にはどのような人が、どういう状況でたどり着いたのでしょう?
大陸から日本列島に渡るのは、今では船舶技術もあり、容易ですが、この時代は命がけです。特に狭い玄界灘は潮の流れが早く、まさに命がけで脱出する要因が大陸側にあった事が条件になります。中国大陸で3100年前に起きた殷から周への王朝転換はそのきっかけとなり人の移動、各地での戦乱勃発を促しました。
3000年前に大陸での戦争圧力で来たのは江南人と古朝鮮人です。彼らが最初の稲作を伝えたのですが、頭骨とコメの種類から有明海と佐賀県の菜畑遺跡は江南人によってもたらされ、北九州の板付遺跡は古朝鮮人によって稲がもたらされたとされています。
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しかし、この時代いずれも稲作は来ても、金属器は到来しておらず、戦争の跡もありません。渡来人は最初は無人の平地にコロニーを作り、漁撈で食いつないでやがて稲作をはじめ、友好的に近づいてきた縄文人に稲作の技術を伝え、また近接同居して共存していました。その辺を著書「王権誕生」では以下のように書かれています。
「西日本の縄文晩期後半の突帯文土器を出土する遺跡(縄文系)と、朝鮮系無紋土器や初期の遠賀川系土器を出土する遺跡(弥生系)をみると、まったく棲み分けている場合と、圧倒的に多量の縄文系に少数の弥生系がともなう遺跡、圧倒的に多量の弥生系に少量の縄文系がともなう遺跡、が地域の中で共存している事が多い。渡来人や渡来系の弥生人は実に巧妙に西日本の縄文人の社会に入り込んでいったのだ」
著書には巧妙にと書いてありますが、巧妙となるのは次の段階からです。
初期稲作伝来民は大陸での私権闘争の社会を経験しておらず、むしろいきなり始まった戦争や闘争に驚き、逃げ延び、たどり着いたのが日本列島だったのです。その意味では農業は伝えたけど、私権社会の中で序列を作り、管理する農業社会の手法はもっていませんでした。稲作は行なっていたけど畑作や漁労、狩猟との並存であり、稲作への依存度は低かったと思われます。したがって菜畑、板付に登場した初期農耕は徐々にしか広がらず、近畿へ伝わるのに300年かかったのでしょう。
農業が始まれば一気に拡大し、争いが起き、戦争が始まる。この弥生初期の農耕はその定説にならわない、生産様式としての農業だけが粛々と広がった段階だったと思われます。そしてこの時代の農業は統合様式としてはそれまでの縄文時代の共同体社会の延長だったのです。
【農耕が一気に拡大するのは呉越渡来の私権意識が入り込んでから】
第2段階の渡来は紀元前5世紀後半から始まります。主役は中国大陸の呉と越です。
前473年に戦国時代の中、江南地方で呉が越に滅ぼされ、呉人が沿岸を逃げ延び朝鮮半島南岸に移動します。さらにその勢いで北九州、有明に紀元前5世紀から3世紀になだれ込んできます。この時の渡来した呉の難民は既に大陸で激しい戦争経験をしており、農業を中心として階層化された私権社会を作ってきた連中です。負けて逃げ延びたとはいえ、新天地の日本で自らの地盤を固め、勢力を拡大するのは必須でした。
彼らはまた、既に大陸で使いこなしていた金属器を持ち込み、高度化した稲作技術の伝来と共に短期間に耕地を拡大し、縄文人を従えた巨大集落を作ります。それが吉野ヶ里であり、福岡に出来た第2次板付遺跡から那珂遺跡でした。
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吉野ヶ里遺跡の戦争の遺物 リンクからお借りしました
この時代には環濠集落が多く誕生します。巨大環濠を持つ吉野ヶ里遺跡では縄文人の竪穴住居が周りを囲み、中心に渡来人の高床式住居があります。縄文人を巻き込んでクニが形成され、明確に渡来人と土着の縄文人は階層分けされていました。戦争跡は弥生時代においてこの時期にもっとも多くあり、弥生人だけでなく縄文人も戦闘で殺戮された跡が残っています。
いわば圧倒的な武力で征圧したのが第2段階の渡来人、呉人の武力支配という手法でした。
さらに前334年には越が楚に滅ぼされ、同様に日本列島に渡来します。彼らは既に呉人が独占していた北九州を外して出雲から新潟に至る日本海側にその勢力を広げていきます。
中国大陸において(あるいは世界中の各地域では)、農耕社会は武力支配の後に飛躍的に拡大しました。民を土地に縛りつけ、上がりを搾取する手法において農業は最も適しているからです。
