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弥生時代再考~プロローグ

弥生時代再考~プロローグ

311の震災から1年半が経過しました。福島では現在も放射能が漏れ続け、あるいは放射能を浴びた土や建材の処分地も決まらないまま除染が進まず、震災復興は阪神大震災の時に比べ、遅々として進みません。さらに政治はこの状況下でますます混迷を深めており、対中や対米など緊急の課題を目前に判断保留が続いております。
マスコミや金貸しなど諸所の作為や思惑が背後にあるとは言うものの、日本中が思考停止に陥り続けている現在、改めてこの国の成り立ちと国民の本質である受け入れ=縄文体質について検証しておく必要を感じています。

今回はその第一弾として日本が大きく転換する事になった弥生時代について再度検証しておきたいと考えています。弥生時代再考はその為のテーマとして設定しました。
これまで当ブログでは弥生時代は渡来人と縄文人の平和裏の融合の時代であり本格的な支配、被支配、固定階層化による序列社会の登場(=私権社会)は騎馬民族が登場する古墳時代を経てというように考えておりましたが、そこが本当だろうか?というところが疑問の原点です。
私権原理がどのように登場したのか?まずは世界の文明史を貫通する歴史構造から押えていきたいと思います。
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遊牧と農耕(遊牧の画像はこちらよりお借りしました)

【始原人類~1万年前】
人類は500万年前に誕生したと言われていますが、約1万年前、弓矢の発明をするまでは洞窟の中で生活していました。10人から20人の小さな集団で暮らしており、夜間に洞窟から出て死肉や骨を密漁してぎりぎりの生活をする弱く貧しい存在でした。人類を取り巻く自然環境は外圧でもあり、どうする事もできない事から脅威と畏怖の対象でした。それでもその自然にひたすら同化し対象化することで自然の法則(=精霊)を発見し、その後の言語や文字、道具、科学の発明へと展開していくのです。
火や石器、弓矢の発明により洞窟から地上に出た人類は採取、狩猟といった生産基盤を獲得、ようやく動物と互角に戦える存在になっていきます。自然はそれまでの畏怖と驚異という超越存在から時には恵みを与えてくれる身近な存在になっていきました。
採取民はその後、植物の観察から栽培技術を見つけやがて乾燥地から農耕が発明されます。また、狩猟民は捕獲した動物を飼いならし管理する事により牧畜を発明しました。
この牧畜の発明が自然をコントロールする端緒になり、これによって家畜に対する支配意識が誕生しました。(後の時代を振り返ればこれが私有意識の母胎になっている可能性があります)
【1万年前~七千年前】
牧畜民は8千年前の乾燥化を機に遊牧を発明、広範な移動領域を縄張りとします。それまでは誰のものでもなかった大地がある時から所有の対象物に変化していきます。
遊牧は10人程度の家族単位で家畜と共に移動しながら生産していく様式で、縄張り意識だけでなく防衛意識(他の遊牧集団からの)や、排他意識、いわゆる自集団第一の価値観=集団自我により結束していきます。
【農耕】と【牧畜⇒遊牧】という2つの生産様式がほぼ同時代に登場しますが、後の世界史では常に遊牧民が農耕民の上に立ち支配してきたのは明らかで、この遊牧発の攻撃性や否定視、支配視がその後に登場する文明化の原動力になっていったのです。
【七千年前~五千年前】
遊牧民は遊牧生活を続ける中で農耕民と接触遊牧民の生産物である乳製品や肉と農耕民の穀物を交換する交易集団として特化していきます。また遠隔の交易物を運ぶ為、財の管理の必要から武装集団化していきます。さらに交易を続ける中で商売の原点=騙しの方法論に長けていきます。
そして五千五百年前の乾燥と飢餓を契機に交易集団から略奪集団へ転化します。武装化した遊牧集団が農耕民を襲い、食料を獲得、さらには皆殺しにして集落から女や家畜を搾取していきます。一旦略奪が始まると、その報復や防衛から次々と武装化が強化され、玉突き的に広域に拡大していきます。こうして農耕地帯から勝ち抜き戦を潜り抜けた最初の遊牧集団が都市国家を形成していくのです。そうして誕生したのが4大文明発祥の各地であり、中でも乾燥地帯の一角に肥沃な農耕地があるメソポタミア地域では約5千5百年前、世界最初の私権国家が登場する事となりました。
私権国家誕生以降は遊牧時代に培った支配意識と武力による力の統合、交易による騙しの原理で農耕民を支配し、同時に国家拡大、武力拡大の為に農業を発達させ農民から搾取した財力で自らの地位を不動のものにしていきました。
これが古今東西の私権社会の基本構造になっているのです。
人類の統合原理を改めて見て行きます。
極限時代(共認原理)⇒牧畜、遊牧(私権意識の母胎)⇒文明化・国家形成(私権原理)⇒現在(私権原理)
そして現在、この私権原理での社会=私権社会は豊かさの実現と共に圧力が消滅し、また際限のない自然破壊、過度な人間中心主義により行き詰まりを呈し、方向転換を求められています。人類史には共認原理と私権原理しかないわけですから、私権原理に限界が来れば再び共認原理による社会の再構築が始まる事は十分に予測されます。
そう考えると、大きく人類史は約5千年間の私権社会を挟んで以下のように動いています。
★共認原理⇒ ★私権原理⇒ ★共認原理
ここで重要な視点を提起しておきたいと思います。
「よく文明社会は農耕の始まりによって人口拡大、土地の争いによってもたらされたというのが通念で教科書や歴史書にも農耕革命としてそう書かれています。しかし、歴史をつぶさに見ると文明=私権社会を辿ると牧畜、遊牧発の私有意識、集団自我に端を発しており、彼らが武力を用いて支配を進める為に国家が誕生、そして農業が灌漑技術を伴い急速に拡大、発展していったことがわかります。
つまり、私権社会は農業発ではなく牧畜⇒遊牧⇒私権意識発で登場したのです。」
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
さて、本題に戻ります。
日本において弥生時代は私権社会の始まりです。
上記の歴史認識から押えなおすと農業が一気に拡大した弥生時代もまた渡来人により私権意識が持ち込まれ、彼らの支配を確立するために農業が拡大したということになります。
これまで当ブログでは弥生時代について以下のような見方をしていましたが、今回、あたらめてその根幹となる融和、融合という見方を改める必要を感じております。
【従来の弥生時代史観仮説】


弥生時代は中国の呉越の敗者が少数で日本に渡来し、九州、中国地方を中心に農業生産を始めた時代であり、農業は渡来してわずか500年で日本の7割の地域に拡大した。
しかし、弥生時代とは局地的な渡来人同士の戦争はあったが、総じて戦争は少なく、縄文人と渡来人が平和的に融和し、現日本人の母集団を作り出した時代である。
従って弥生時代には明確な階層化はなかった。神話や祖霊墓を中心に氏族農耕集団が統合される緩やかなもので首長はいたが、縄文社会の長老や巫女の延長に近いものであった。明確な私権社会への移行は朝鮮半島から集団丸ごと移動してきた古墳時代大和朝廷時代と設定した。

【あたらな弥生時代史観仮説】


弥生時代は中国、朝鮮半島から次々と農耕技術を携えた小集団が渡来し、日本国内で彼らの基盤を形成した。武器をちらつかせながら土着の縄文人を従えて渡来集団ごとにクニ作りを行なった時代である。
そこでは母国で既に形成されていた私権意識を持ち込み、母国で行なわれていた私権原理に基づいた序列階層社会を形成していった。
最も役に立ったのが稲作農耕で、それに基づく土地信仰、祖霊信仰、太陽信仰が支配の為に作られた。また、実質的にも農業技術を拡げる事で縄文晩期の寒冷化で食料にあえぐ縄文人を飢えから救い、土着人と婚姻関係を結んで人口を拡大する事でより渡来系の基盤を磐石にした。ただ、年代を重ねるごとに新たな青銅や鉄の技術をもった渡来集団が登場し、渡来人同士の縄張り争いが繰返された。それらが収束し安定するのが古墳時代であり、その後の日本建国に繋がる大和朝廷の誕生である。
つまり弥生時代水田稲作は渡来人が私権原理によって社会を作るための手段であった。

本シリーズでは上記の仮説を裏付ける歴史データー探索や史実の整合を図っていきます。
日本国もまた私権社会形成の為に農業拡大は行なわれたのですが、他地域と異なるのが被支配者の側の縄文人の方です。元々農耕民ではなく財も土地もない縄文人は皆殺しや略奪を受けずにいわば ”いとも簡単に”渡来人に集団丸ごと労働力として取り込まれていきました。この縄文人の支配のされ方=“いとも簡単に“のほうも日本人の意識を解明する上で土台になってくるように思います。
それでは弥生時代再考初めていきます。
各記事は以下のように進めていく予定です。
1.渡来人と縄文人集落にどのように食い込んだか?
2.弥生時代の武器の登場と使われ方
3.渡来人が伝えたものは水田稲作と私権原理がセット
4.神話、信仰による縄文人支配の手口とは
5.古墳築造の謎を解く
6.縄文人は本当に“いとも簡単に”支配されたのか?
よろしくお願いします。

304426 日本の歴史(年表) 第1回~列島形成から縄文時代早期まで

304426 日本の歴史(年表) 第1回~列島形成から縄文時代早期まで

これから日本の歴史を年表化していきます。
最新の情報やこれまで類ネットなどで追求した内容を盛り込んでいきます。

(年代は全てBCで表記)
★は中国、朝鮮半島の動き

気候・地理・移動)
BC31000年以前 日本列島は大陸と繋がっており、海流の影響が少なく列島は針葉樹に包まれている。
日本列島の人骨発掘は沖縄で30000年、24000年、静岡県で16000年、沖縄の湊川人が16000年とあるが、縄文人とは繋がっていない。 

BC23000年 現在より-5℃

BC23000年~18000年 寒冷化に伴いバイカル湖に居住していたC3系がサハリン経由で大陸から日本に移住。旧石器時代の中心になる。
細石刃石器を生み出す。専ら狩猟で生業。定住はしていない。
(※日本列島の人口は13000年頃で700人~3000人)

BC17000年 日本列島の海抜が現在より120m低い(最低海抜)

BC15000年 対馬海峡ができる(但し冬には氷橋ができ往来ができる)

BC15000年~10000年(縄文時代草創期)
鳥浜貝塚(櫛、釣り針など発掘 漁労の足跡)
BC14000年世界最古の土器発掘(青森県大平山本Ⅰ遺跡)
細石刃石器がなくなり、やじりとしての石鏃(じん)が出土しており、弓矢の使用が始まる。

BC12000年 北海道最北の宗谷海峡開通 日本海に生物が繁殖

BC11000年 森の民D2系が日本流入。1万年間に渡る気温の上昇、低下を繰り返す中でモンゴル高原から朝鮮半島を経由して北九州から流入。このD2系が後の縄文文化、日本文化形成の核になる。(D2系は現在でも日本人の中に4割程度見られ、世界でも珍しい)

BC10500年 現在より-4℃
玄界灘が開通。日本海に暖流が流れ込み、現在の日本列島の形になる。
日本海側が温暖化。針葉樹林帯が西日本から徐々に果実の豊富な落葉広葉樹林帯へ移行する。定住化と採集生産が本格的に始まる。    

BC10000年~5000年(縄文時代早期)
気候の温暖化から海水面が上昇。東日本を中心とした縄文文化が始まる。

BC8200年  現在より-5℃(最終寒期である後氷期が終わる)

BC7500年 南九州の上野原遺跡に最古の大規模定住集落跡

★BC7000年 長江流域で最古の稲作跡 

BC5300年 九州で喜界カルデラの噴火。以後西日本は数千年間噴火の影響を受け、人口増加が止まる。縄文時代の人口構成は落葉広葉樹地帯とも重なり、以後中部地方以東に9割という偏った配置になる。

BC6000年 列島の人口は約2万人

★BC5000年 長江文明が発生

BC4300年 ミャオ族の渡来、長江文明発の文化が日本列島に入る
 丸木舟、高床住宅、ヒスイ等江南文化


※縄文早期までの婚姻
人口がまだ少なく、一族の間での総偶婚(全員婚)=族内婚(クナド婚)であった。この婚姻形態が以後、江戸時代まで続く婚姻慣習の基本となる。縄文中期以降は人口密度の多い地域から族外婚(集団外と婚姻)をするようになり、共同体間の緊張圧力を婚姻によって緩和した。

次回は縄文中期~縄文晩期までの予定

304652 日本の歴史(年表)第2回~縄文時代前期~縄文晩期まで
 
田野健 HP ( 54 兵庫 設計業 ) 15/06/05 AM02 【印刷用へ】

第2回は縄文時代前期~晩期(弥生時代前夜)までを年表化します。
尚この時代の前提として中国・朝鮮半島からの影響が出てきていますので、次投稿には中国の同時代の動きを重ねてみます。
(※この投稿には中国の情報は入れておりません)

縄文前期といっても長い縄文時代の2/3は過ぎていますので、実質上は中期と呼んでもいいくらいの時期です。前期の始まりBC5000年から始まります。因みに縄文時代の各期の区分は土器の特性変化によって学者が定めたもので、他の時代と違って王朝や戦乱の背景はありません。
ただ、土器の形態変化が気候や集団の外圧と連動しているのも一つの特徴です。

(年代は全てBCで表記)

縄文前期~中期の気候)
BC6000年~BC3000年 ヒプシサーマル(高温)期
BC5500年 現在と同じ気温まで上昇
BC3000年 現在より+2℃高い平均気温 青森が東京と同じぐらい
      縄文海進で海抜が現在より5m高い。
      関東平野群馬県辺りまで海が入り込む

縄文前期)
BC5000年~BC3500年
 円筒土器文化が北海道南部~東北地方にかけて拡大
 ※本格的な土器文化が広がる。
 ※定住化が進み拠点集落が各地に点在するようになる
 この期間に列島の人口は2万人⇒11万人に拡大。

縄文中期)
BC3500年~BC2500年
 大規模拠点集落が東日本に登場する。
 ※三内丸山遺跡(BC3500年~BC2000年)
 最大人口500人(予測)の巨大集落。三内丸山の周辺にも同様の規模の集落が並存する。栗栽培が確認されており、大規模な建物跡もあり、祭祀や周辺集落のセンター的交流が為されていたものと思われる。
 黒曜石やヒスイの広域交易がこの時代に進む。
 新潟県~長野県での縄文文化も進み、有名な火焔土器もこの時代に登場
 この期間に人口は11万人⇒26万人(縄文時代最大数)まで拡大。

集団間が近接し、緊張圧力も高まるが、縄文時代を通じて戦争跡はない。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

縄文後期~晩期の気候)
世界的にはBC3500年から寒冷化、乾燥化が始まり、遠くメソポタミアではこの時代に人類最初の殺し合いの戦争が始まっている。
西洋と東洋は約500年の差が生じるが、中国から日本にかけてもBC2000年から急激な寒冷化が始まる。
※4200年前から地球規模の寒冷化が進み、長江文明を初めとするインダス文明などの古代文明は消滅する。⇒184606

縄文後期)
BC2500年~BC1300年
土器の形状は用途に応じて多様化していくが、この期間に縄文の縄目が消え、摺消縄文になっていく。
環状列石(秋田県大湯環状列石)の遺跡が登場するのもこの時期。
共同墓地、日時計など、石の意味合いには諸説あるが、気候変動に対する人々の思いが切実になってきている時代。

集落は分業、専業化が為され、千葉県や東京では大型貝塚が登場。
茨城霞ヶ浦沿岸で土器による製塩がなされていることが確認されており、塩の生産が為され、各地へ交易された。84204

縄文晩期)
BC1300年~BC950年
縄文後期から始まった寒冷化は晩期から弥生前期でピークになる。
BC500年には-1℃の極寒期を向かえるがここから反転し、AC0年には現在と同じ気温まで上昇する。
列島の人口はBC2000年~BC1000年の期間に26万人⇒8万人まで激減
過半は西日本に移動するが、東北地方のみこの時期に人口は減っていない。

晩期の最も大規模な遺跡が青森県の亀ヶ岡文化。
遮光土器などで有名だが、亀ヶ岡土器洋式は全国(奈良県、京都)に広がっている。
北九州や出雲に、この時代の寒冷化、大陸での呉越戦争の敗者(江南人)が中国から朝鮮半島を経由して小集団で何派にもわかれて渡来している。

亀ヶ岡文化や北海道南部の縄文文化弥生時代以降も続縄文時代として後1000年間は継続する。
一方で、北九州を中心に縄文晩期(BC900年)には渡来人の技術を受け栽培、水田稲作が始まる。⇒以降弥生時代の歴史へ

305143 日本の歴史(年表)第5回~日本の私権時代の始まり(概況)
 
田野健 HP ( 54 兵庫 設計業 ) 15/06/20 PM10 【印刷用へ】

第5回は弥生時代(BC220年)~古墳時代大和朝廷(680年)までを見て行きます。

年表にかかる前にこの時代を貫徹する流れを文章にしておきます。

弥生時代は稲作伝来から半島経由の弥生土器の誕生をもって時代区分にしている。水田稲作伝来は前10世紀に九州に入っているが、拡大は遅々として進まず、稲作が全国に武器、銅鐸の青銅器文化をもって拡大したのは前3世紀以降である。弥生時代が500年早まったとするのではなく、北九州で戦争が勃発した前220年を弥生時代の始まりとする。
クニの始まりとなった弥生時代から大和朝廷形成までは中国、朝鮮半島の戦乱と連動しており。言い換えれば中国、半島の敗北部族の受け皿として、できあがったのが日本国と言える。一方で土着の縄文人、縄文晩期に渡来した江南人が形成した弥生人が新たな渡来人と混合し、文化的にも合流したのが日本でもある。従って渡来人が支配したのではなく、渡来人が日本に融合したのだ。

渡来人と一言でいっても時代ごとに何派も別れて渡来した。
役者だけ見ても以下のようにある。

呉越戦争の敗者である呉越人、秦帝国から逃れた徐福、魏の圧力から逃れた高句麗人、半島で敗れた伽耶人、国の滅亡で送られてきた百済の官僚、

彼らはそれぞれ敗北部族故に最初は日本国内で住み分けて定着するが、3世紀以降は縄張りが接触し、高句麗勢力対伽耶+土着勢力という構図の中で古墳を築造して日本列島にマーキングをしていった。その中で弱体だった伽耶勢力は百済を取り込み、蘇我氏の政治力を使って一気に大和朝廷を築き上げた。

弥生時代前半は呉越戦争の敗者が渡来。
呉越戦争の敗者は日本だけではなく朝鮮半島馬韓弁韓)にも渡来し、水田稲作文化を形成した。最も日本に近い、弁韓伽耶地域とも呼ばれ北九州地域と一体となって倭国を形成する。鉄の生産拠点でもあった伽耶は1世紀には北九州に九州王朝を作るが、これは半島側から見れば、倭国という集合体における日本側の拠点に過ぎない。

一方で中国に登場した秦時代に日本に亡命した徐福率いる技術者集団は各地に散らばり、その後の古代豪族の核となり、各地に伝説(徐福伝説)を作っていく。徐福直系の豪族が3世紀から始まる大和朝廷の中心者となった葛城氏であり、彼が各地の徐福ネットワークを作って畿内を中心に3世紀には王朝を形成していく。

その王朝を形成する契機は出雲から新潟にかけて渡来し始めた高句麗勢力である。
中でも出雲はそれまで拠点としていた伽耶+土着勢力が大規模な戦争で敗れ、中国地方及び畿内に移動する。(物部氏
高句麗勢力は出雲、尾張日本海側を占拠するが、畿内に入る事ができず、やがて関東を中心とした東へ拠点を移動する。それが日本史では描かれていない関東日本国という大和朝廷と並存する規模の国であった。日本には古代から西と東には異なる国があったことになる。(古事記日本書紀は日本支配の為の歴史書でそれら都合のわるい史実は残していない)

高句麗勢力が前方後方墳、土着+伽耶勢力(後に加わった百済勢力)が前方後円墳を形成して列島を埋め尽くすが、7世紀前半から始まる高句麗の弱体化―敗北によって国内の高句麗勢力は勢いを失う。以降は古墳築造が終焉し、それまで高句麗相手に連合していた伽耶系と百済系の争いが起きる。

一巳の変(645年)で蘇我氏は殺害されるが、蘇我氏の優れた外交、国内統合によって国家として祖形ができた日本は、その後登場した百済系の藤原不比等によって継続されていく。

次の投稿でこれらの史実を年表で追いかけていきます。

305334 日本の歴史(年表)第6回~日本の私権時代の始まり(弥生時代
 
田野健 HP ( 54 兵庫 設計業 ) 15/06/27 AM01 【印刷用へ】

305143で概観した弥生ー古墳ー大和朝廷の時代を年表で貫通してみていきます。渡来人と土着人(弥生人も含む)が交錯する激動のこの時代は次の時代の律令を以って一旦安定します。

渡来人の系統にわけて見て行きます。
百済伽耶系渡来人の動き
高句麗系渡来人の動き
□徐福系(古代豪族)の動き
弥生人(江南人)+縄文人の動き

《縄文晩期》
~江南地方から少数で九州へ渡来、水田稲作が伝来~

ただ、稲作は遅々として広がらず、九州地方にとどまる。
☆前10世紀 佐賀 菜畑で日本初の水田遺跡
☆前9世紀 北九州 板付に水田遺跡
☆前7世紀 有明に水田遺跡

呉越戦争 
前473年 呉が敗北 敗者が日本、朝鮮半島に流れる
敗者とはいえ戦争経験者の呉の難民が集団規模で日本に渡来。
朝鮮半島にも稲作を伝え、後に馬韓弁韓といった江南人のクニを作る。

弥生時代
~日本での私権社会の始まり~
☆前4世紀 呉人渡来。吉野ヶ里に大規模集落が発生。
    環濠集落 2ヘクタール。高床式住居 多数の戦争跡
☆前220年 北九州で日本初の戦争跡~クニの統合が進む。

前314年 越が楚に敗北。越人が大量に日本、朝鮮に流れる。
  ⇒九州は呉人のクニがあるので、出雲から新潟にかけて越人が居住。
   今でも日本海側に越の地名が残っている。

☆前140年 青銅器(九州は武器、近畿は銅鐸)を用いた祀り、葬送が始まる。日本で金属器文化が始まる。

前221年 秦始皇帝 中国を武力で統一
□前219年 徐福が老若男女3000人(技術者集団)を率いて日本に亡命
  各地にバラバラに居住し、古代豪族(秦氏、葛城)の基盤となる。


~北九州にテクノポリス
★1世紀~2世紀 海を跨いで伽耶と九州に鉄の王国(倭国)が出来上がる。伽耶はその後金官伽耶に、九州は日本側の拠点として以後3世紀まで
継続する。金印を授与され奴国と呼ばれるが日本での独立国家ではなく朝鮮半島の拠点。

□1世紀前後 畿内に巨大集落 唐古鍵遺跡が登場する。徐福の末裔が畿内に集結する。

★2世紀 伽耶から来た物部氏が九州を避け出雲、岡山に拠点を作る
★九州の勢力で負われた部族が瀬戸内から畿内に移動。高地性集落発生。


高句麗人渡来~
■2世紀 高句麗が魏に追われ、朝鮮半島を南進。新羅伽耶を押さえ、日本列島に拠点を作り始める。

■2世紀~3世紀 鳥取県 青谷上寺地遺跡に53体の戦争遺体の人骨
高句麗一派が弥生人を駆逐し、出雲に拠点を作る。4隅突出墓は高句麗にしかない様式。
 ⇒乱暴者スサノオ伝説は高句麗がモデル。
 ⇒☆出雲の原住者(オオクニヌシ)は追われて畿内三輪山)へ移動
  ~出雲神話

3世紀 青銅器遺物がこの頃なくなる。《弥生時代終結

305365 日本の歴史(年表)第7回~日本の私権時代の始まり(古墳~大和朝廷
 
田野健 HP ( 54 兵庫 設計業 ) 15/06/28 AM01 【印刷用へ】

続きです。

=渡来人の系統にわけて見て行きます。=
百済伽耶系渡来人の動き
高句麗系渡来人の動き
□徐福系(古代豪族)の動き
弥生人(江南人)+縄文人の動き

古墳時代
☆□3世紀半ば奈良の箸墓に280mの最古の巨大古墳が登場
 高句麗勢力に押されて畿内で戦争圧力の上昇
 唐子・鍵遺跡を作った徐福系(葛城)と出雲から逃れた伽耶系(物部)が合流する。

☆3世紀の邪馬台国があったとされているが、畿内でも九州でもなく、邪馬台国の場所は日本ではなく、倭国朝鮮半島)にあった模様。刺青の風習からして江南人文化圏。184427

■4世紀 前方後方墳による高句麗勢力の拡大
 出雲⇒尾張⇒関東へ
  ~畿内は古代豪族(葛城)の拠点で落とせず。

■5世紀~ 長野に馬文化の登場(大室古墳群)~高句麗勢力による開発
  関東に高句麗勢力+縄文人によって作られた大和と相並ぶ関東日本国が形成される。

5世紀 新羅高句麗に押され百済が弱体化
■(高句麗系の?) 蘇我氏が大和政権に参入。
  以後の百済渡来人を組織化、結集する。

★513年 仏教の伝来(百済から五経博士

大和朝廷時代開始》
★6世紀 巨大古墳の築造 畿内伽耶人+土着集団に百済人が合流。
 河内へ拠点が広がる。世界最大の構造物である仁徳天皇稜が築造
 渡来人の間で発生する戦争圧力を古墳競争で昇華。

★527年 磐井の乱 弥生から続いた九州勢力が大和に組み込まれる 

6世紀 高句麗本国の滅亡の危機。国内高句麗勢力弱体化

天孫降臨伝説~アマテラスは百済人?

★587年 蘇我氏が物部(守屋)を滅ぼす。
  伽耶系から百済系へ。蘇我氏による中央集権国家の基礎が作られる。
  仏教、屯倉の管理、戸籍制度、土木開発、寺院建設など進む

★6世紀 推古天皇~最初の女帝(推古はたぶん土着系)

★593年 聖徳太子摂政になる。17条憲法
    聖徳太子は架空の人物。蘇我氏自身の可能性が大。

★600年 遣隋使 日本国を名乗る。天皇を名乗る。

★645年 一巳の変~蘇我氏殺害《伽耶系の反乱》
★645年 大化の改新
    改新はしておらずほとんど蘇我氏のシステムを転用。
    以後、蘇我氏の中央システムが律令時代まで続く。

★646年 薄葬令により古墳築造禁止
古墳時代終焉》

663年百済滅亡
★663年白村江の戦いで敗北 勝目のない百済奪回を目指す謎の戦争
   伽耶勢力が国内の百済人減らしを目論んで仕掛けた可能性大

★664年防人制度 九州に水城作り唐の圧力に備える。
   この時代が最大の外圧

668年高句麗滅亡

★672年 (伽耶系)天武天皇即位 実質初代天皇 西日本統一
★701年 大法律令成る
★710年 平城京へ遷都
奈良時代開始》
★718年 (百済系)藤原不比等による養老律令成る(不比等実権を握る

307630 日本は東と西の2つの国の連合体~網野説
 
田野健 HP ( 54 兵庫 設計業 ) 15/09/10 PM03 【印刷用へ】

網野善彦氏は著書の中で日本は歴史的にも現在的においても東と西、あきらかに2つの集合体がある。それらは表面上は大きな対立がなく、共存しながらも、明確に境界線で相互に相容れない文化形態を育んできた。網野さんの書籍の中からこの東と西の差異の幹を紹介し、日本とは何かを考える上での基礎としていきたい。

>この日本列島には現在の日本人の祖先が古くからいたといわれていますが、<東日本><西日本>とではその実態は大きく違っていたのではないか。
歴史以外の分野の方言、言語、社会学等の学問研究では日本のいろんな問題を考える際に”東”と”西”に分けて考える事が多い。
方言の面では東と西には大きな違いがある。民俗の面でも東日本は”縦社会”西日本は<ヨコ社会>といえる。例えば「宮座」というものが”東”にはほとんどないという現象や神社のあり方。家父長権は”東”に強く”西”のほうはずっと弱いとか、他にいろんな事例を上げる事ができる。
歴史を遡っても考古学の分野にも旧石器時代から<東>と<西>に違いがあり、弥生時代の前期には一時的に東は縄文、西は弥生という時期が200年くらい続いている。古墳時代律令制時代を通じて東西の差は問題にされなくなるが、9世紀に入り、律令国家にガタが来ると、すぐに東と西の違いが表面化してくる。律令制は外から入れた制度であったため、9世紀に入ると地が見えてくる。それは平将門藤原純友の乱という形で現れてくる。ここからは東と西の問題を考慮に入れないと日本の歴史は理解できなくなる。10世紀から12世紀にかけてはっきりと東国国家と言ってもよい国家が確実に姿を現し始める。
その東国国家の先駆は平将門であり、その後を継承したのが頼朝の国家であると考えてよいのではないか。つまり東国の統治権を掌握した国家が鎌倉幕府なのである。その鎌倉幕府は後に鎌倉公方、北条氏に受け継がれる。鎌倉、室町、戦国を通じて日本列島には2つ以上の国家があったと考える方が事実に即している。

>こうした国家の背景にはこの時代の土地制度の違いもあるわけで、中世でもそのまま確認できる。
東の方では親分、子分の関係、大きな家にいくつかの小さな家が結びつくような形が目立っていた。逆に西の方では同じくらいのレベルの家が相互に集まって「座」という組織をつくり、それが「宮座」という形で神社を維持するような社会のあり方が支配的だった。中世の武士団のあり方についても東では惣領を中心にして、そこに庶子達が集まってタテの関係を軸とした強力な主従的武士団を構成する。ところが西の方では一国の武士たちがお互いを傍輩と言い合って、同じレベルの人間同士としてヨコに結びつく傾向が非常に強い。また系図を見ても若さの一宮、二宮は女系の系図となっている。東のほうでは女性を追いかける系図はない。武士団の系図という形になっている。

それら中世の社会のあり方は現在においてもそう大きく変化していない。
このように300年、400年、いや500年~600年以前の社会のあり方と最近の日本の社会のあり方とが、人と人との結びつき方の面では同じような特徴を示していると思われる。時代を超えて東と西にはこのような社会構造の違いがある。これはもう民俗の違いと言ってもよいのではないか。東と西にはそれほど大きな違いがあるという事を強調しておきたい。

>さらに単位においての東西の違いがそれをさらに明確に証明する。
戦国時代のある時まで、東日本は6町=一里、西日本は36町=一里だった。そのため交通上の負担も東は「一里=一銭」で西では「一里=36銭」となる。枡についても各地で異なり、一里の長さも差異がある。
現在では東と西で電気の周波数が異なる事は誰もが知っている。
このように極論すれば東と西の社会はなにかの作用で二つに分かれた民族になり、国家になってしまう可能性もあったのではないか。

>鎌倉がその顕著だとするのは、幕府と天皇が合い並び始めたのは鎌倉からだった。交通路に対する権限や関所の設定について、東は幕府が受け持ち、西は天皇が差配した。交通権とは境界権の事であり、国家を成立する条件が整っていた。
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この網野氏が度々力説してきた日本とは東と西といった2つの国が並存しており、それは大きな変化を起こさず現在まで引き継がれているというのだ。日本にはフォサマグナという大地溝帯で東西が地形的にも分かれているが、ほぼその位置で東西に2つの文化、体制、共認が存在していたとして日本史を見ていけば様々な史実が浮かび上がってくるように思う。

そのように見て、東の日本史、西の日本史といった歴史書の書き直しが有効のように思う。

307785 百済王族、藤原氏1 ~藤原氏とは何者か?~
 
井上宏 ( 40代 新潟 建築コンサル ) 15/09/16 PM10 【印刷用へ】

現在まで、日本を牛耳っていると見られる藤原氏、彼らはどこから来たのか?そしてどのようにして日本を支配したのか?

遅れて来た倭種、百済王族・藤原氏 リンク より
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7世紀以来、千数百年にわたって日本の最高の名門貴族の座を手にした藤原氏とは何者なのだろう。藤原氏最大の謎は、日本で最も高貴な一族でありながら、未だにその出自がはっきりしていない、ということである。
藤原氏は『日本書紀』神話の、天照大神が盤戸隠から出た時に、注連縄を引き渡して、磐戸を「封印した」、中臣・忌部神を祖とする。その子孫と言うことで、藤原氏の出自と正当性は、『日本書紀』神話・磐戸開きに求められる。

しかし、関裕二氏によると、疑問点として3点が挙がるという。
第一に、中臣(藤原)鎌足の登場(645年頃)まで、中臣氏の活躍がほとんど見られないこと。
第二に、その中臣(藤原)鎌足も、何の前触れも無く、唐突に歴史に登場する。しかも、正史・『記紀』にさえ、その父母の記載が確認できない。
第三に、中臣(藤原)鎌足の末裔・藤原氏はどういう理由か、常陸国茨城県)の鹿嶋からやってきたと捉えていたと推定できる。正史・『日本書紀』の中で証明された正当性を、自ら疑ってかっかたのかが、証明できないという。

さらに、藤原氏の祖・中臣氏は、神事に仕えた氏族というのが定説である。しかし、歴史上、確認できる藤原氏の行動は、神道よりも、仏教の布教に力を入れている。実際、藤原氏による、蘇我氏の滅亡を機に、古墳は姿を消す。そして、神道は影を潜め、仏教が華を咲かせるのでる。『記紀』によると、蘇我氏は仏教派だったのではないのか。

実際に、天皇家が仏教を取り入れるようになったのはこの時期からである。事実、天智系天皇天皇家菩提寺に祀られるが、天武系の天皇は祀られていない。この件については後に詳しく触れる。
神道天皇家の祖先を祀る宗教だったはずである。藤原氏登場以降、神道ではなく、仏教で、天皇の先祖を祀るように変更したという事実である。つまり、藤原氏以降・天皇は事実上、神ではなく仏として祀られていたということである。
 これらの確認出来る事実だけを見ても、藤原氏の言動は不自然なモノである。

(中略)
その中臣(藤原)鎌足大化の改新の折、唐突に歴史に登場する。
日本書紀』はいう。中臣(藤原)鎌足は、蘇我入鹿が君臣の秩序を乱し、国を傾けようとしていることを憎んでいた。この時、中臣鎌足は無位無冠の身であった。
そこで、皇族の中に入り込み、共に事を成す英傑を捜し求めていた。そして白羽の矢が立ったのが、中大兄皇子(後の天智天皇)であった。

(中略)
ちょうど同じ頃、百済王子・豊璋(ホウショウ)という人物が突如、日本古代史に登場する。
日本書紀』によると、舒明3年(631年)3月、百済義慈王の子・豊璋(ホウショウ)は人質として来日したのだという。
大化の改新蘇我入鹿暗殺の14年前のことである。

大化の改新の記載が有る、『日本書記』皇極記には、中臣(藤原)鎌足とこの百済王子・豊璋(ホウショウ)、そして、上宮王家(山背皇子ら聖徳太子一族)の暗殺、大化の改新による蘇我一族の暗殺記事が会い混じって記載されている。

(中略)
済明6年(660年)9月、百済は使者をヤマトに遣わした。そして、この年の7月に新羅と唐の連合軍が百済を攻め滅ぼした事、君臣は皆捕虜となったが、鬼室福信が百済王家再興の為、奮戦しているということを知らせた。
そして、10月。その鬼室福信が、人質として来日していた豊璋(ホウショウ)を召還し、新たに王に立てたいと申し出た。加えてヤマトに救援を求めてきたのである。
これに応じ、翌年9月、中大兄皇子は織冠を豊璋(ホウショウ)に与え、本国に送り返したのである。
人質であったはずの豊璋(ホウショウ)であるが、白村江の戦いの直前、百済に帰国し、国家の再興を目指す。

(中略)
そして、この人物が日本を離れたとき、実は中臣鎌足も忽然と歴史から姿を消しているのである。それも白村江の戦いという国家の一大事に中臣鎌足は行方不明になり、そして敗戦後、突然歴史に姿を現すのである。
衆知のように、中大兄皇子の側近中の側近であったと言う、中臣鎌足が、国家存亡の折、行方不明になったということ自体が理解できない。
関裕二氏は著書・『日本古代史の謎』・『藤原氏の正体』で、百済皇子・豊璋(ホウショウ)という人物と、中臣鎌足、つまり藤原鎌足は同一人物であるという。

確かに、そう考えると、中臣(藤原)鎌足の唐突な日本史への登場、百済救済の為の白村江への無謀な出兵、後述する壬申の乱での韓国軍の到来、さらに天皇家ご自身の神道道教から、仏教への移行。それに伴う道教の象徴・古墳の消滅など、すべての謎が解けてくるのである
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(引用以上)

    ロ.男女同権論はペテンである    
030201    
   真猿以来(人類になって一段と)、存在理由の欠損を深く刻印された女が、最終的に社会的な存在理由の充足を求めてゆくのは当然である。つい二〇〇年前までは(日本では50年前までは何とか)、女たちは皆の期待=集団の中での役割(規範)に収束してその存在理由を充足させてきた。だが、性的自我と性権力で武装した女たちは、本源集団に続いて村落集団をも破壊し、もって全ての集団、全ての規範、全ての役割を破壊して終った。その上で、女たちは改めて性的自我と性権力に基づく社会的存在理由を仮構し、その仮構をテコにして、社会に進出してゆく。  
030202    
   もちろん、自我は共認の敵対物なので、自我に立脚した存在理由=役割充足などあり得ない。そこで、社会の原点として「個人」や「権利」という架空の思い込み観念を措定して、その架空観念を追求することが社会的な「役割」=「存在理由」を充足させることになるというカラクリを捏造した。しかし、専ら架空観念に頼るこのカラクリはいかにも苦しい。だから実際には、否定性(不満や不安)が強く、それ故に幻想観念に収束する必要が強い一部の病的な観念主義者しか、架空の「存在理由」など求めはしない。とは言え、それらの欺瞞観念は性権力という強大な力によって支えられており、性権力者が社会的な存在理由≒自己正当化を必要とする以上、それを満たしてくれる観念に収束してゆくのは、必然である。従って、この一部の歪んだ観念病者の架空観念が、社会共認となってゆく。  
030203    
   「個人」や「権利」という架空観念をテコに社会に進出してゆく以上、女は男と「当然、同格であり、同権である」ことになる。そして同格・同権である以上、依存存在であることや性的存在であることは認め難い屈辱となる。もちろんその屈辱視は、頭の中で架空観念に収束した時だけのことであって、肉体の方は相変わらず依存要求と性権力追求に収束し続けている。つまり、女の肉体と観念は正反対に分裂している。それは、私権時代の女が性を武器として私権を確保するしかない状態に置かれているからであって、現実を欺き肉体を欺く幻想観念によって、性権力をはじめ存在権を確保する為の無数の欺瞞共認を形成し、その欺瞞共認を武器にして生きているからである。かくして自我・私権の塊と化して性権力の拡大を目指す権力主義者たちの最終目的は、「男女同権」によって依存の鎖を断ち切る方向に収束する。そこで性権力者たちは、依存対象≒抑圧者(男であったり、社会であったりする)を目の敵にして、男女同権を唱え、社会に進出してゆく。  
030204    
   だが冒頭で触れた様に、雌雄は、メスが生殖過程を主要に担い、オスが闘争過程を主要に担うことによって調和し、バランスを保っている。つまり、メスが生殖過程の主導権を握り、オスが闘争過程の主導権を握ることで、女と男は平等なのである。現に、女たちは迎合男たちをどうにでも懐柔できる程の絶大なる性権力を手中にしている。だが、男女同権論者たちは、女が生殖過程において既に絶大な性権力を獲得し男を好きな様に懐柔していることについては口を噤んで触れないでおいて、本来男が主導権を持つべき闘争過程≒社会過程の権利だけを平等にせよと要求する。だが、これほど不平等な要求があるだろうか? これでは、男と女の力のバランスが完全に崩れる。これは、極めて悪質な詐欺である。にも拘わらず、性権力に迎合するしかない能のない男たちはそれをも共認し、かくして男女同権が社会共認となって終った。  
030205    
   その結果、男も女も急速に中性化してゆき、男らしさや女らしさが喪われていった。今や、男の本分を考えたこともない男や、女の本分を知らない女が大多数を占めるに至っている。しかし、男の様な女と、女の様な男は、男と女どちらにとっても魅力に欠け、男女夫々の充足を著しく貧弱なものにし、社会全体を殺風景にしてゆく。それより深刻なのは、男女の中性化が、雄雌の差別化という進化のベクトルに完全に逆行していることであり、人類は種として極めて危険な状態に陥ったと云わざるを得ない。事実、男女同権によって男と女の力のバランスが完全に崩れ、社会は性権力の全面支配によって女原理一色に染め上げられて終った。その結果、人類は滅亡への坂道を真っ逆さまに転げ落ちつつある。  
     