一般に歴史書では農業が始まると戦争が起きると言われていますが、事実は逆です。
武力で序列社会を形成した後、支配者が耕作地を拡大して効率の高い穀物単独栽培を推進していくのです。
日本列島においても武力支配から序列社会の形成、農地拡大という路線は大陸と同様に進行したものと思われます。しかし、支配される側(縄文人)の抵抗があまりに少なかった為、武力行使は最初だけで、後は武器はひたすら権威の象徴物、祭祀具として用いられます。一見平和裏に進んだと思われる弥生農耕も実際には、この前4世紀を境とする社会統合の変化によってもららされたのです。そういった意味では弥生時代を生産様式で定義するのは適切ではなく、共同体社会から私権社会への社会統合の変化で定義した方が適切でしょう。従って弥生時代は500年早まったのではなく、やはり従来の歴史書どおり前3世紀辺りが適切なのだと思います。
【畿内の稲作地帯を押えたのは第三の勢力、楚の末裔では】
日本列島は九州から近畿へ300年で農耕が伝わり、前6世紀には奈良盆地や神戸で水田跡が見られます。しかし、その後水田遺跡は拡大、連続しておらず、代表的な大規模水田跡、唐古、鍵遺跡が登場するのは前1世紀になります。これを九州からの勢力が伸びてきて支配したと見る事もできますが、先の章で述べたように後発の渡来民が先着の渡来民集落を避けるようにして新天地を押えていったとしたら弥生中期で稲作地帯が一気に大型化した近畿もまた、呉、越とは異なる勢力が新たに押えていったと思われます。
前3世紀の大陸の状況は秦が中国統一した時代です。前223年、楚が滅ぼされ、秦建国の直後に万里長城建設に楚人が送り込まれました。長期化し過酷な労働を強いられた楚人が流民し、彼らが近畿へ入ってきた可能性があります。また、この時期始皇帝に命じられ巨費を投じて渡来した「徐福」男女3千人の存在があります。この徐福と楚人を重ねて見る事はできないでしょうか?著書「王権誕生」では弥生の稲作伝来の中心に徐福が関与しているのではないかと書かれています。
>「「史記」始皇帝本記によれば、前221年、国内を統一した秦の始皇帝は、斉の方術士「徐福」の上書に応じて巨額を投じ、東海中の3つの神山に仙人を求めさせたという。また史記や三国志には徐福は平原広沢を得て王になったとか、蓬莱神仙を得られず、始皇帝の註殺を恐れて、この州(日本)に留まったという記述もあった。はたして本当に徐福に率いられ、五穀を携え、百工を含んだ童男童女数千人からなる集団が大挙して列島に渡来したのか、真実は計り知れない。だが数家族単位で幾重もの波となって半島から渡来した多くの「徐福」が稲作技術や金属器製作技術をたずさえて渡来し、積極的に普及させたことが、弥生文化幕開けの大きな原動力になったと私は推測する」
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(徐福の経路図 ●印は徐福伝説のある地域)リンクから借用しました
最も後発の楚人=徐福が近畿に金属器を携えた一大農業地帯を広げていったと見れば以後の大和の拠点が近畿になって行ったこととも整合します。
また、この楚人が作った大和の前進は、銅鐸、銅鏡が先んじ、武力ではなく最初から権威と呪術で統合しました。各地に徐福伝説も残っている事からも、彼らが表面上、縄文人に取り入ったことが伺えます。最も巧妙に縄文集落に入り込んでいったと言えるのは、この徐福の一派のように高い技術と神話、呪術がセットになった渡来民たちでしょう。
これら3つの段階を見ていくと以下のようにまとめられます。
1.10世紀~農耕技術だけを伝えた初期渡来民(江南人+古朝鮮人)⇒まだ縄文延長の共同体社会だが、次の稲作拡大の下均しになった時代。
2.前5世紀~武力で従え、クニ(巨大集落)を作り上げた私権社会経験民(呉、越の難民)⇒序列を元にした私権社会の始まり
3.前2世紀~始皇帝の圧力から逃れ、高い技術と呪術を駆使した平和志向の支配者(楚=徐福)⇒後の神社統合に繋がる国家統合の始まり?
※農耕社会の仕組みの基礎となった弥生時代はやはり第2段階から始まる。
また、これらは西日本での支配形成段階で、愛知県以東の東国への稲作伝播や支配はもう一段階後になります。弥生時代後期に濃尾平野で縄文人と激しい戦乱の跡があり、また東日本では稲作は伝わっても土器(遠賀川)は伝わっておらず、容易に支配できなかったのが実態でしょう。