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ハ.貧困の消滅→私権の衰弱→性の衰弱    
030301    
   性権力者に主導された民主国家は、(豊かさ要求の産物たる)市場拡大と(要求主義・権利主義の産物たる)福祉制度によって、'70年頃、遂に貧困を消滅させることに成功した。但しそれは、貧困を消滅させるに至った類間の圧力(社会的な力関係)という観点から見た見解であって、自然・外敵圧力と対峙して貧困を克服した直接的な力(物質的な力)という観点から言えば、その主役は科学技術であり、要するに人類は極限時代から営々と蓄積してきた事実の認識→科学技術の進化によって、遂に貧困を克服したのだとも言える。  
030302    
   だが、貧困を消滅させた結果、私権の強制圧力が衰弱し、これまで私権の強制圧力を最大の活力源にしてきた人々の活力も急速に衰弱してきた。それに伴って、国家も企業も家族も個人も、自らを私権の強制圧力によって統合することが難しくなり、遂に3千年に亙って社会を統合してきた私権統合が機能不全に陥って終った。その結果、全ての存在が目標を失い、フラフラと迷走し始めた。更に、性権力の最大の抑圧物であった私権(占有権)の強制圧力≒男原理を去勢したことによって'80年頃には性権力の全面支配が完了し、社会は女原理一色に塗り潰されていった。女支配は子供や男たちを去勢して、(私権の衰弱によって衰弱した)活力を更にとことん衰弱させてゆく。その結果、ますます統合不全が深刻化し、社会の混迷と衰弱は年々ひどくなってきた。とりわけ'90年以降、事態は加速度的に悪化しつつある。  
030303    
   それだけではない。社会を全面支配した性権力は、実はそれ自体では自立して存在する事が出来ない。なぜなら、性権力は自由な性市場を母胎にしており、自由な性(性の自由欠乏)は性的自我を源泉にしている。そして、自我は共認圧力(集団圧力や闘争圧力や規範圧力)に対する否定をバネとする反or 破のエネルギーでしかない。従って、自我を源泉とする性の自由欠乏も、性の抑圧力(上記の共認圧力)に対する反or 破のエネルギーでしかない。換言すれば、性権力の土壌を成す性の自由(欠乏)は、性の抑圧を前提にしている。従って、性権力が集団を破壊し性規範を解体し私権圧力を去勢して、全ての抑圧力を消去させて終うと、自らもエネルギー源を失って消え去るしかない。  
030304    
   性の衰弱は、既に私権が衰弱し始めた'70年頃から始まっている。心中物語に代表される様な、私権の強制圧力との緊張関係から生じる性の自由への強力な収束力が衰弱したことによって、'70年頃から情熱をかき立てる様な恋愛が成立しなくなり、性をムキ出しにした官能小説やポルノ映画が主流に成っていったが、それは性の火(活力)が消える直前の最後の輝き(活力)だったのである。私権の衰弱が顕著になった'90年代に入ると、性はSMや3Pに最後の活路を求め、その刺激にも飽きると、もはややることが無くなって終った。こうして'95年頃から、遂に性の自由欠乏→性闘争(恋愛)そのものが急速に衰弱し始めた。  
030305    
   既に、ネオン街は寂れる一方であり、ムキ出しの淫売屋も客が減り続けている。何よりも、性欠乏が衰弱したので性活力がそこそこ旺盛な年齢は下がる一方であり、今や性の中心は高校生・中学生である。これは、男と女の役割規範やそれに基づく男女の期待・応合や互いの肯定視など、共認に基づく人類本来の性の豊かさが喪われ、もはや物理的・本能的な性欲しか残っていないという事を示しており、実際20歳代で早くも擦れっ枯らしと成った男女が急増している。しかも、私権が衰弱して真っ先に関係耐力(厳しい自我・私権闘争に耐える関係能力)が衰弱して終ったので、互いの自我や要求に対応するのが煩わしくなってきた。その結果、衰弱した性に残された+よりも煩わしさの-の方が上回り、互いに相手を捨象する女捨象や男捨象が顕著になってきた。  
030306    
   性闘争(恋愛)を土壌として肥大してきた性権力にとって、これは致命的である。全ての抑圧力を解体して終った以上、性権力もまた消え去るしかない。だが、私権統合から性権(力)統合へと移行した途端に(or 移行途中で)、当の性権力自身が消滅すれば、社会は全面的崩壊状態に陥る。だがそれは、同じく性闘争を究極の活力源としてきた私権社会が消滅する日と時を同じくする。それは、性権(力)こそが私権の原点であったことからも、当然の成り行きであろう。  
     
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ニ.市場の崩壊  
     
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030401    
   しかし、性権力支配は、その前に社会を全面崩壊させて終うだろう。貧困が消滅し、私権の強制圧力が衰弱したことによって、私権圧力(とりわけ貧困圧力)によって人工的に膨らまされてきた物的欠乏が衰弱し、市場は縮小するしかなくなったからである。にも拘わらず、性権力に主導された豊かさ要求や福祉要求etc.の支配共認はそのままなので、市場はバブル化する事によって無理な拡大を続けるしか無い。従って世界市場のバブル化とその崩壊=経済大破局は、もはや不可避である。現に、米・欧の株価は6倍近く(NY1万1千ドル)に超バブル化して終っており、そう成るのを誰も止められなかった(それどころか、大多数の人々がそれを歓迎している)。しかし、バブルは必ず崩壊する。これも、誰にも止めることは出来ない。従って、世界の株価の同時大暴落→世界大恐慌は必至である。つまり、性権力に支配された市場は、もはや大破局という形で爆発的・暴力的に、一気に縮小させられるしかなくなった。ここまでは100%確実で、これは予測というより、疑問の余地のない既定の事実である。  
030402    
   多分、株価が7倍を超え=NYが1万2千ドル前後の段階で、世界バブルは崩壊し、世界大恐慌に突入するだろう。それはおそらく、数年後である。大恐慌なら'29年にも経験している。だが、'29年の大恐慌と21『初頭の大恐慌は、その前提条件が全く違っている。'29年は貧困の圧力が強く働いており、当然生活は貧しく、生活必需品(ex. 一足の靴、一本の傘、一枚の服)に近い様な需要が過半を占めていた(ex. 電器メーカーはテレビではなく電球を作っていた)。従って、大恐慌に成っても需要は3割減程度で留まり、失業者も2割前後で留まっていた。それに物的欠乏が強いので、大恐慌=金融破綻が納まれば、市場は再び力強く拡大してゆく事が出来た。しかし、現在は生活が豊かになり、必要な物は一家に一台以上揃っているし、服や靴に至っては5年ぐらい買わなくても済むぐらい各家庭に大量に備蓄されている。従って、大恐慌に成れば(既に現在の日本人の消費態度が明示している様に、)先行き不安に備えてサイフのヒモを締め、食糧と日用品以外の物は殆ど買わなくなる。従って、需要は一気に7割減まで落ち込み、失業者も5割を超えて終う。これは、市場が過去に経験した事のない事態である。  
030403    
   '29年と21世紀初頭の大きな違いは、もう一つある。'29年は、生産人口の過半が農業に従事していた。大地に根を下ろした農業とその村落共同体は、秩序安定性が極めて強い。たとえ都市=市場の秩序が混乱しても、人口の過半が住む農村の秩序は(貧困→娘の身売りまで追い詰められても)崩れない。むしろ、失業者の何割かを実家=農村が吸収した。要するに、人口の過半が住む農村(農業)という社会秩序の安定基盤、かつ市場破綻の受け皿が存在していた。だが21世紀、農業人口は5%も居らず、村落共同体は破壊され尽くしている。もはや、安定基盤も受け皿も存在しない。  
030404    
   食糧が高騰し、取り付け騒ぎが全銀行を襲い、企業の5割が倒産し、失業者が6割に達するという事態を治めることが、農村(人口)という安定基盤も受け皿もない条件下で、国家や支配階級に出来るのだろうか。彼らは、こうなる事が分かっていながら認識転換できず、従って何の展望もないまま、闇雲に市場拡大を続行してこの事態を招いた。彼らが、何の展望も示せなかったのは当然である。性権力支配(特にその支配共認)による私権の衰弱と性欠乏・物的欠乏の衰弱は、誰にも止めることの出来なかった性権力支配の必然的帰結であり、そして私権および性欠乏・物的欠乏の衰弱とは、性闘争→私権闘争を究極かつ最大の活力源としてきた私権時代の終焉に他ならないからである。つまり、支配階級とその支配共認は、もはや社会を統合する資格と力を失ったのであり、そもそも返済不能な国家赤字=国家破綻が象徴している様に、既に統合不能に陥ったからこそ、この大破局を迎えたのである。  
030405    
   私権圧力=活力の全面衰弱、女原理の全面支配と思考停止、そして財政破綻から経済破局へ、どこから見てもこれは支配階級と支配共認がもはや統合能力を失った結果としての破局である。従って、支配階級→支配共認が、この事態を治め社会=国家を再統治することは全く不可能である。この事態は、支配共認を根底から覆す全く新たな理論が登場し、新たな統合共認が形成されない限り、治められない。従って、このままでは(=支配共認のままでは)全面的に秩序が崩壊し、国家や軍隊も瓦解して、食糧を求める人々が互いに殺し合い、滅亡してゆく可能性が極めて高い。これは予測ではあるが、論理必然的な、(論理に見落としがなければ)100%に近い確率の予測である。おそらく、米・欧・露・中は、その様にして滅亡してゆくだろう。  
     
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ホ.「観念機能、作動せず。」=思考停止    
030501    
   今や、日本人の大部分は不安と閉塞感に囚われ、多かれ少なかれ滅亡の危機を感じ取っている。しかし、感じているだけで何もしようとはしない。誰もが滅亡の危機を感じているのに、誰も正面からこの問題を考えようとはしない。これは、実に奇妙な状態である。社会は、不気味な沈黙に押し包まれ、まるでその時が来るのを待ち望んでいるかの様である。いったい、どうしたと言うのか? なぜ誰も考えず、何もしようとしないのか?  
030502    
   それは、日々が平穏に過ぎてゆき、本能を直撃する様な現在形の危機圧力=生存圧力が殆ど働いていないからである。人類は、これまで五〇〇万年に亙って、過酷な自然圧力・外敵圧力に晒されて生きてきた。そして更に五五〇〇年前(縄文人は一七〇〇年前)、同類闘争の圧力が加わって以降は、集団を破壊した性闘争・私権闘争を私権の共認によって統合する事によって、それら生存圧力の全てを私権の強制圧力に変換させ、その私権の強制圧力を最大の活力源としてきた。つまり、誰もが私権の確保を第一義課題として生きてきた。とは言え、農業生産の時代はまだ自然圧力も働いていたし、頭を使うべき自らの生産基盤も持っていた。何より、藩や村落という共同体が強い力を持っており、それら集団の課題や規範に応えてゆかなければ、私権を確保することも維持することも出来なかった。従って、己の私権を超えた超越課題=考えなければならない課題はいくらでも残っていた。  
030503    
   しかし、市場社会になると、それらの共同体は悉く解体されて、私権を確保しさえすればそれだけで生存が保障される様になり、その結果、己の私権に関わること(異性の獲得や入試・就職や地位・職務)以外のことは、己の属する集団のことも社会のことも、何も考えなくなって終った。それでも、貧困の圧力が働いていた'70年までは、私権を確保する為に(賃上げや民主主義など)考えるべき社会課題は残っていた。しかし、貧困が消滅し、私権の確保が容易になると、文字通り(遊ぶこと以外)何も考えなくなって終った。  
030504    
   だが、よく考えてみれば、私権の強制圧力が衰弱したということは、長い間抑圧され続けてきた本源共認の再生可能性が開かれたということであり、本来ならその可能性に強く収束してゆく筈である。まして、滅亡の危機が迫っているとなれば、本来なら必死になって滅亡からの脱出口を考えている筈である。いったい、なぜ何もしようとせず、誰も考えようとしないのか? 全ては、私権にしか反応しない様に徹底して囲い込まれてきた結果である。私権(性権→占有権)を唯一絶対価値とし、私権に関わること以外のことは徹底して排除するその脳回路上では、私権が確保されている以上、もはや何の生存圧力=危機圧力も働かず、危機圧力が働かない以上、危機脱出に向かおうとする可能性収束力=新しい活力(何かをやろうとする気持ち)が生じない。同様に、本源収束の可能性が開かれても、私権にしか収束しない様に囲い込まれた脳回路は、自ら(=私権)と対立する本源意識を徹底して排除する。しかも、私権にしか収束しないこの脳回路自身は、私権の衰弱に応じて、際限なく自らの活力を衰弱させてゆく。こうして私権にしか反応しない脳回路は、私権が衰弱すると一切何も反応しなくなって終った。  
030505    
   かくして人類は、新しい可能性が開かれても何もしようとせず、滅亡の危機が目前に迫ってきても誰も考えようとせず、ただひたすら活力を衰弱させてゆくだけという状態に陥ってしまった。観念機能を命綱としてきた人類にとって、これは致命的である。観念機能が作動しなければ、人類は絶滅するしかない。だが、人類最大の危機が迫っているにも拘わらず、危機圧力が働かず、観念機能が作動しないというこの現状こそ、もはやいかなる言い逃れも通用しない、市場社会の絶対的欠陥を明示するものである。  
     
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第四部:場の転換
 
    生存圧力から同類圧力へ    
040101    
  [生存圧力とは、自然圧力と外敵圧力。同類圧力とは、性闘争や期待・応望や同類闘争etc.同類間で生み出される全ての圧力、狭義には、期待・応望の共認圧力を指す。]  
    イ.人類500万年のパラダイム転換  
040102    
   女主導の支配共認は、反集団の自我に基づく思い込みの信仰共認(自我や私権や恋愛・自由・個人・人権etc.を唯一絶対とする信仰共認)であるが故に、人類を出口のない全面閉塞の袋小路に閉じ込めてゆく。まず第一にこの唯一信仰は、私権の獲得に結び付かない様な課題や外圧を全て捨象して終うので、際限なく環境を破壊し、肉体を破壊し、精神を破壊し、あるいは集団を破壊し、国家(財政)を破壊し続けてゆく。その結果、人類滅亡の危機が迫ってきたが、この唯一信仰は、己の私権とは無縁な滅亡の危機という問題をも捨象して終うので、誰も滅亡対策を真剣に考えていない。第二にこの唯一信仰は、滅亡問題や本源共認など、私権信仰に対立するor 都合の悪い課題や認識は徹底的に排斥してゆくので、私権や恋愛・自由・個人・人権に替わる新たな認識→共認が全く形成されない。その結果、人類の社会共認はこの唯一信仰一色に染め上げられ、新しい可能性や活力が何も生まれて来ない。しかも第三に、その様に人々の意識を私権信仰の中に囲い込みながら、私権圧力の衰弱に応じて労働活力や関係耐力の衰弱、あるいは性欠乏・物的欠乏の衰弱etc.当の私権活力は衰弱する一方である。かくして、性権力とその支配共認=囲い込み共認は、人類を全面閉塞の牢獄に閉じ込めて終った。それは同時に、性権力とその支配共認自身が、全面閉塞状態に陥ったことを意味する。今や人々は、支配共認に囚われた牢獄の中で、ただじっと死を待っているだけである。  
040103    
   だが、この現実を冷静に直視すれば(つまり、囲いの外から見つめれば)、簡単な事実が見えてくる。即ち、人類を閉じ込め、出口を塞いでいる(そして破局→滅亡に追い込んでゆく)のは、唯一絶対の支配共認という、頭の中に巣くう観念に過ぎない。人類は、単に支配共認=囲い込み共認という自我に基づく観念信仰の牢獄に囚われているだけである。それが観念に過ぎないなら、人類に突破できない筈はない。確かに、自身以外の全てを排除する自我の唯一絶対信仰の余りの偏狭さと頑固さや、その根をなす集団否定の性的自我の根深さに立ち竦みor 絶望的になっている人は多い。だが、絶望する必要も竦む必要も全くない。なぜなら、この支配共認=囲い込み共認は、放っておいてもあと数年で経済大破局によって爆破され、全面的に砕け散って終うからである。だから、それまでに支配共認を根底から覆す、新たな理論パラダイムが構築されなければならない。もし、新たな理論が構築されないまま大破局に突入すれば、人類は共認統合を形成することができないまま、全ての秩序を破壊して滅亡して終うからである。  
040104    
   もちろん、支配共認に替わる新たな理論パラダイムの構築は難課題であり、ましてそれに基づく新たな統合共認の形成は超難課題である。しかし、可能性はある。何よりもまず、人類の進むべき道は、既にほぼ明らかである。ここまでの人類史を総括すれば、人類を滅亡に導いた(少なくとも全面閉塞に陥らせた)根本原因が、性闘争を顕現させ、本源集団を破壊して終ったことにある(そして、その上に築かれた性の私的選択に基づく私権文明の全体が、その私的な性選択の必然として現在の支配共認を生み出し、その支配共認に囲い込まれて全面閉塞状態に陥り滅亡してゆくのだという)ことは、既に明らかであろう。だとすれば、人類の進むべき方向は『本源集団を再生し、集団規範の内部に性闘争を封印すること』、そして私権を廃棄したこの本源集団を原点として『本源集団が相互にネットワークで結ばれた共認社会を構築すること』であり、それ以外に人類を再生する道はない。  
040105    
   これは、単なる理想論ではない。もっと切迫した実践課題である。奇妙なことに、まだまだ私権の圧力が強固であった近代初期に、西洋で様々な理想論が出現した。そして私権が衰弱した今、理想論は全く出て来なくなった。それは、理想論の正体が支配共認の一部or 分派でしかなかったことを明瞭に物語っている。その証拠に、支配共認の根本パラダイムである性の私的選択の問題性を指摘した「理想論」は一つもなく、全てそれを当然の前提としている。西洋人は、その程度の「本源性」しか持ち合わせていないから、支配共認(架空観念)が全面的に行き詰まって終うと、もはや何も生み出せないのである。遥かに強い本源性を有する日本人には観念としての理想論など無用であり、ただその(本源性の)再生or 実現の為の事実≒構造の解明が必要なだけである。しかも事態は切迫しており、もし本源集団→共認社会の実現の方向へと早急に新たな社会共認を形成することが出来なければ、人類は滅亡する。  
040106    
   既に、本源共認を破壊し抑圧してきた私権の強制圧力は衰弱し、その支配共認は全面閉塞状態に陥って、衰弱死を待つばかりである。今や、本源集団・本源共認の再生を妨げるものは、死に体の支配共認以外に何もない。とりわけ、真っ先に私権の強制圧力を衰弱させ、唯一バブルの崩壊を経験している日本人には、(それも欠かせない条件だが)それ以上にもっと深い所で、大きな可能性が与えられている。一七〇〇年前まで、掠奪闘争に巻き込まれることなく純粋な原始文明を発展させてきた縄文人の心を受け継ぐ日本人には、つい戦前まで採集時代の総偶婚→夜這い婚が広く残り続けていた事が象徴している様に(注:婚姻制は、社会共認の最基底に位置する)、本源的な集団収束や共認収束がまだまだ強く、従って闘いや仲間を第一とする男原理や、そんな男の期待や役割に応合する女原理もまだ多少は残っている。従って、性権力が全面支配を強めてゆく時代の中にあっても、心の奥底に潜む本源回路が支配共認の囲いを突き破って、新たな思想を紡ぎ出す可能性を僅かに残している。少なくとも我々は、貧困が消滅し始める前後('75年頃)から支配共認に対峙して共同体=『類』を建設し、共同体の目で現実を直視し事実を追求し続けてきた。そして、支配共認に替わる本源共認の理論パラダイム(=倒錯観念とは全く異なる、事実認識の体系)を、かろうじて大破局の直前に、何とか作り上げた。他にも、支配共認と対峙して、全く新しいパラダイムを構築してきた人たちが、居る筈である。今や、人類の可能性はそこにしかない。  
040107    
   だが、もし人類が私権社会・市場社会とは全く異なる別の理想社会を構築したとしても、やはり生存圧力は大して働かないだろう。なぜなら、生存圧力(自然圧力や外敵圧力)を克服した直接の主役は、事実の認識→科学技術だからである。今後とも人類は、事実の認識→科学技術を進化させ、物的な生存圧力を克服し続けてゆくだろう。そこで、完全に行き詰まり、終焉の時を迎えた私権(性権→占有権)→市場拡大の支配共認など全て捨象して(頭の中から消し去って)、改めてサル以来の人類史の大きな流れの中で現代を捉え返せば、誰にでも分かる、実に簡単な事実が浮かび上がってくる。つまり、人類は、すでに物的な生存圧力をほぼ克服したのだ! これは、実に人類五〇〇万年の全史を覆す様な、場(パラダイム)の大転換である!  
040108    
   サル→人類が共認機能→観念機能を武器に進化してきた動物であり、その生存と進化の前提条件の一つであった物的生存圧力(自然圧力と外敵圧力)⇒物的生存(≒生産)課題をほぼ克服し得たのだとすれば、あるいは少なくとも動物的な生存圧力はもはや主要な活力源たり得ず、従って物的生産はもはや第一義課題たり得ないとしたら、残るのは同類圧力の活力源しかない。人類は、これまで五〇〇万年に亙って自然圧力・外敵圧力だけを対象とし(そして期待・応望の同類圧力を生命源として)、共認機能と観念機能を進化させてきた。そして五五〇〇年前(日本は二〇〇〇年前)、同類闘争圧力が加わるや否や、わずか数千年で、自然圧力・外敵圧力をほぼ克服してしまった。これから先、人類は同類圧力(同類闘争圧力も含む)を主活力源として、共認機能・観念機能を更に進化させてゆくしかない。元々サルは、同類圧力を主活力源として共認機能を進化させてきたのだから、それは基本的には充分に可能である。  
     
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ロ.共認社会の生存圧力と同類圧力    
040201    
   もっとも、これまでサル・人類は、自然圧力・外敵圧力・縄張り闘争圧力などの動物的な生存圧力を前提として期待・応望の同類圧力=共認圧力を形成し、それを主活力源にして生存し、進化してきた。それに対して、物的な生存課題をほぼ克服した人類に、充分な同類圧力=共認圧力が形成されるのだろうかという疑問が湧く。しかし、その心配は無用である。  
040202    
   自然圧力・外敵圧力は、未来永劫に亙って働き続け、消滅することはない。第一に、科学技術の発達etc.によって物的生産の為の労働が、流通も含めて1/3 以下に縮小されたとしても、その縮小された物的生産課題は、日々の労働課題として残り続けている。第二に、現在でも環境破壊・肉体破壊をはじめ、深刻な自然圧力・外敵圧力は働き続けている。現在は、私権に関わる事にしか意識が向かわないので問題が捨象されているだけで、私権社会が消滅すれば、人々がこれまで目を逸らせてきたこれら人類的生存課題が、一気に顕在化されるだろう。第三に、現在、人類は地震さえ解明し切れていないが、未来的には氷河期・乾燥期の再来や太陽の衰弱や、更には宇宙の消滅etc.自然圧力は無限に存在する。また現在は、ガンやアトピーエイズさえ克服できていないが、人類の進化=変化に伴う新たな外敵圧力も無限に生成され続ける。  
040203    
   要するに、人類がほぼ克服し得たのは動物的(本能を直撃する様)な自然圧力・外敵圧力だけであって、本能では感取できない、しかし観念機能では認識or 予測できる人間的(超動物的)、かつ全人類的な自然課題・外敵課題は、未来永劫生まれ続ける。しかも、人類がそれらの課題の中の何をどれだけ重視するかは、人類の共認に委ねられている。つまり、全人類的生存課題→期待と応望(=追求・創造)→評価闘争=共認闘争→社会共認の形成、そしてその社会共認にとって重要な新たな人類的生存課題が更に追求され、その環が塗り重ねられてゆく。これが、同類圧力社会=共認社会の基本パラダイムである。  
040204    
   だが、圧力=課題はそれだけではない。人類にとって最も厄介な動物的課題、即ち性闘争・同類闘争をどう止揚するのかという課題が、(おそらく未来永劫に)残り続ける。しかし、物的・動物的な生存課題をほぼ克服した人類の性闘争・同類闘争は、もはや動物的な縄張り闘争ではあり得ない。では、動物的生存課題を克服した人類の性闘争・同類闘争は、どの様なものに成るのだろうか?  
040205    
   それに答える前に、「同類闘争」の中身が、既にこれまでも大きく変容して来た事に注目しておく必要がある。モグラや原猿の性闘争は、直接的には雌の獲得を目的とする(つまり、性情動を主エネルギーとする)縄張り闘争である。しかし、闘争共認によって闘争集団が形成され、その闘争集団の中に雌が組み込まれて終った為に、真猿の同類闘争では雌の獲得はもはや目的外となり、もっぱら縄張りの維持を目的とする縄張り闘争となる。つまり、雌(+縄張り)から、縄張りのみへと目的(=主回路)そのものが大きく変容し、切り換わっている。また人類も、六〇〇〇年前から三〇〇〇年前にかけて、性闘争から掠奪闘争へと同類闘争の中身を大きく変容させた(それは、原猿→真猿と基本的には同じ流れである)が、それらが国家に統合された後は、人類の同類闘争はもっぱら私権闘争に変容する(注:私権闘争とは、バラバラにされた個体の性闘争+縄張り闘争そのものであり、それは原猿というより、モグラそのものの位相である。つまり、私権時代とは、同類闘争が一気にモグラの段階まで後退して終った時代である。)  
040206    
   さて、本源集団を原点(単位)とする共認社会では、まず性闘争が集団の婚姻規範によって封印されて終うだろう。もちろん、そこには人類の歴史的総括である性闘争のタブーの共認も働いている。それは基本的に真猿の位相であるとも言えるが、(真猿の性闘争の封鎖は不充分で、しばしば破られるのに対して)期待・応望の充足=共認充足を最大の活力源とするが故に、その充足を妨げる自我や性闘争を封印してゆく共認社会は、むしろ性闘争を徹底して封印した極限時代や採集時代の人類の位相に近い。従ってそれは、ごく最近まで五〇〇万年に亙ってそうであった、人類にとって最も馴染み深い在り方である。  
040207    
   また、既に動物的な生存圧力を克服した共認社会では、人類的課題に対する期待・応望の同類圧力=共認圧力が解脱充足と並んで主活力源となり、人々の期待に応える政治や哲学や科学や芸術が主活動となる。そして、期待・応望を主活力源とするそれらの活動は、評価収束によって必然的に創造闘争=共認闘争の圧力を形成し、それが期待・応望の主活力を加圧する。つまり、共認社会の同類闘争は、人類的課題に応える創造競争=共認闘争となる。(政治であれ哲学であれ科学であれ芸術であれ、提起された認識は共認の獲得を目的としており、最終的には社会共認となることを目指しているので、創造競争は本質的には共認闘争である。)但し、あくまでも人々の期待に対する応望が主目的であって、闘争が主目的なのではない。闘争圧力は、評価収束によって期待・応望から必然的に派生する期待・応望の強化圧力であり、それによって人類的課題に対する期待・応望の活力は、極めて強力なエネルギーを持つことになる。  
040208    
   人類的課題に対する期待と応望を主活力源にして創造活動を営み、評価収束による創造競争=共認闘争(=同類闘争)によって圧力=活力を高め、その同類闘争を同じ評価収束⇒評価共認によって統合する社会、これは原始人には夢想だにできなかった社会である。にも拘わらず、同類圧力=共認圧力を生命源とする社会であるという根本パラダイムは、極限時代と同じである。ただ人類は、動物的な生存圧力の場を超えて、超動物的な同類圧力=共認圧力の場へ移行する段階を迎えただけである。それは、共認動物が到達するべくして到達した必然的世界であり、実は滅亡の危機に瀕した今こそ、動物的限界を引きずっていた前史が終わり、真の人類史が始まる、その起点となる時なのである。  
     
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ハ.場の転換(意識下の活力転換)    
040301    
   科学技術によって自然・外敵圧力をほぼ克服した人類には、もはや本能を刺激し続ける様な物的な生存圧力は、僅かしか働かない。従って人類は、物的な生存圧力を活力源として存在し続けることが、既に出来ない状態にある。人類にとって生存圧力が無効だとしたら(少なくとも主圧力たり得ないとしたら)、残る圧力は同類圧力=共認圧力しかない。つまり人類は、生存圧力の場から同類圧力の場へ、存在の場を大転換しなければならない段階を迎えたのである。  
040302    
   にも拘わらず、この決定的なパラダイム転換の事実に、誰も気付いていない。誰もが潜在意識で感じ取ってはいるが、明確な概念として『生存圧力から同類圧力への場の移行』を確認できた者はいない。大学という温室に逃げ込んで殆ど現実の圧力を受けず、専ら欺瞞観念を弄ぶだけでまともに現実→事実を追求して来なかった大多数の人文学者は、殆ど現実→事実を知らない。学者以外の小説家や評論家やマスコミは、売文で身を立てている以上、主要には幻想観念に磨きをかける方向にしか思考が向かわない。そして官僚や経済人は、仕事に追われてそもそも物を考える時間がない。要するに支配階級(注:自然科学者は、生産階級であって支配階級ではない)は、ごく少数の例外を除いて誰も己の存在をかけて現実を直視し、本気になって事実を解明しようとはして来なかった。従って、欺瞞観念に浸り切った支配階級やその支配共認に染脳され続けてきた大衆は、未だに『同類闘争』という概念も、『共認』という概念も、何も知らない。それでは『場の大転換』を、見抜ける訳がない。もちろんそれらは、そうと教えられれば誰でも確認できる、簡単な事実に過ぎない。それが人類固有の観念機能の凄さであり、誰かが(たった一人でも良い)可能性のある事実を発見できれば、その事実は忽ち共認されて万人のものとなる。

 繰り返すが、人類は既に同類圧力によって活力を生み出すしかない状態にあり、かつそれは既に実現可能な状況にある。ただ、誰もそれに気付かず、衰弱する一方の生存圧力→私権圧力に依拠したままでいるので、全ての活力が衰弱する一方なのである。だが、意識下(観念回路の奥にある共認回路や本能回路)では、既に 『活力の転換』が始まっている。本源価値(異性や仲間や集団との共認充足や自然との本能充足)を破壊し、抑圧してきた私権の強制圧力が衰弱した以上、抑圧されてきた本源的な共認欠乏や本能欠乏が活性化し、意識下の共認回路や本能回路が本源充足へと可能性収束してゆくのは、必然である。かくして、'70年貧困の消滅と共に始まったこの意識下の本源収束の潮流は、'90年私権の衰弱が誰の目にも明らかになるにつれて顕在化し、共認収束(親和収束・仲間収束)や自然収束の大潮流を形成しつつある。ボランティアや自然サークル・環境サークルの興隆は、この潮流の最も見え易い表層の現象である。また、要因は複雑だが、若者の男女関係の主軸が、性関係から親和(安心収束)関係へ移行したのも、中心にあるのはこの潮流である。もっと見え難いが、子供たちの世界でいじめが深刻化してきたのも、子供たちにとって仲間圧力が絶対的な場=パラダイムとなった結果である。
 
040303    
   だが、異性関係は自我や独占欲や好き嫌いに妨げられ、本当に心を開いた和合充足を得られないでいる。それどころか、男女同権や依存捨象(要するに性権力)に妨げられて、充足の中身が薄くなる一方である。仲間関係も自我や抜け駆けの性闘争や私権闘争に妨げられ、警戒心を解くことが出来ないので、本当に心を開いた仲間充足を得ることが出来ない。それに課題が(遊びしか)ないので、関係の中身が薄くなる一方である。それどころか、私権が衰弱して真っ先に関係耐力(自我・私権のせめぎ合いに耐え得る関係能力)が衰弱して終ったので、互いに自我を恐れて相手の心の中に踏み込めなくなり、異性関係や仲間関係が表層化(上辺だけ仲良し化)する一方である。また集団(企業)に至っては、私権統合の権力体のままであり、その上集団自身が強制的な利益競争の圧力に貫かれて終っているので、集団との共認充足は極めて困難な状態にある。要するに、本源収束の潮流の前には悉く私権(性権・占有権)第一の支配共認が立ち塞がり、その可能性収束を妨害し封鎖している。  
040304    
   それでも、私権が衰弱し本源充足の可能性が開かれた以上、意識下の本源収束(共認収束と自然収束)の潮流は成長し続ける。そして'90年以降、それは意識上に上り始め、人々(特に若者)は相手との期待・応望を第一とする表層観念的な規範共認に意識的に収束する段階まできた。強制圧力を脱した日本人(縄文人)の本源収束の大潮流は、既にそこまで来ているのである。だが、社会は支配共認一色に染め上げられ、それ以外の共認は唯一信仰への囲い込みによって排除されている。(だからこそ、右記の期待・応望を第一とする規範共認も、表層観念化せざるを得ないのである。)その上、支配共認の中身が権力共認・観念共認とも自我に基づく唯一信仰の共認であるが故に基本的には全く動かない。従って、意識下の本源収束は、自我や恋愛や自由や個人や権利を正当化した支配共認(囲い込み共認)によって意識上への出口を塞がれ、それ以上は先端収束できずに、ただ本源欠乏(共認欠乏と自然欠乏)だけが蓄積されてゆく。  
     
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ハ.場の転換(意識下の活力転換)    
040301    
   科学技術によって自然・外敵圧力をほぼ克服した人類には、もはや本能を刺激し続ける様な物的な生存圧力は、僅かしか働かない。従って人類は、物的な生存圧力を活力源として存在し続けることが、既に出来ない状態にある。人類にとって生存圧力が無効だとしたら(少なくとも主圧力たり得ないとしたら)、残る圧力は同類圧力=共認圧力しかない。つまり人類は、生存圧力の場から同類圧力の場へ、存在の場を大転換しなければならない段階を迎えたのである。  
040302    
   にも拘わらず、この決定的なパラダイム転換の事実に、誰も気付いていない。誰もが潜在意識で感じ取ってはいるが、明確な概念として『生存圧力から同類圧力への場の移行』を確認できた者はいない。大学という温室に逃げ込んで殆ど現実の圧力を受けず、専ら欺瞞観念を弄ぶだけでまともに現実→事実を追求して来なかった大多数の人文学者は、殆ど現実→事実を知らない。学者以外の小説家や評論家やマスコミは、売文で身を立てている以上、主要には幻想観念に磨きをかける方向にしか思考が向かわない。そして官僚や経済人は、仕事に追われてそもそも物を考える時間がない。要するに支配階級(注:自然科学者は、生産階級であって支配階級ではない)は、ごく少数の例外を除いて誰も己の存在をかけて現実を直視し、本気になって事実を解明しようとはして来なかった。従って、欺瞞観念に浸り切った支配階級やその支配共認に染脳され続けてきた大衆は、未だに『同類闘争』という概念も、『共認』という概念も、何も知らない。それでは『場の大転換』を、見抜ける訳がない。もちろんそれらは、そうと教えられれば誰でも確認できる、簡単な事実に過ぎない。それが人類固有の観念機能の凄さであり、誰かが(たった一人でも良い)可能性のある事実を発見できれば、その事実は忽ち共認されて万人のものとなる。

 繰り返すが、人類は既に同類圧力によって活力を生み出すしかない状態にあり、かつそれは既に実現可能な状況にある。ただ、誰もそれに気付かず、衰弱する一方の生存圧力→私権圧力に依拠したままでいるので、全ての活力が衰弱する一方なのである。だが、意識下(観念回路の奥にある共認回路や本能回路)では、既に 『活力の転換』が始まっている。本源価値(異性や仲間や集団との共認充足や自然との本能充足)を破壊し、抑圧してきた私権の強制圧力が衰弱した以上、抑圧されてきた本源的な共認欠乏や本能欠乏が活性化し、意識下の共認回路や本能回路が本源充足へと可能性収束してゆくのは、必然である。かくして、'70年貧困の消滅と共に始まったこの意識下の本源収束の潮流は、'90年私権の衰弱が誰の目にも明らかになるにつれて顕在化し、共認収束(親和収束・仲間収束)や自然収束の大潮流を形成しつつある。ボランティアや自然サークル・環境サークルの興隆は、この潮流の最も見え易い表層の現象である。また、要因は複雑だが、若者の男女関係の主軸が、性関係から親和(安心収束)関係へ移行したのも、中心にあるのはこの潮流である。もっと見え難いが、子供たちの世界でいじめが深刻化してきたのも、子供たちにとって仲間圧力が絶対的な場=パラダイムとなった結果である。
 
040303    
   だが、異性関係は自我や独占欲や好き嫌いに妨げられ、本当に心を開いた和合充足を得られないでいる。それどころか、男女同権や依存捨象(要するに性権力)に妨げられて、充足の中身が薄くなる一方である。仲間関係も自我や抜け駆けの性闘争や私権闘争に妨げられ、警戒心を解くことが出来ないので、本当に心を開いた仲間充足を得ることが出来ない。それに課題が(遊びしか)ないので、関係の中身が薄くなる一方である。それどころか、私権が衰弱して真っ先に関係耐力(自我・私権のせめぎ合いに耐え得る関係能力)が衰弱して終ったので、互いに自我を恐れて相手の心の中に踏み込めなくなり、異性関係や仲間関係が表層化(上辺だけ仲良し化)する一方である。また集団(企業)に至っては、私権統合の権力体のままであり、その上集団自身が強制的な利益競争の圧力に貫かれて終っているので、集団との共認充足は極めて困難な状態にある。要するに、本源収束の潮流の前には悉く私権(性権・占有権)第一の支配共認が立ち塞がり、その可能性収束を妨害し封鎖している。  
040304    
   それでも、私権が衰弱し本源充足の可能性が開かれた以上、意識下の本源収束(共認収束と自然収束)の潮流は成長し続ける。そして'90年以降、それは意識上に上り始め、人々(特に若者)は相手との期待・応望を第一とする表層観念的な規範共認に意識的に収束する段階まできた。強制圧力を脱した日本人(縄文人)の本源収束の大潮流は、既にそこまで来ているのである。だが、社会は支配共認一色に染め上げられ、それ以外の共認は唯一信仰への囲い込みによって排除されている。(だからこそ、右記の期待・応望を第一とする規範共認も、表層観念化せざるを得ないのである。)その上、支配共認の中身が権力共認・観念共認とも自我に基づく唯一信仰の共認であるが故に基本的には全く動かない。従って、意識下の本源収束は、自我や恋愛や自由や個人や権利を正当化した支配共認(囲い込み共認)によって意識上への出口を塞がれ、それ以上は先端収束できずに、ただ本源欠乏(共認欠乏と自然欠乏)だけが蓄積されてゆく。  
     
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ニ.場と主体のズレ(圧力と活力源のズレ)    
040401    
 
 全ての生物は、場の圧力を活力源としている(そもそも外圧に最適反応する様に、本能そのものが作られている)。だから、自然圧力=本能活力源である。人類の場合は、主要な存在の場が共認圧力の場に移行しており、その共認圧力を主要な活力源にしている。だから、共認圧力=共認活力源である。ところが現代の支配共認は、自我に基づく思い込み収束(唯一絶対信仰)による極度な固定観念の共認なので、殆ど変化しない。従って、固定観念の共認が作り出す圧力も、急激には変化しない。ところが、この支配共認の中身は性闘争・私権闘争の本能につながっているので、意識下での場の変化に即応して活力が先行して変化してゆく。従って、変動期になると場(圧力)と主体(活力)の間に大きなズレが生じる。
 
040402    
   人類は、既に動物的な生存圧力を超えた同類圧力=共認圧力を活力源とするしかない状態にあり、現に動物的な生存圧力→私権圧力の衰弱という場の変化に反応して潜在意識(本能回路や共認回路)は本源収束を強め、自然充足や共認充足を主活力源にしようとしている(妨害物がなければ、とっくにしている)。ところが、顕在意識は支配共認一色に染脳されており、その支配共認は己に対立する本源意識を排斥し、意識下に封じ込め続ける。しかも、その支配共認は性闘争→私権闘争を基にして形成されているので意識下の本能回路に連なっており、その意識下の部分は、場の変化に反応してどんどん衰弱してゆく。要するに、支配共認が全ての桎梏(手かせ足かせ)となっており、その旧い共認圧力は一方では新たな共認形成を抑圧・封鎖しながら、他方その旧い共認圧力が作り出す筈の活力は、衰弱する一方である(従ってその共認圧力も、急激ではないが、相当に低下している)。従って、複雑なことに、新たな場と旧い主体のズレ(潜在意識と顕在意識の断層)、および旧い場と旧い主体のズレ(旧い共認圧力と旧い私権活力の断層)が相互に絡み合っており、この場と主体の間の二重のズレが、現代人に得体の知れない大きなストレスを負荷し、疲労を蓄積させてゆく。  
040403    
   まず第一に、既に私権追求(更には性の自由追求)の活力は衰弱する一方なのに、共認圧力は私権(性権・占有権)第一のままなので、さっぱりリアリティーがなく、ヤル気の起こらない私権課題に(それでも囲い込まれてそれを共認している以上、ましてそれが社会的共認圧力として働いている以上)否応なく立ち向かわなければならない。この状態は、人々に深刻な空焚き疲労・燃え尽き疲労を強いる。これは納得ずくの筈の囲い込み共認による強制的・全身的体罰であり、人類に対する拷問に近い心身損壊の残虐行為である。(もちろん、この角度から、子供や男たちの「人権擁護」が省みられたことは一度もない)。  
040404    
   更に第二に、既に本心(意識下の本能回路や共認回路)は、本源的な自然収束や共認(期待・応望)収束に向かっているのに、その大部分が囲い込みの支配共認に蓋されて意識上への出口を塞がれ、抑圧され続ける。この状態は、人々から可能性収束の芽を摘み取り、人々に無為感や無力感を植え付け、人々を深刻な無気力状態に追い詰めてゆく。これも、人類に対する拷問に等しい残虐行為である。  
040405    
   当然、この得体の知れない巨大なストレスは、癒し欠乏(=現代の不全感)を強めさせる。かくして男たちは(粗大ゴミ扱いされながら、それでもなお)家庭収束(※実態は個室収束である)を強め、遊興の場であるネオン街さえ寂れてゆく。前述した若い男女の安心収束も、若者の仲間収束も、この癒し収束が根になっている。大人だけではない。今や子供まで、何をするにも「疲れた」「どっこらしょ」を連発し、疲れ果てながら日々をやり過ごしているという有り様である。これが、囲い込みによって作られた「私の彼氏」「私の子供」の実態である。だが、事態はストレスを解消すれば済む様な、甘いものではない。場(=環境)に適応できなくなった生物は、絶滅するしかない。これは、外圧=環境と生き物を貫く大原則であって、人類ももちろん例外ではない。  
040406    
   人類の障害物は唯一つ、支配共認の固定回路だけである。人類は、既に同類圧力を主要な活力源とするしかない状態にあり、人々は、身(の基底部=本能回路と共認回路)を既に同類圧力=共認圧力の場に置いている。ただ、顕在意識だけが固定観念に収束する様に囲い込まれ、その欺瞞観念に囚われて相変わらずこの世は生存第一・私権第一で、そこ(生存圧力=私権圧力の場)で生きるしかないのだと、思い込まされているに過ぎない。だが、既に見てきた様に、生存第一→私権(性の自由と占有権)第一→市場第一→権利第一の支配共認では活力が衰弱するばかりであり、それどころかこのままでは間違いなく人類は滅亡する。今や、支配共認は人類を全面閉塞状態に閉じ込める牢獄でしかない。しかも、無期ではなく、もうすぐ人類を窒息死させるガス室となる。何度も指摘してきたが、特に致命的なのは、この支配共認に囚われている限り、誰も何も考えようとしないことである。だから、この支配共認の下では何も新しい認識が生まれず、従って、人類の新たな活力源となるべき共認闘争圧力(新たな同類闘争圧力の中枢となるべき圧力)が全く生じてこない。既に古い生存圧力は(囲い込み共認によって)衰弱し、新たな同類圧力=共認圧力は(囲い込み共認に封鎖されて)生じないとしたら、この囲い込み共認を爆破して終わない限り、人類は何をやる気力もないまま、ただ衰弱死を待つだけである。  
     
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    ホ.支配共認根絶の共認闘争    
040501    
 
 このままでは、人類は滅亡する。今、人類に求められているのは『生存圧力の場から同類圧力の場』への存在の場の転換であり、それは人類五〇〇万年の歴史を覆す様な、極めて根底的なパラダイムの転換である。にも拘わらず、人類の命綱たる共認が支配共認一色に染まったまま動かないので、活力が衰弱する一方であり、次の活力源たる新たな共認圧力も生まれてこない。邪心を嘘で塗り固めた支配共認を粉砕しない限り、人類に未来はない。今、人類が成すべき最も重要な課題は、支配共認を根底から覆し、新たな場に適応した新たな社会共認を形成してゆくことである。
 
040502    
   既に大多数の日本人は、時代や社会に対する閉塞や危機や不安をほぼ共認しており、更に過半の人が、何かが起きてくれることへの期待を潜在的に共認している。その背後には、前述した意識下での共認収束・自然収束の大潮流がある。また、今や支配階級と支配共認は完全に行き詰まっており、人々は政府や学者やマスコミの主張にウンザリし、少し意識の高い人なら、もはや彼らには何も期待しなくなっている。その深部では、性権力も既に自己崩壊過程に入っており、少し志のある男なら、女の要求にウンザリし、もはや自我女には何も期待しなくなりつつある。この様に、支配共認が形骸化して力を失い、時代閉塞を打ち破る新たな理論と運動が広く期待されているとしたら(現在それはなお、潜在的な期待圧力であるが)、新たな社会共認を形成してゆく土壌は、既に充分に出来ている。  
040503    
   生存圧力(自然圧力や外敵圧力)は、向こうからやってくる圧力であった。しかし、共認圧力は、期待と応望によって自分たちが作り出す圧力である。例えば解脱共認は、先ず自分から心を開いて相手に期待し応望しようとしない限り、決して形成されない。闘争共認も同じであって、先ず自分から期待し提起し応望しない限り、決して形成されない。従って、何事もまず自分から期待し応望してゆかない限り、同類圧力=共認圧力は形成されてゆかない。本当は期待しているのに、思い通りにならないとすぐに自我収束して「あんな葡萄は酸っぱいに決まっている」と相手を否定し、自分で自分の心を閉ざして期待することを止めて終えば、共認充足は得られず、そのぶんだけ自らの活力を低下させてゆく。既に新たな活力源は、同類圧力⇒期待・応望の共認充足しかない。だとすれば、何よりもまず最大の活力源としての『同類』と『期待・応望』の大切さを心に刻み、支配共認に逆らって意識的にでも心を開き、期待にフタをしないことが決定的に重要になる。  
040504    
   期待と応望の視座を更に広げて共認社会を展望すれば、そこでは全人類的課題が有る限り、人々の期待と応望が作り出す同類圧力=共認圧力は不滅である。だが考えてみれば、今現在、人類が直面している人類滅亡という課題以上に大きな人類的課題は、無い。また、支配共認を打倒し、新たな共認を形成してゆく共認闘争圧力以上に強力な同類圧力=共認圧力は、無い。動物的な生存課題をほぼ克服した人類が、これから先生きてゆく共認圧力の場は、人類滅亡という極限的な人類的課題に応え、悪性腫瘍と化した支配共認を根絶して、新たな社会共認を形成しようとする共認闘争によって、生み出されるのである。  
040505    
    経済破局を引き金としてその数年後に始まる殺し合いを阻止し、人類本来の共認社会を実現できるか否かは、最初の共認闘争圧力を作り出せるか否かにかかっている。もちろん、大破局に突入し、強烈な生存圧力に晒されれば、黙っていても人々は立ち上がり、殺し合いを始めるだろう。だがそれでは(たとえ何%かが生き残ったとしても)、旧時代に戻るだけである。我々の運動が次の人類史を切り拓くものであるとすれば、あくまでも破局の生存圧力が働く前に、共認闘争による新たな共認圧力が生み出されなければならない。  
040506    
   新たな共認形成は、屈することなく支配共認と対峙して現実を直視(⇒事実を追求)し続け、それ故にいち早く滅亡の危機を捉えて、社会を根底から変革する新たな認識パラダイムを構築し得た者が、それを社会に提起することから始まる。もし、その認識が人々の期待に応え得るものであり、とりあえず数%の共鳴を得ることが出来れば、それは共認上の乱を呼び起こし、共認闘争圧力を生み出すことが出来るだろう。もちろん、この凄絶な共認闘争の後には、人々を否応無く従わせてきた性権力や占有権力などの権力は本源集団の内部で解体され、権力によって強制されることなく主体的に人々の期待に応える政治や哲学や科学や芸術の創造競争(本質的には共認の獲得・形成を目指す共認闘争)の圧力が、主要な共認圧力となって人類の存在の場を形成する。  
040507    
   人類の存続と再生をかけて我々が今から開始する、共認闘争が生み出す圧力こそ、生存圧力に代わる同類圧力=共認圧力の原点となるものであり、人類が求める新たな活力の源流となるものである。支配共認根絶の共認闘争は、全ゆる点で次の人類社会=共認社会を象徴するその縮図であり、この共認闘争を担う共認ネットワークは、そのまま共認社会の原型となり、更にそのまま共認社会の基軸(統合機関)となるだろう。  
040508    
   我々の提起が、どこまでの共認闘争圧力を作り出せるかは、実践してみなければ分からない。新たな共認圧力は、新たな認識パラダイムを構築し得た者が、敢えて共認上の乱を興すことによってしか、形成されてゆかないが、正直なところ、それが我々であるのかどうかは大いに疑問である。言うまでもなく、それは我々でなくても、答えを見付けた人なら誰でも良い。それは天のみが知るところである。しかし、これまでのところ、どこからも提起はなく、何の運動も興っては来なかった。しかも、事態は切迫している。とすれば、我々が共認上の乱を興すしかない。成るか成らないかは、誰にも分からない。しかし、可能性がそれ以外になく、かつそこに僅かでも可能性があれば、それは必然となる。それが、実現の原理である。  
     
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ヘ.秩序収束⇒規範・制度の共認圧力と政権闘争  
040601    
   もちろん、共認闘争は新たな圧力=活力の核であって、核だけで必要な圧力=活力の全てが形成できる訳ではない。支配共認の背後には商品市場←性市場が存在しており、それらを封鎖して終わない限り、自我・私権(性権・占有権)は衰弱しながらも発生し続ける。そうである限り、人々の頭の中に巣喰う自我・私権意識がそれと対立する本源意識を排除し続け、本源的な共認圧力がなかなか肉体的な活力源に成ってゆかないことになる。では、性市場・商品市場を縮小し封鎖してゆく為には、どこに楔を打ち込むのが最も有効か?  
040602    
   性闘争の場としての性市場は、(その定義に従えば)モグラ以来、原初的・本能的に存在している。しかし、共認動物の性闘争→性市場は性闘争=縄張り闘争の本能のままに在るのではない。逆に性闘争本能を止揚→規制する秩序収束の共認圧力が恒常的に働いており、共認された権力と制度が、性闘争や性市場の在り方を絶対的に規定している。商品市場ももちろんそうであって、私権闘争を止揚→規制する権力と制度によって、私権闘争や商品市場の在り方は絶対的に規定されている。性市場は、(性闘争本能をそこに収束させた)性的自我に基づく否も応もない性権力の共認をはじめ、それを保障する私権制度やそれに付帯する性幻想や恋愛観念などの共認が作り出した圧力の場であり、商品市場は(縄張り闘争本能をそこに収束させた)自我に基づく否も応もない占有権力の共認をはじめ、それを保障する私有制度やそれに付帯する個人や自由や豊かさ追求の共認が作り出した圧力の場である。つまり、性市場や商品市場は、性闘争を下敷きにした自我闘争と、それを止揚した権力(性権→占有権)およびそれを保障する私権制度、およびそれらを正当化する欺瞞観念の共認によって作られたものである。  
040603    
   これら秩序収束の共認圧力(権力と制度と観念の共認圧力)に備わる力の絶対性は、例えば徴税制度が制定されている限り(払わなければ投獄されるという、暴力装置つきで)否も応もなく税を収奪されるとか、学校制度が制定された以上、否応なく学校に行かなければならないとか、身近に至る所で感じられる所であるが、その絶対的な力は、権力によっても形成されるが、実はそれ以前に共認圧力によって形成されている。たとえ真猿や人類私権時代の性闘争・私権闘争の様に出発点は性闘争・私権闘争⇒力による制圧であったとしても、その背後には、絶えざる闘争と破壊には耐えられずに安定収束する生き物全般を貫く摂理が働いており、それ故に共認動物も闘争よりも制圧を支持し、性闘争・私権闘争を制圧した力の序列を共認したのである。この序列共認は、皆が求める安定⇒秩序維持の為の共認であり、(同時に共認された序列闘争の様式に則って、順位の上昇を図ることはできても)その序列規範(≒制度)そのものを破壊することは誰にも(例えば、その私権闘争の制覇力をもってしても)出来ない。まして人類史の大部分を占める極限時代や採集時代には、この秩序収束の共認圧力によって性闘争・私権闘争は完全に封印され、秩序維持の為の集中婚規範=制度や総偶婚規範=制度をはじめ、様々な規範・制度の共認圧力が絶対的な力として働いている。  
040604    
   この絶対的な力は、絶えざる闘争と破壊を回避しようとする根源本能(適応本能や危機逃避本能)を下敷きにした安定収束⇒秩序収束⇒規範収束によって与えられており、その秩序収束力⇒規範共認圧力は、危機時には解脱収束力⇒解脱共認圧力をも凌ぐ絶対的な圧力の場を形成する。そして、この秩序収束⇒規範(制度)共認の圧力こそが、サル・人類の恒常的な存在の場を形成している。その場(圧力)の中では、たとえ性闘争や私権闘争が発生し、それ自体は力によってしか制圧できないとしても、その制覇力の序列共認が形成されて性闘争・私権闘争をくるみ込み、絶えざる闘争と破壊を回避してゆく。従って、規範(制度)共認の圧力=場こそが、権力をも包摂して終う、より包摂的な場(圧力の場)なのである。  
040605    
   人類において、秩序収束⇒規範・制度の共認圧力は、それほどに絶対的である。当然、規範や制度が人々の意識≒価値観を規定する力も、ほぼ絶対的である。従って、私婚制や私有制をはじめ、私権法制がそっくりそのまま残っている限り、性闘争・私権闘争は発生し続け、従って性市場・商品市場は蔓延り続ける。そうである限り、認識転換は極めて困難となる。現に我々(『類』)が経験している様に、たとえ理論を共認し認識転換したとしても、現実生活の全てが個人を主体とし、個人に性権や占有権や参政権を与える法制度の下にある限り、法制に規定されて肉体的次元から自我や私権意識が発現し続ける。従って、新たな共認がなかなか現実の力とならず、従って肉体的な活力源に成ってゆかない。とりわけ性=婚姻を私的な選択に委ねる規範・制度の下に在る限り、集団破壊の性的自我や私権収束が至る所で顕現し、そうである限り、本源的な共認圧力=活力源が現実化しない。  
040606    
   要するに、人類の新たな活力源=同類圧力の場を形成する為には、認識の共認という意味での狭義の共認圧力だけでは不充分なのであって、その認識の共認が秩序収束力に基づく本源的な規範・制度の共認圧力に変換されて初めて、絶対的な(当然、現実的・肉体的な)活力源=同類圧力の場が実現する。従って、まずは参政権を手始めに、最終的には占有権や性権(選択権)に至るまで、それらの主体を個人から集団に移行させ、私権法制を全面解体して本源法制を確立してゆくことが不可欠となる。逆に言えば、既に生命力を失った自我・私権が未だに生成され続け、形骸化した性市場・商品市場が未だに生き長らえているのは、秩序収束力に基づく(しかし現状、それに替わるものがない)私権法制の共認圧力という人工呼吸装置によってであり(実際、それに替わるものがないのにそれを破壊すれば、秩序が崩壊=滅亡する)、私権法制に替わる本源法制の共認圧力が働き始めれば、自我・私権や性市場・商品市場など一気に吹き飛び、雲散霧消して終うに違いない。  
040607    
   さて、もともと本源集団を破壊した性闘争→掠奪闘争を止揚したのは、私権統合国家であり、それ以降、性闘争→私権闘争を統合し、私権(性権→占有権)の共認を核とする様々な法制度を作ってきた国家(国会)こそ、性を私的選択に任せる性闘争のパラダイムを含め、性闘争・私権闘争の全てを包摂し、その在り様を規定している全ての要である。従って、自我・私権を廃棄し、性市場・商品市場を縮小→封鎖する為に不可欠かつ最も有効な場は、私権統合国家そのものである。つまり、本源的な共認圧力=新たな活力を現実化する為に我々が楔を打ち込むべき場は、国家である。  
040608    
   実際、国家は性闘争・私権闘争の在り様(私的な性関係や性権・占有権や一対婚や自由な性)を絶対的に規定しており、それらが生み出した性市場→商品市場をも規定している全ての要=社会的な秩序収束の要である。従って、秩序収束の頂点に立つ国家権力さえ掌握すれば、その絶対的な秩序収束力=規範・制度の共認圧力によって、自我・私権や性市場・商品市場などどうにでもなる。従って、新たな共認圧力を現実の力=肉体的な活力源として固めてゆく為には、政権の奪取が不可欠である。今や、民主国家(国会)は社会共認に従う存在であり、また、本来国会は共認社会を統合する共認ネットワークの頂点に位置すべき機関である。だから、共認社会の実現を目指す運動が国家権力を掌握することに、(その権力を破棄することさえ出来れば)大きな矛盾はない。もちろん、殺し合いを阻止する為には、事実に立脚した可能性のある理論とそれに基づく正しい施策が不可欠であり、その為にも政権の交替が必要なことは言うまでもない。従って我々の提起する共認闘争は、必然的に新政権の樹立を目指す政権闘争となる。おそらく、共認闘争を担う共認ネットワークを母胎にして、新政権を目指す新政党が結成されることになるだろう。  
     
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ト.本源集団の再生  
040701    
   民主国家は、既に社会共認に従う一個の共認体となっている。しかしそれは、共認動物が棲息する場である以上、当然のことなのであって、共認動物が形成する集団は、国家であれ企業であれ、当然全て共認統合体である。その意味で、本来的(=潜在的)には、国家は私権闘争の統合体である以前に、何よりも国民の共認体である。ただ、性闘争・自我闘争を基底パラダイムとする集団は、それを制覇した力の共認=否応のない権力の共認を基軸とするしかなく、そこではとうてい仲間同士の共認によって集団が形成されているとは感じられないので、共認体ではなく権力体として意識されることになる。実際、それは性闘争や自我を封印してきた本源集団から大きく逸脱しており、共認統合体と言うより権力統合体と呼ぶ方が適わしい。しかし、権力の共認を基軸とした統合体であるとは言え、それでも広義には、秩序収束を基盤にした共認によって統合された共認統合体なのであって、実際、国家や企業は支配共認をはじめ至る所で形成される様々な共認によって統合されているのである。  
040702    
   しかも、私権圧力が衰弱し共認圧力が強まってゆくにつれて、国家の本質はますます私権統合体から共認統合体へと変質してゆく。今後、占有権力に続いて性権力が衰弱すれば、国家は一気に共認統合体へと近づくだろう。しかし、性闘争・自我闘争を基底パラダイムとしている限り、何らかの権力の共認を基軸とするしかなく、それでは決定的な限界がある。要するに、超肥大集団とバラバラの個体という性闘争・私権闘争のパラダイムのままでは、国家は権力共認→支配共認の統合体でしか在り得ず、それでは人類は滅亡する。国家が真の共認統合体となる為には、何よりも本源集団の再生が不可欠であり、その上でそれら本源集団を原点とする共認ネットワークの構築が不可欠である。  
040703    
   国家と同様に企業も、本来的(=潜在的)には、市場で利益追求に明け暮れる存在である以前に、何よりも一個の生産体であり、更にそれ以前に一個の共認集団である。(現代でも、思想の自由、結社の自由は、民主主義の大前提として表向きは共認されている。)もっとも、絶対的な私権の強制圧力が働いていた頃は、企業は何よりも先ず利益を追求する存在で、「本来は、それ以前に一個の生産体であり、共認集団である」事を省みる余裕など殆どなかった。しかし、私権の強制圧力が衰弱し、(福祉や環境や贈収賄に対する)共認圧力が強まってゆくにつれ、企業も利益追求存在である以前に、社会の成員たる一生産体(or 集団)である事を慮らざるを得なくなってきた。もちろん、いかに私権圧力が衰弱しても権力体である限り、その成員に結社の自由などある訳もなく、「本来は、自分たちで作る自分たちの集団である」という自覚は乏しいが、しかしそのままでは活力も統合力も衰弱して企業として生き残ることが出来なくなるので、いずれは『自分たちの生きる場を自分たちで築く』共同体に転換してゆかざるを得ないだろう。しかも、それは類が実証した様に、認識を転換しさえすれば30年前でも実現できたことなのである。  
040704    
   企業を私権統合から共認統合に変えるのは決して不可能ではなく、むしろ簡単である。企業を合議制の共同体に変えれば良い。例えば、会議を中央席から同心円形に二重・三重に囲む形にし(当社では「劇場会議」と呼んでいる)、まずは取締役を中央に座らせ、外側に部課長たちが座って自由に発言させるという風に、取締役会をオープンにしてしまう。それが出来たら次は、部門ごとに部課長が中央に座り、外側に全社員が座って自由に発言するという風にして、完全にオープンな全員参加型の体制に変えてゆく。もちろん、その為には経理を含めた全情報を全社員に公開する必要がある(その為には、相当量のシステム化が必要になる)ことは言うまでもない。  
040705    
   近代社会は、民主主義を標榜してきた。だが、民主主義を口にするのなら、何よりもまず日々の仕事の場=生産体を、自分たちで動かすことのできる共同体に作り変えるのが、本当ではないのか。日々エネルギーの大半を費やして生産活動を営む、最も身近な集団を自分たちで動かすことのできない権力体のままにしておいて、はるかに遠い超肥大集団=国家(議会)に四年に一回投票するだけの、西洋式の民主主義など全くのごまかしである。人類が五〇〇万年に亙ってその中で育まれ進化してきた『自分たちで動かすことのできる生産体or 集団』は、人間にとって決して失ってはならない絶対的人権である。人々から生命の母胎とも言うべき本源集団を奪い盗り、何もできない様に去勢しておいて(現に、サラリーマンからは何の運動も生まれなかった)、支配共認に染められた民に「主権」を与えただけのまやかしの「主権」在民や、支配共認の枠内に矮小化された「人権」尊重へと国民を染脳するのは、むしろ犯罪的でさえある。  
040706    
   企業を合議制の共同体に変革しさえすれば、三年以内に『自分たちの生きる場を自分たちの手で作ってゆく』ことの大切さを、皆が体得してゆくだろう。言い換えれば、共認と集団の大切さが体得されてゆくだろう。それは、長い間権力によって封鎖されてきた、人類本来の豊かな共認充足の再生に他ならない。しかし、それだけではなお不充分である。私権=権力を破棄し、真の共認集団を形成する為には、究極のところ性闘争を封鎖することが不可欠である。性闘争・自我闘争を封鎖しない限り、それを制圧する権力の共認が必要になる(注:社会主義国の失敗の究極の原因は、そこにある。つまり、恋愛や一対婚を無自覚に肯定したままでいたが故に、必然的に権力が必要になり、また必然的に市場社会へと移行していったのである)。共認集団の共認圧力(集団規範)の内部に性闘争(共認の破壊物)を封鎖することができて初めて、共認圧力が全的な活力源となる土壌(仕組み)が出来上がり、その枠組みの中で活力=共認充足を高める必要から、必然的に自我も封印されてゆくだろう。それは、闘争と生殖を包摂した全的なる本源集団の再生に他ならない。そして、それは人類を正常な自然の摂理の中に戻し、人類を精神破壊から救い、滅亡を回避する為に不可欠な道程である。  
040707    
   もちろん、恋愛や一対婚をごく当然のものと信じ込んでいる自我女や迎合男たちの抵抗は、大きいだろう。だが、抵抗しても無駄である。そのままでは、人類は滅亡する。人類再生の可能性がそこ(性を集団の中に組み込んだ本源集団の再生)にしかない以上、人類はそこに収束してゆく。人類の敵=性権力者や迎合男たちは、ただ絶滅してゆくだけである。現に、彼ら電源の切れかかったロボットたちは、何もしようとせず、ただ廃棄処分される日をじっと待っているだけではないか。それが嫌なら、考えればいい、立ち上がればいい。共認闘争は、新たな活力源として、人類が待ち望むところである。  
     
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ロ.男女同権論はペテンである    

  ロ.男女同権論はペテンである    
030201    
   真猿以来(人類になって一段と)、存在理由の欠損を深く刻印された女が、最終的に社会的な存在理由の充足を求めてゆくのは当然である。つい二〇〇年前までは(日本では50年前までは何とか)、女たちは皆の期待=集団の中での役割(規範)に収束してその存在理由を充足させてきた。だが、性的自我と性権力で武装した女たちは、本源集団に続いて村落集団をも破壊し、もって全ての集団、全ての規範、全ての役割を破壊して終った。その上で、女たちは改めて性的自我と性権力に基づく社会的存在理由を仮構し、その仮構をテコにして、社会に進出してゆく。  
030202    
   もちろん、自我は共認の敵対物なので、自我に立脚した存在理由=役割充足などあり得ない。そこで、社会の原点として「個人」や「権利」という架空の思い込み観念を措定して、その架空観念を追求することが社会的な「役割」=「存在理由」を充足させることになるというカラクリを捏造した。しかし、専ら架空観念に頼るこのカラクリはいかにも苦しい。だから実際には、否定性(不満や不安)が強く、それ故に幻想観念に収束する必要が強い一部の病的な観念主義者しか、架空の「存在理由」など求めはしない。とは言え、それらの欺瞞観念は性権力という強大な力によって支えられており、性権力者が社会的な存在理由≒自己正当化を必要とする以上、それを満たしてくれる観念に収束してゆくのは、必然である。従って、この一部の歪んだ観念病者の架空観念が、社会共認となってゆく。  
030203    
   「個人」や「権利」という架空観念をテコに社会に進出してゆく以上、女は男と「当然、同格であり、同権である」ことになる。そして同格・同権である以上、依存存在であることや性的存在であることは認め難い屈辱となる。もちろんその屈辱視は、頭の中で架空観念に収束した時だけのことであって、肉体の方は相変わらず依存要求と性権力追求に収束し続けている。つまり、女の肉体と観念は正反対に分裂している。それは、私権時代の女が性を武器として私権を確保するしかない状態に置かれているからであって、現実を欺き肉体を欺く幻想観念によって、性権力をはじめ存在権を確保する為の無数の欺瞞共認を形成し、その欺瞞共認を武器にして生きているからである。かくして自我・私権の塊と化して性権力の拡大を目指す権力主義者たちの最終目的は、「男女同権」によって依存の鎖を断ち切る方向に収束する。そこで性権力者たちは、依存対象≒抑圧者(男であったり、社会であったりする)を目の敵にして、男女同権を唱え、社会に進出してゆく。  
030204    
   だが冒頭で触れた様に、雌雄は、メスが生殖過程を主要に担い、オスが闘争過程を主要に担うことによって調和し、バランスを保っている。つまり、メスが生殖過程の主導権を握り、オスが闘争過程の主導権を握ることで、女と男は平等なのである。現に、女たちは迎合男たちをどうにでも懐柔できる程の絶大なる性権力を手中にしている。だが、男女同権論者たちは、女が生殖過程において既に絶大な性権力を獲得し男を好きな様に懐柔していることについては口を噤んで触れないでおいて、本来男が主導権を持つべき闘争過程≒社会過程の権利だけを平等にせよと要求する。だが、これほど不平等な要求があるだろうか? これでは、男と女の力のバランスが完全に崩れる。これは、極めて悪質な詐欺である。にも拘わらず、性権力に迎合するしかない能のない男たちはそれをも共認し、かくして男女同権が社会共認となって終った。  
030205    
   その結果、男も女も急速に中性化してゆき、男らしさや女らしさが喪われていった。今や、男の本分を考えたこともない男や、女の本分を知らない女が大多数を占めるに至っている。しかし、男の様な女と、女の様な男は、男と女どちらにとっても魅力に欠け、男女夫々の充足を著しく貧弱なものにし、社会全体を殺風景にしてゆく。それより深刻なのは、男女の中性化が、雄雌の差別化という進化のベクトルに完全に逆行していることであり、人類は種として極めて危険な状態に陥ったと云わざるを得ない。事実、男女同権によって男と女の力のバランスが完全に崩れ、社会は性権力の全面支配によって女原理一色に染め上げられて終った。その結果、人類は滅亡への坂道を真っ逆さまに転げ落ちつつある。  
     
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ハ.貧困の消滅→私権の衰弱→性の衰弱    
030301    
   性権力者に主導された民主国家は、(豊かさ要求の産物たる)市場拡大と(要求主義・権利主義の産物たる)福祉制度によって、'70年頃、遂に貧困を消滅させることに成功した。但しそれは、貧困を消滅させるに至った類間の圧力(社会的な力関係)という観点から見た見解であって、自然・外敵圧力と対峙して貧困を克服した直接的な力(物質的な力)という観点から言えば、その主役は科学技術であり、要するに人類は極限時代から営々と蓄積してきた事実の認識→科学技術の進化によって、遂に貧困を克服したのだとも言える。  
030302    
   だが、貧困を消滅させた結果、私権の強制圧力が衰弱し、これまで私権の強制圧力を最大の活力源にしてきた人々の活力も急速に衰弱してきた。それに伴って、国家も企業も家族も個人も、自らを私権の強制圧力によって統合することが難しくなり、遂に3千年に亙って社会を統合してきた私権統合が機能不全に陥って終った。その結果、全ての存在が目標を失い、フラフラと迷走し始めた。更に、性権力の最大の抑圧物であった私権(占有権)の強制圧力≒男原理を去勢したことによって'80年頃には性権力の全面支配が完了し、社会は女原理一色に塗り潰されていった。女支配は子供や男たちを去勢して、(私権の衰弱によって衰弱した)活力を更にとことん衰弱させてゆく。その結果、ますます統合不全が深刻化し、社会の混迷と衰弱は年々ひどくなってきた。とりわけ'90年以降、事態は加速度的に悪化しつつある。  
030303    
   それだけではない。社会を全面支配した性権力は、実はそれ自体では自立して存在する事が出来ない。なぜなら、性権力は自由な性市場を母胎にしており、自由な性(性の自由欠乏)は性的自我を源泉にしている。そして、自我は共認圧力(集団圧力や闘争圧力や規範圧力)に対する否定をバネとする反or 破のエネルギーでしかない。従って、自我を源泉とする性の自由欠乏も、性の抑圧力(上記の共認圧力)に対する反or 破のエネルギーでしかない。換言すれば、性権力の土壌を成す性の自由(欠乏)は、性の抑圧を前提にしている。従って、性権力が集団を破壊し性規範を解体し私権圧力を去勢して、全ての抑圧力を消去させて終うと、自らもエネルギー源を失って消え去るしかない。  
030304    
   性の衰弱は、既に私権が衰弱し始めた'70年頃から始まっている。心中物語に代表される様な、私権の強制圧力との緊張関係から生じる性の自由への強力な収束力が衰弱したことによって、'70年頃から情熱をかき立てる様な恋愛が成立しなくなり、性をムキ出しにした官能小説やポルノ映画が主流に成っていったが、それは性の火(活力)が消える直前の最後の輝き(活力)だったのである。私権の衰弱が顕著になった'90年代に入ると、性はSMや3Pに最後の活路を求め、その刺激にも飽きると、もはややることが無くなって終った。こうして'95年頃から、遂に性の自由欠乏→性闘争(恋愛)そのものが急速に衰弱し始めた。  
030305    
   既に、ネオン街は寂れる一方であり、ムキ出しの淫売屋も客が減り続けている。何よりも、性欠乏が衰弱したので性活力がそこそこ旺盛な年齢は下がる一方であり、今や性の中心は高校生・中学生である。これは、男と女の役割規範やそれに基づく男女の期待・応合や互いの肯定視など、共認に基づく人類本来の性の豊かさが喪われ、もはや物理的・本能的な性欲しか残っていないという事を示しており、実際20歳代で早くも擦れっ枯らしと成った男女が急増している。しかも、私権が衰弱して真っ先に関係耐力(厳しい自我・私権闘争に耐える関係能力)が衰弱して終ったので、互いの自我や要求に対応するのが煩わしくなってきた。その結果、衰弱した性に残された+よりも煩わしさの-の方が上回り、互いに相手を捨象する女捨象や男捨象が顕著になってきた。  
030306    
   性闘争(恋愛)を土壌として肥大してきた性権力にとって、これは致命的である。全ての抑圧力を解体して終った以上、性権力もまた消え去るしかない。だが、私権統合から性権(力)統合へと移行した途端に(or 移行途中で)、当の性権力自身が消滅すれば、社会は全面的崩壊状態に陥る。だがそれは、同じく性闘争を究極の活力源としてきた私権社会が消滅する日と時を同じくする。それは、性権(力)こそが私権の原点であったことからも、当然の成り行きであろう。  
     
ニ.市場の崩壊  
     
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030401    
   しかし、性権力支配は、その前に社会を全面崩壊させて終うだろう。貧困が消滅し、私権の強制圧力が衰弱したことによって、私権圧力(とりわけ貧困圧力)によって人工的に膨らまされてきた物的欠乏が衰弱し、市場は縮小するしかなくなったからである。にも拘わらず、性権力に主導された豊かさ要求や福祉要求etc.の支配共認はそのままなので、市場はバブル化する事によって無理な拡大を続けるしか無い。従って世界市場のバブル化とその崩壊=経済大破局は、もはや不可避である。現に、米・欧の株価は6倍近く(NY1万1千ドル)に超バブル化して終っており、そう成るのを誰も止められなかった(それどころか、大多数の人々がそれを歓迎している)。しかし、バブルは必ず崩壊する。これも、誰にも止めることは出来ない。従って、世界の株価の同時大暴落→世界大恐慌は必至である。つまり、性権力に支配された市場は、もはや大破局という形で爆発的・暴力的に、一気に縮小させられるしかなくなった。ここまでは100%確実で、これは予測というより、疑問の余地のない既定の事実である。  
030402    
   多分、株価が7倍を超え=NYが1万2千ドル前後の段階で、世界バブルは崩壊し、世界大恐慌に突入するだろう。それはおそらく、数年後である。大恐慌なら'29年にも経験している。だが、'29年の大恐慌と21『初頭の大恐慌は、その前提条件が全く違っている。'29年は貧困の圧力が強く働いており、当然生活は貧しく、生活必需品(ex. 一足の靴、一本の傘、一枚の服)に近い様な需要が過半を占めていた(ex. 電器メーカーはテレビではなく電球を作っていた)。従って、大恐慌に成っても需要は3割減程度で留まり、失業者も2割前後で留まっていた。それに物的欠乏が強いので、大恐慌=金融破綻が納まれば、市場は再び力強く拡大してゆく事が出来た。しかし、現在は生活が豊かになり、必要な物は一家に一台以上揃っているし、服や靴に至っては5年ぐらい買わなくても済むぐらい各家庭に大量に備蓄されている。従って、大恐慌に成れば(既に現在の日本人の消費態度が明示している様に、)先行き不安に備えてサイフのヒモを締め、食糧と日用品以外の物は殆ど買わなくなる。従って、需要は一気に7割減まで落ち込み、失業者も5割を超えて終う。これは、市場が過去に経験した事のない事態である。  
030403    
   '29年と21世紀初頭の大きな違いは、もう一つある。'29年は、生産人口の過半が農業に従事していた。大地に根を下ろした農業とその村落共同体は、秩序安定性が極めて強い。たとえ都市=市場の秩序が混乱しても、人口の過半が住む農村の秩序は(貧困→娘の身売りまで追い詰められても)崩れない。むしろ、失業者の何割かを実家=農村が吸収した。要するに、人口の過半が住む農村(農業)という社会秩序の安定基盤、かつ市場破綻の受け皿が存在していた。だが21世紀、農業人口は5%も居らず、村落共同体は破壊され尽くしている。もはや、安定基盤も受け皿も存在しない。  
030404    
   食糧が高騰し、取り付け騒ぎが全銀行を襲い、企業の5割が倒産し、失業者が6割に達するという事態を治めることが、農村(人口)という安定基盤も受け皿もない条件下で、国家や支配階級に出来るのだろうか。彼らは、こうなる事が分かっていながら認識転換できず、従って何の展望もないまま、闇雲に市場拡大を続行してこの事態を招いた。彼らが、何の展望も示せなかったのは当然である。性権力支配(特にその支配共認)による私権の衰弱と性欠乏・物的欠乏の衰弱は、誰にも止めることの出来なかった性権力支配の必然的帰結であり、そして私権および性欠乏・物的欠乏の衰弱とは、性闘争→私権闘争を究極かつ最大の活力源としてきた私権時代の終焉に他ならないからである。つまり、支配階級とその支配共認は、もはや社会を統合する資格と力を失ったのであり、そもそも返済不能な国家赤字=国家破綻が象徴している様に、既に統合不能に陥ったからこそ、この大破局を迎えたのである。  
030405    
   私権圧力=活力の全面衰弱、女原理の全面支配と思考停止、そして財政破綻から経済破局へ、どこから見てもこれは支配階級と支配共認がもはや統合能力を失った結果としての破局である。従って、支配階級→支配共認が、この事態を治め社会=国家を再統治することは全く不可能である。この事態は、支配共認を根底から覆す全く新たな理論が登場し、新たな統合共認が形成されない限り、治められない。従って、このままでは(=支配共認のままでは)全面的に秩序が崩壊し、国家や軍隊も瓦解して、食糧を求める人々が互いに殺し合い、滅亡してゆく可能性が極めて高い。これは予測ではあるが、論理必然的な、(論理に見落としがなければ)100%に近い確率の予測である。おそらく、米・欧・露・中は、その様にして滅亡してゆくだろう。  
     
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ホ.「観念機能、作動せず。」=思考停止    
030501    
   今や、日本人の大部分は不安と閉塞感に囚われ、多かれ少なかれ滅亡の危機を感じ取っている。しかし、感じているだけで何もしようとはしない。誰もが滅亡の危機を感じているのに、誰も正面からこの問題を考えようとはしない。これは、実に奇妙な状態である。社会は、不気味な沈黙に押し包まれ、まるでその時が来るのを待ち望んでいるかの様である。いったい、どうしたと言うのか? なぜ誰も考えず、何もしようとしないのか?  
030502    
   それは、日々が平穏に過ぎてゆき、本能を直撃する様な現在形の危機圧力=生存圧力が殆ど働いていないからである。人類は、これまで五〇〇万年に亙って、過酷な自然圧力・外敵圧力に晒されて生きてきた。そして更に五五〇〇年前(縄文人は一七〇〇年前)、同類闘争の圧力が加わって以降は、集団を破壊した性闘争・私権闘争を私権の共認によって統合する事によって、それら生存圧力の全てを私権の強制圧力に変換させ、その私権の強制圧力を最大の活力源としてきた。つまり、誰もが私権の確保を第一義課題として生きてきた。とは言え、農業生産の時代はまだ自然圧力も働いていたし、頭を使うべき自らの生産基盤も持っていた。何より、藩や村落という共同体が強い力を持っており、それら集団の課題や規範に応えてゆかなければ、私権を確保することも維持することも出来なかった。従って、己の私権を超えた超越課題=考えなければならない課題はいくらでも残っていた。  
030503    
   しかし、市場社会になると、それらの共同体は悉く解体されて、私権を確保しさえすればそれだけで生存が保障される様になり、その結果、己の私権に関わること(異性の獲得や入試・就職や地位・職務)以外のことは、己の属する集団のことも社会のことも、何も考えなくなって終った。それでも、貧困の圧力が働いていた'70年までは、私権を確保する為に(賃上げや民主主義など)考えるべき社会課題は残っていた。しかし、貧困が消滅し、私権の確保が容易になると、文字通り(遊ぶこと以外)何も考えなくなって終った。  
030504    
   だが、よく考えてみれば、私権の強制圧力が衰弱したということは、長い間抑圧され続けてきた本源共認の再生可能性が開かれたということであり、本来ならその可能性に強く収束してゆく筈である。まして、滅亡の危機が迫っているとなれば、本来なら必死になって滅亡からの脱出口を考えている筈である。いったい、なぜ何もしようとせず、誰も考えようとしないのか? 全ては、私権にしか反応しない様に徹底して囲い込まれてきた結果である。私権(性権→占有権)を唯一絶対価値とし、私権に関わること以外のことは徹底して排除するその脳回路上では、私権が確保されている以上、もはや何の生存圧力=危機圧力も働かず、危機圧力が働かない以上、危機脱出に向かおうとする可能性収束力=新しい活力(何かをやろうとする気持ち)が生じない。同様に、本源収束の可能性が開かれても、私権にしか収束しない様に囲い込まれた脳回路は、自ら(=私権)と対立する本源意識を徹底して排除する。しかも、私権にしか収束しないこの脳回路自身は、私権の衰弱に応じて、際限なく自らの活力を衰弱させてゆく。こうして私権にしか反応しない脳回路は、私権が衰弱すると一切何も反応しなくなって終った。  
030505    
   かくして人類は、新しい可能性が開かれても何もしようとせず、滅亡の危機が目前に迫ってきても誰も考えようとせず、ただひたすら活力を衰弱させてゆくだけという状態に陥ってしまった。観念機能を命綱としてきた人類にとって、これは致命的である。観念機能が作動しなければ、人類は絶滅するしかない。だが、人類最大の危機が迫っているにも拘わらず、危機圧力が働かず、観念機能が作動しないというこの現状こそ、もはやいかなる言い逃れも通用しない、市場社会の絶対的欠陥を明示するものである。  
     
第四部:場の転換
 
    生存圧力から同類圧力へ    
040101    
  [生存圧力とは、自然圧力と外敵圧力。同類圧力とは、性闘争や期待・応望や同類闘争etc.同類間で生み出される全ての圧力、狭義には、期待・応望の共認圧力を指す。]  
    イ.人類500万年のパラダイム転換  
040102    
   女主導の支配共認は、反集団の自我に基づく思い込みの信仰共認(自我や私権や恋愛・自由・個人・人権etc.を唯一絶対とする信仰共認)であるが故に、人類を出口のない全面閉塞の袋小路に閉じ込めてゆく。まず第一にこの唯一信仰は、私権の獲得に結び付かない様な課題や外圧を全て捨象して終うので、際限なく環境を破壊し、肉体を破壊し、精神を破壊し、あるいは集団を破壊し、国家(財政)を破壊し続けてゆく。その結果、人類滅亡の危機が迫ってきたが、この唯一信仰は、己の私権とは無縁な滅亡の危機という問題をも捨象して終うので、誰も滅亡対策を真剣に考えていない。第二にこの唯一信仰は、滅亡問題や本源共認など、私権信仰に対立するor 都合の悪い課題や認識は徹底的に排斥してゆくので、私権や恋愛・自由・個人・人権に替わる新たな認識→共認が全く形成されない。その結果、人類の社会共認はこの唯一信仰一色に染め上げられ、新しい可能性や活力が何も生まれて来ない。しかも第三に、その様に人々の意識を私権信仰の中に囲い込みながら、私権圧力の衰弱に応じて労働活力や関係耐力の衰弱、あるいは性欠乏・物的欠乏の衰弱etc.当の私権活力は衰弱する一方である。かくして、性権力とその支配共認=囲い込み共認は、人類を全面閉塞の牢獄に閉じ込めて終った。それは同時に、性権力とその支配共認自身が、全面閉塞状態に陥ったことを意味する。今や人々は、支配共認に囚われた牢獄の中で、ただじっと死を待っているだけである。  
040103    
   だが、この現実を冷静に直視すれば(つまり、囲いの外から見つめれば)、簡単な事実が見えてくる。即ち、人類を閉じ込め、出口を塞いでいる(そして破局→滅亡に追い込んでゆく)のは、唯一絶対の支配共認という、頭の中に巣くう観念に過ぎない。人類は、単に支配共認=囲い込み共認という自我に基づく観念信仰の牢獄に囚われているだけである。それが観念に過ぎないなら、人類に突破できない筈はない。確かに、自身以外の全てを排除する自我の唯一絶対信仰の余りの偏狭さと頑固さや、その根をなす集団否定の性的自我の根深さに立ち竦みor 絶望的になっている人は多い。だが、絶望する必要も竦む必要も全くない。なぜなら、この支配共認=囲い込み共認は、放っておいてもあと数年で経済大破局によって爆破され、全面的に砕け散って終うからである。だから、それまでに支配共認を根底から覆す、新たな理論パラダイムが構築されなければならない。もし、新たな理論が構築されないまま大破局に突入すれば、人類は共認統合を形成することができないまま、全ての秩序を破壊して滅亡して終うからである。  
040104    
   もちろん、支配共認に替わる新たな理論パラダイムの構築は難課題であり、ましてそれに基づく新たな統合共認の形成は超難課題である。しかし、可能性はある。何よりもまず、人類の進むべき道は、既にほぼ明らかである。ここまでの人類史を総括すれば、人類を滅亡に導いた(少なくとも全面閉塞に陥らせた)根本原因が、性闘争を顕現させ、本源集団を破壊して終ったことにある(そして、その上に築かれた性の私的選択に基づく私権文明の全体が、その私的な性選択の必然として現在の支配共認を生み出し、その支配共認に囲い込まれて全面閉塞状態に陥り滅亡してゆくのだという)ことは、既に明らかであろう。だとすれば、人類の進むべき方向は『本源集団を再生し、集団規範の内部に性闘争を封印すること』、そして私権を廃棄したこの本源集団を原点として『本源集団が相互にネットワークで結ばれた共認社会を構築すること』であり、それ以外に人類を再生する道はない。  
040105    
   これは、単なる理想論ではない。もっと切迫した実践課題である。奇妙なことに、まだまだ私権の圧力が強固であった近代初期に、西洋で様々な理想論が出現した。そして私権が衰弱した今、理想論は全く出て来なくなった。それは、理想論の正体が支配共認の一部or 分派でしかなかったことを明瞭に物語っている。その証拠に、支配共認の根本パラダイムである性の私的選択の問題性を指摘した「理想論」は一つもなく、全てそれを当然の前提としている。西洋人は、その程度の「本源性」しか持ち合わせていないから、支配共認(架空観念)が全面的に行き詰まって終うと、もはや何も生み出せないのである。遥かに強い本源性を有する日本人には観念としての理想論など無用であり、ただその(本源性の)再生or 実現の為の事実≒構造の解明が必要なだけである。しかも事態は切迫しており、もし本源集団→共認社会の実現の方向へと早急に新たな社会共認を形成することが出来なければ、人類は滅亡する。  
040106    
   既に、本源共認を破壊し抑圧してきた私権の強制圧力は衰弱し、その支配共認は全面閉塞状態に陥って、衰弱死を待つばかりである。今や、本源集団・本源共認の再生を妨げるものは、死に体の支配共認以外に何もない。とりわけ、真っ先に私権の強制圧力を衰弱させ、唯一バブルの崩壊を経験している日本人には、(それも欠かせない条件だが)それ以上にもっと深い所で、大きな可能性が与えられている。一七〇〇年前まで、掠奪闘争に巻き込まれることなく純粋な原始文明を発展させてきた縄文人の心を受け継ぐ日本人には、つい戦前まで採集時代の総偶婚→夜這い婚が広く残り続けていた事が象徴している様に(注:婚姻制は、社会共認の最基底に位置する)、本源的な集団収束や共認収束がまだまだ強く、従って闘いや仲間を第一とする男原理や、そんな男の期待や役割に応合する女原理もまだ多少は残っている。従って、性権力が全面支配を強めてゆく時代の中にあっても、心の奥底に潜む本源回路が支配共認の囲いを突き破って、新たな思想を紡ぎ出す可能性を僅かに残している。少なくとも我々は、貧困が消滅し始める前後('75年頃)から支配共認に対峙して共同体=『類』を建設し、共同体の目で現実を直視し事実を追求し続けてきた。そして、支配共認に替わる本源共認の理論パラダイム(=倒錯観念とは全く異なる、事実認識の体系)を、かろうじて大破局の直前に、何とか作り上げた。他にも、支配共認と対峙して、全く新しいパラダイムを構築してきた人たちが、居る筈である。今や、人類の可能性はそこにしかない。  
040107    
   だが、もし人類が私権社会・市場社会とは全く異なる別の理想社会を構築したとしても、やはり生存圧力は大して働かないだろう。なぜなら、生存圧力(自然圧力や外敵圧力)を克服した直接の主役は、事実の認識→科学技術だからである。今後とも人類は、事実の認識→科学技術を進化させ、物的な生存圧力を克服し続けてゆくだろう。そこで、完全に行き詰まり、終焉の時を迎えた私権(性権→占有権)→市場拡大の支配共認など全て捨象して(頭の中から消し去って)、改めてサル以来の人類史の大きな流れの中で現代を捉え返せば、誰にでも分かる、実に簡単な事実が浮かび上がってくる。つまり、人類は、すでに物的な生存圧力をほぼ克服したのだ! これは、実に人類五〇〇万年の全史を覆す様な、場(パラダイム)の大転換である!  
040108    
   サル→人類が共認機能→観念機能を武器に進化してきた動物であり、その生存と進化の前提条件の一つであった物的生存圧力(自然圧力と外敵圧力)⇒物的生存(≒生産)課題をほぼ克服し得たのだとすれば、あるいは少なくとも動物的な生存圧力はもはや主要な活力源たり得ず、従って物的生産はもはや第一義課題たり得ないとしたら、残るのは同類圧力の活力源しかない。人類は、これまで五〇〇万年に亙って自然圧力・外敵圧力だけを対象とし(そして期待・応望の同類圧力を生命源として)、共認機能と観念機能を進化させてきた。そして五五〇〇年前(日本は二〇〇〇年前)、同類闘争圧力が加わるや否や、わずか数千年で、自然圧力・外敵圧力をほぼ克服してしまった。これから先、人類は同類圧力(同類闘争圧力も含む)を主活力源として、共認機能・観念機能を更に進化させてゆくしかない。元々サルは、同類圧力を主活力源として共認機能を進化させてきたのだから、それは基本的には充分に可能である。  
     
ロ.共認社会の生存圧力と同類圧力    
040201    
   もっとも、これまでサル・人類は、自然圧力・外敵圧力・縄張り闘争圧力などの動物的な生存圧力を前提として期待・応望の同類圧力=共認圧力を形成し、それを主活力源にして生存し、進化してきた。それに対して、物的な生存課題をほぼ克服した人類に、充分な同類圧力=共認圧力が形成されるのだろうかという疑問が湧く。しかし、その心配は無用である。  
040202    
   自然圧力・外敵圧力は、未来永劫に亙って働き続け、消滅することはない。第一に、科学技術の発達etc.によって物的生産の為の労働が、流通も含めて1/3 以下に縮小されたとしても、その縮小された物的生産課題は、日々の労働課題として残り続けている。第二に、現在でも環境破壊・肉体破壊をはじめ、深刻な自然圧力・外敵圧力は働き続けている。現在は、私権に関わる事にしか意識が向かわないので問題が捨象されているだけで、私権社会が消滅すれば、人々がこれまで目を逸らせてきたこれら人類的生存課題が、一気に顕在化されるだろう。第三に、現在、人類は地震さえ解明し切れていないが、未来的には氷河期・乾燥期の再来や太陽の衰弱や、更には宇宙の消滅etc.自然圧力は無限に存在する。また現在は、ガンやアトピーエイズさえ克服できていないが、人類の進化=変化に伴う新たな外敵圧力も無限に生成され続ける。  
040203    
   要するに、人類がほぼ克服し得たのは動物的(本能を直撃する様)な自然圧力・外敵圧力だけであって、本能では感取できない、しかし観念機能では認識or 予測できる人間的(超動物的)、かつ全人類的な自然課題・外敵課題は、未来永劫生まれ続ける。しかも、人類がそれらの課題の中の何をどれだけ重視するかは、人類の共認に委ねられている。つまり、全人類的生存課題→期待と応望(=追求・創造)→評価闘争=共認闘争→社会共認の形成、そしてその社会共認にとって重要な新たな人類的生存課題が更に追求され、その環が塗り重ねられてゆく。これが、同類圧力社会=共認社会の基本パラダイムである。  
040204    
   だが、圧力=課題はそれだけではない。人類にとって最も厄介な動物的課題、即ち性闘争・同類闘争をどう止揚するのかという課題が、(おそらく未来永劫に)残り続ける。しかし、物的・動物的な生存課題をほぼ克服した人類の性闘争・同類闘争は、もはや動物的な縄張り闘争ではあり得ない。では、動物的生存課題を克服した人類の性闘争・同類闘争は、どの様なものに成るのだろうか?  
040205    
   それに答える前に、「同類闘争」の中身が、既にこれまでも大きく変容して来た事に注目しておく必要がある。モグラや原猿の性闘争は、直接的には雌の獲得を目的とする(つまり、性情動を主エネルギーとする)縄張り闘争である。しかし、闘争共認によって闘争集団が形成され、その闘争集団の中に雌が組み込まれて終った為に、真猿の同類闘争では雌の獲得はもはや目的外となり、もっぱら縄張りの維持を目的とする縄張り闘争となる。つまり、雌(+縄張り)から、縄張りのみへと目的(=主回路)そのものが大きく変容し、切り換わっている。また人類も、六〇〇〇年前から三〇〇〇年前にかけて、性闘争から掠奪闘争へと同類闘争の中身を大きく変容させた(それは、原猿→真猿と基本的には同じ流れである)が、それらが国家に統合された後は、人類の同類闘争はもっぱら私権闘争に変容する(注:私権闘争とは、バラバラにされた個体の性闘争+縄張り闘争そのものであり、それは原猿というより、モグラそのものの位相である。つまり、私権時代とは、同類闘争が一気にモグラの段階まで後退して終った時代である。)  
040206    
   さて、本源集団を原点(単位)とする共認社会では、まず性闘争が集団の婚姻規範によって封印されて終うだろう。もちろん、そこには人類の歴史的総括である性闘争のタブーの共認も働いている。それは基本的に真猿の位相であるとも言えるが、(真猿の性闘争の封鎖は不充分で、しばしば破られるのに対して)期待・応望の充足=共認充足を最大の活力源とするが故に、その充足を妨げる自我や性闘争を封印してゆく共認社会は、むしろ性闘争を徹底して封印した極限時代や採集時代の人類の位相に近い。従ってそれは、ごく最近まで五〇〇万年に亙ってそうであった、人類にとって最も馴染み深い在り方である。  
040207    
   また、既に動物的な生存圧力を克服した共認社会では、人類的課題に対する期待・応望の同類圧力=共認圧力が解脱充足と並んで主活力源となり、人々の期待に応える政治や哲学や科学や芸術が主活動となる。そして、期待・応望を主活力源とするそれらの活動は、評価収束によって必然的に創造闘争=共認闘争の圧力を形成し、それが期待・応望の主活力を加圧する。つまり、共認社会の同類闘争は、人類的課題に応える創造競争=共認闘争となる。(政治であれ哲学であれ科学であれ芸術であれ、提起された認識は共認の獲得を目的としており、最終的には社会共認となることを目指しているので、創造競争は本質的には共認闘争である。)但し、あくまでも人々の期待に対する応望が主目的であって、闘争が主目的なのではない。闘争圧力は、評価収束によって期待・応望から必然的に派生する期待・応望の強化圧力であり、それによって人類的課題に対する期待・応望の活力は、極めて強力なエネルギーを持つことになる。  
040208    
   人類的課題に対する期待と応望を主活力源にして創造活動を営み、評価収束による創造競争=共認闘争(=同類闘争)によって圧力=活力を高め、その同類闘争を同じ評価収束⇒評価共認によって統合する社会、これは原始人には夢想だにできなかった社会である。にも拘わらず、同類圧力=共認圧力を生命源とする社会であるという根本パラダイムは、極限時代と同じである。ただ人類は、動物的な生存圧力の場を超えて、超動物的な同類圧力=共認圧力の場へ移行する段階を迎えただけである。それは、共認動物が到達するべくして到達した必然的世界であり、実は滅亡の危機に瀕した今こそ、動物的限界を引きずっていた前史が終わり、真の人類史が始まる、その起点となる時なのである。  
     
ハ.場の転換(意識下の活力転換)    
040301    
   科学技術によって自然・外敵圧力をほぼ克服した人類には、もはや本能を刺激し続ける様な物的な生存圧力は、僅かしか働かない。従って人類は、物的な生存圧力を活力源として存在し続けることが、既に出来ない状態にある。人類にとって生存圧力が無効だとしたら(少なくとも主圧力たり得ないとしたら)、残る圧力は同類圧力=共認圧力しかない。つまり人類は、生存圧力の場から同類圧力の場へ、存在の場を大転換しなければならない段階を迎えたのである。  
040302    
   にも拘わらず、この決定的なパラダイム転換の事実に、誰も気付いていない。誰もが潜在意識で感じ取ってはいるが、明確な概念として『生存圧力から同類圧力への場の移行』を確認できた者はいない。大学という温室に逃げ込んで殆ど現実の圧力を受けず、専ら欺瞞観念を弄ぶだけでまともに現実→事実を追求して来なかった大多数の人文学者は、殆ど現実→事実を知らない。学者以外の小説家や評論家やマスコミは、売文で身を立てている以上、主要には幻想観念に磨きをかける方向にしか思考が向かわない。そして官僚や経済人は、仕事に追われてそもそも物を考える時間がない。要するに支配階級(注:自然科学者は、生産階級であって支配階級ではない)は、ごく少数の例外を除いて誰も己の存在をかけて現実を直視し、本気になって事実を解明しようとはして来なかった。従って、欺瞞観念に浸り切った支配階級やその支配共認に染脳され続けてきた大衆は、未だに『同類闘争』という概念も、『共認』という概念も、何も知らない。それでは『場の大転換』を、見抜ける訳がない。もちろんそれらは、そうと教えられれば誰でも確認できる、簡単な事実に過ぎない。それが人類固有の観念機能の凄さであり、誰かが(たった一人でも良い)可能性のある事実を発見できれば、その事実は忽ち共認されて万人のものとなる。

 繰り返すが、人類は既に同類圧力によって活力を生み出すしかない状態にあり、かつそれは既に実現可能な状況にある。ただ、誰もそれに気付かず、衰弱する一方の生存圧力→私権圧力に依拠したままでいるので、全ての活力が衰弱する一方なのである。だが、意識下(観念回路の奥にある共認回路や本能回路)では、既に 『活力の転換』が始まっている。本源価値(異性や仲間や集団との共認充足や自然との本能充足)を破壊し、抑圧してきた私権の強制圧力が衰弱した以上、抑圧されてきた本源的な共認欠乏や本能欠乏が活性化し、意識下の共認回路や本能回路が本源充足へと可能性収束してゆくのは、必然である。かくして、'70年貧困の消滅と共に始まったこの意識下の本源収束の潮流は、'90年私権の衰弱が誰の目にも明らかになるにつれて顕在化し、共認収束(親和収束・仲間収束)や自然収束の大潮流を形成しつつある。ボランティアや自然サークル・環境サークルの興隆は、この潮流の最も見え易い表層の現象である。また、要因は複雑だが、若者の男女関係の主軸が、性関係から親和(安心収束)関係へ移行したのも、中心にあるのはこの潮流である。もっと見え難いが、子供たちの世界でいじめが深刻化してきたのも、子供たちにとって仲間圧力が絶対的な場=パラダイムとなった結果である。
 
040303    
   だが、異性関係は自我や独占欲や好き嫌いに妨げられ、本当に心を開いた和合充足を得られないでいる。それどころか、男女同権や依存捨象(要するに性権力)に妨げられて、充足の中身が薄くなる一方である。仲間関係も自我や抜け駆けの性闘争や私権闘争に妨げられ、警戒心を解くことが出来ないので、本当に心を開いた仲間充足を得ることが出来ない。それに課題が(遊びしか)ないので、関係の中身が薄くなる一方である。それどころか、私権が衰弱して真っ先に関係耐力(自我・私権のせめぎ合いに耐え得る関係能力)が衰弱して終ったので、互いに自我を恐れて相手の心の中に踏み込めなくなり、異性関係や仲間関係が表層化(上辺だけ仲良し化)する一方である。また集団(企業)に至っては、私権統合の権力体のままであり、その上集団自身が強制的な利益競争の圧力に貫かれて終っているので、集団との共認充足は極めて困難な状態にある。要するに、本源収束の潮流の前には悉く私権(性権・占有権)第一の支配共認が立ち塞がり、その可能性収束を妨害し封鎖している。  
040304    
   それでも、私権が衰弱し本源充足の可能性が開かれた以上、意識下の本源収束(共認収束と自然収束)の潮流は成長し続ける。そして'90年以降、それは意識上に上り始め、人々(特に若者)は相手との期待・応望を第一とする表層観念的な規範共認に意識的に収束する段階まできた。強制圧力を脱した日本人(縄文人)の本源収束の大潮流は、既にそこまで来ているのである。だが、社会は支配共認一色に染め上げられ、それ以外の共認は唯一信仰への囲い込みによって排除されている。(だからこそ、右記の期待・応望を第一とする規範共認も、表層観念化せざるを得ないのである。)その上、支配共認の中身が権力共認・観念共認とも自我に基づく唯一信仰の共認であるが故に基本的には全く動かない。従って、意識下の本源収束は、自我や恋愛や自由や個人や権利を正当化した支配共認(囲い込み共認)によって意識上への出口を塞がれ、それ以上は先端収束できずに、ただ本源欠乏(共認欠乏と自然欠乏)だけが蓄積されてゆく。  
     
ニ.場と主体のズレ(圧力と活力源のズレ)    
040401    
 
 全ての生物は、場の圧力を活力源としている(そもそも外圧に最適反応する様に、本能そのものが作られている)。だから、自然圧力=本能活力源である。人類の場合は、主要な存在の場が共認圧力の場に移行しており、その共認圧力を主要な活力源にしている。だから、共認圧力=共認活力源である。ところが現代の支配共認は、自我に基づく思い込み収束(唯一絶対信仰)による極度な固定観念の共認なので、殆ど変化しない。従って、固定観念の共認が作り出す圧力も、急激には変化しない。ところが、この支配共認の中身は性闘争・私権闘争の本能につながっているので、意識下での場の変化に即応して活力が先行して変化してゆく。従って、変動期になると場(圧力)と主体(活力)の間に大きなズレが生じる。
 
040402    
   人類は、既に動物的な生存圧力を超えた同類圧力=共認圧力を活力源とするしかない状態にあり、現に動物的な生存圧力→私権圧力の衰弱という場の変化に反応して潜在意識(本能回路や共認回路)は本源収束を強め、自然充足や共認充足を主活力源にしようとしている(妨害物がなければ、とっくにしている)。ところが、顕在意識は支配共認一色に染脳されており、その支配共認は己に対立する本源意識を排斥し、意識下に封じ込め続ける。しかも、その支配共認は性闘争→私権闘争を基にして形成されているので意識下の本能回路に連なっており、その意識下の部分は、場の変化に反応してどんどん衰弱してゆく。要するに、支配共認が全ての桎梏(手かせ足かせ)となっており、その旧い共認圧力は一方では新たな共認形成を抑圧・封鎖しながら、他方その旧い共認圧力が作り出す筈の活力は、衰弱する一方である(従ってその共認圧力も、急激ではないが、相当に低下している)。従って、複雑なことに、新たな場と旧い主体のズレ(潜在意識と顕在意識の断層)、および旧い場と旧い主体のズレ(旧い共認圧力と旧い私権活力の断層)が相互に絡み合っており、この場と主体の間の二重のズレが、現代人に得体の知れない大きなストレスを負荷し、疲労を蓄積させてゆく。  
040403    
   まず第一に、既に私権追求(更には性の自由追求)の活力は衰弱する一方なのに、共認圧力は私権(性権・占有権)第一のままなので、さっぱりリアリティーがなく、ヤル気の起こらない私権課題に(それでも囲い込まれてそれを共認している以上、ましてそれが社会的共認圧力として働いている以上)否応なく立ち向かわなければならない。この状態は、人々に深刻な空焚き疲労・燃え尽き疲労を強いる。これは納得ずくの筈の囲い込み共認による強制的・全身的体罰であり、人類に対する拷問に近い心身損壊の残虐行為である。(もちろん、この角度から、子供や男たちの「人権擁護」が省みられたことは一度もない)。  
040404    
   更に第二に、既に本心(意識下の本能回路や共認回路)は、本源的な自然収束や共認(期待・応望)収束に向かっているのに、その大部分が囲い込みの支配共認に蓋されて意識上への出口を塞がれ、抑圧され続ける。この状態は、人々から可能性収束の芽を摘み取り、人々に無為感や無力感を植え付け、人々を深刻な無気力状態に追い詰めてゆく。これも、人類に対する拷問に等しい残虐行為である。  
040405    
   当然、この得体の知れない巨大なストレスは、癒し欠乏(=現代の不全感)を強めさせる。かくして男たちは(粗大ゴミ扱いされながら、それでもなお)家庭収束(※実態は個室収束である)を強め、遊興の場であるネオン街さえ寂れてゆく。前述した若い男女の安心収束も、若者の仲間収束も、この癒し収束が根になっている。大人だけではない。今や子供まで、何をするにも「疲れた」「どっこらしょ」を連発し、疲れ果てながら日々をやり過ごしているという有り様である。これが、囲い込みによって作られた「私の彼氏」「私の子供」の実態である。だが、事態はストレスを解消すれば済む様な、甘いものではない。場(=環境)に適応できなくなった生物は、絶滅するしかない。これは、外圧=環境と生き物を貫く大原則であって、人類ももちろん例外ではない。  
040406    
   人類の障害物は唯一つ、支配共認の固定回路だけである。人類は、既に同類圧力を主要な活力源とするしかない状態にあり、人々は、身(の基底部=本能回路と共認回路)を既に同類圧力=共認圧力の場に置いている。ただ、顕在意識だけが固定観念に収束する様に囲い込まれ、その欺瞞観念に囚われて相変わらずこの世は生存第一・私権第一で、そこ(生存圧力=私権圧力の場)で生きるしかないのだと、思い込まされているに過ぎない。だが、既に見てきた様に、生存第一→私権(性の自由と占有権)第一→市場第一→権利第一の支配共認では活力が衰弱するばかりであり、それどころかこのままでは間違いなく人類は滅亡する。今や、支配共認は人類を全面閉塞状態に閉じ込める牢獄でしかない。しかも、無期ではなく、もうすぐ人類を窒息死させるガス室となる。何度も指摘してきたが、特に致命的なのは、この支配共認に囚われている限り、誰も何も考えようとしないことである。だから、この支配共認の下では何も新しい認識が生まれず、従って、人類の新たな活力源となるべき共認闘争圧力(新たな同類闘争圧力の中枢となるべき圧力)が全く生じてこない。既に古い生存圧力は(囲い込み共認によって)衰弱し、新たな同類圧力=共認圧力は(囲い込み共認に封鎖されて)生じないとしたら、この囲い込み共認を爆破して終わない限り、人類は何をやる気力もないまま、ただ衰弱死を待つだけである。  
     

ホ.支配共認根絶の共認闘争    
040501    
 
 このままでは、人類は滅亡する。今、人類に求められているのは『生存圧力の場から同類圧力の場』への存在の場の転換であり、それは人類五〇〇万年の歴史を覆す様な、極めて根底的なパラダイムの転換である。にも拘わらず、人類の命綱たる共認が支配共認一色に染まったまま動かないので、活力が衰弱する一方であり、次の活力源たる新たな共認圧力も生まれてこない。邪心を嘘で塗り固めた支配共認を粉砕しない限り、人類に未来はない。今、人類が成すべき最も重要な課題は、支配共認を根底から覆し、新たな場に適応した新たな社会共認を形成してゆくことである。
 
040502    
   既に大多数の日本人は、時代や社会に対する閉塞や危機や不安をほぼ共認しており、更に過半の人が、何かが起きてくれることへの期待を潜在的に共認している。その背後には、前述した意識下での共認収束・自然収束の大潮流がある。また、今や支配階級と支配共認は完全に行き詰まっており、人々は政府や学者やマスコミの主張にウンザリし、少し意識の高い人なら、もはや彼らには何も期待しなくなっている。その深部では、性権力も既に自己崩壊過程に入っており、少し志のある男なら、女の要求にウンザリし、もはや自我女には何も期待しなくなりつつある。この様に、支配共認が形骸化して力を失い、時代閉塞を打ち破る新たな理論と運動が広く期待されているとしたら(現在それはなお、潜在的な期待圧力であるが)、新たな社会共認を形成してゆく土壌は、既に充分に出来ている。  
040503    
   生存圧力(自然圧力や外敵圧力)は、向こうからやってくる圧力であった。しかし、共認圧力は、期待と応望によって自分たちが作り出す圧力である。例えば解脱共認は、先ず自分から心を開いて相手に期待し応望しようとしない限り、決して形成されない。闘争共認も同じであって、先ず自分から期待し提起し応望しない限り、決して形成されない。従って、何事もまず自分から期待し応望してゆかない限り、同類圧力=共認圧力は形成されてゆかない。本当は期待しているのに、思い通りにならないとすぐに自我収束して「あんな葡萄は酸っぱいに決まっている」と相手を否定し、自分で自分の心を閉ざして期待することを止めて終えば、共認充足は得られず、そのぶんだけ自らの活力を低下させてゆく。既に新たな活力源は、同類圧力⇒期待・応望の共認充足しかない。だとすれば、何よりもまず最大の活力源としての『同類』と『期待・応望』の大切さを心に刻み、支配共認に逆らって意識的にでも心を開き、期待にフタをしないことが決定的に重要になる。  
040504    
   期待と応望の視座を更に広げて共認社会を展望すれば、そこでは全人類的課題が有る限り、人々の期待と応望が作り出す同類圧力=共認圧力は不滅である。だが考えてみれば、今現在、人類が直面している人類滅亡という課題以上に大きな人類的課題は、無い。また、支配共認を打倒し、新たな共認を形成してゆく共認闘争圧力以上に強力な同類圧力=共認圧力は、無い。動物的な生存課題をほぼ克服した人類が、これから先生きてゆく共認圧力の場は、人類滅亡という極限的な人類的課題に応え、悪性腫瘍と化した支配共認を根絶して、新たな社会共認を形成しようとする共認闘争によって、生み出されるのである。  
040505    
    経済破局を引き金としてその数年後に始まる殺し合いを阻止し、人類本来の共認社会を実現できるか否かは、最初の共認闘争圧力を作り出せるか否かにかかっている。もちろん、大破局に突入し、強烈な生存圧力に晒されれば、黙っていても人々は立ち上がり、殺し合いを始めるだろう。だがそれでは(たとえ何%かが生き残ったとしても)、旧時代に戻るだけである。我々の運動が次の人類史を切り拓くものであるとすれば、あくまでも破局の生存圧力が働く前に、共認闘争による新たな共認圧力が生み出されなければならない。  
040506    
   新たな共認形成は、屈することなく支配共認と対峙して現実を直視(⇒事実を追求)し続け、それ故にいち早く滅亡の危機を捉えて、社会を根底から変革する新たな認識パラダイムを構築し得た者が、それを社会に提起することから始まる。もし、その認識が人々の期待に応え得るものであり、とりあえず数%の共鳴を得ることが出来れば、それは共認上の乱を呼び起こし、共認闘争圧力を生み出すことが出来るだろう。もちろん、この凄絶な共認闘争の後には、人々を否応無く従わせてきた性権力や占有権力などの権力は本源集団の内部で解体され、権力によって強制されることなく主体的に人々の期待に応える政治や哲学や科学や芸術の創造競争(本質的には共認の獲得・形成を目指す共認闘争)の圧力が、主要な共認圧力となって人類の存在の場を形成する。  
040507    
   人類の存続と再生をかけて我々が今から開始する、共認闘争が生み出す圧力こそ、生存圧力に代わる同類圧力=共認圧力の原点となるものであり、人類が求める新たな活力の源流となるものである。支配共認根絶の共認闘争は、全ゆる点で次の人類社会=共認社会を象徴するその縮図であり、この共認闘争を担う共認ネットワークは、そのまま共認社会の原型となり、更にそのまま共認社会の基軸(統合機関)となるだろう。  
040508    
   我々の提起が、どこまでの共認闘争圧力を作り出せるかは、実践してみなければ分からない。新たな共認圧力は、新たな認識パラダイムを構築し得た者が、敢えて共認上の乱を興すことによってしか、形成されてゆかないが、正直なところ、それが我々であるのかどうかは大いに疑問である。言うまでもなく、それは我々でなくても、答えを見付けた人なら誰でも良い。それは天のみが知るところである。しかし、これまでのところ、どこからも提起はなく、何の運動も興っては来なかった。しかも、事態は切迫している。とすれば、我々が共認上の乱を興すしかない。成るか成らないかは、誰にも分からない。しかし、可能性がそれ以外になく、かつそこに僅かでも可能性があれば、それは必然となる。それが、実現の原理である。  
     

 
  ヘ.秩序収束⇒規範・制度の共認圧力と政権闘争  
040601    
   もちろん、共認闘争は新たな圧力=活力の核であって、核だけで必要な圧力=活力の全てが形成できる訳ではない。支配共認の背後には商品市場←性市場が存在しており、それらを封鎖して終わない限り、自我・私権(性権・占有権)は衰弱しながらも発生し続ける。そうである限り、人々の頭の中に巣喰う自我・私権意識がそれと対立する本源意識を排除し続け、本源的な共認圧力がなかなか肉体的な活力源に成ってゆかないことになる。では、性市場・商品市場を縮小し封鎖してゆく為には、どこに楔を打ち込むのが最も有効か?  
040602    
   性闘争の場としての性市場は、(その定義に従えば)モグラ以来、原初的・本能的に存在している。しかし、共認動物の性闘争→性市場は性闘争=縄張り闘争の本能のままに在るのではない。逆に性闘争本能を止揚→規制する秩序収束の共認圧力が恒常的に働いており、共認された権力と制度が、性闘争や性市場の在り方を絶対的に規定している。商品市場ももちろんそうであって、私権闘争を止揚→規制する権力と制度によって、私権闘争や商品市場の在り方は絶対的に規定されている。性市場は、(性闘争本能をそこに収束させた)性的自我に基づく否も応もない性権力の共認をはじめ、それを保障する私権制度やそれに付帯する性幻想や恋愛観念などの共認が作り出した圧力の場であり、商品市場は(縄張り闘争本能をそこに収束させた)自我に基づく否も応もない占有権力の共認をはじめ、それを保障する私有制度やそれに付帯する個人や自由や豊かさ追求の共認が作り出した圧力の場である。つまり、性市場や商品市場は、性闘争を下敷きにした自我闘争と、それを止揚した権力(性権→占有権)およびそれを保障する私権制度、およびそれらを正当化する欺瞞観念の共認によって作られたものである。  
040603    
   これら秩序収束の共認圧力(権力と制度と観念の共認圧力)に備わる力の絶対性は、例えば徴税制度が制定されている限り(払わなければ投獄されるという、暴力装置つきで)否も応もなく税を収奪されるとか、学校制度が制定された以上、否応なく学校に行かなければならないとか、身近に至る所で感じられる所であるが、その絶対的な力は、権力によっても形成されるが、実はそれ以前に共認圧力によって形成されている。たとえ真猿や人類私権時代の性闘争・私権闘争の様に出発点は性闘争・私権闘争⇒力による制圧であったとしても、その背後には、絶えざる闘争と破壊には耐えられずに安定収束する生き物全般を貫く摂理が働いており、それ故に共認動物も闘争よりも制圧を支持し、性闘争・私権闘争を制圧した力の序列を共認したのである。この序列共認は、皆が求める安定⇒秩序維持の為の共認であり、(同時に共認された序列闘争の様式に則って、順位の上昇を図ることはできても)その序列規範(≒制度)そのものを破壊することは誰にも(例えば、その私権闘争の制覇力をもってしても)出来ない。まして人類史の大部分を占める極限時代や採集時代には、この秩序収束の共認圧力によって性闘争・私権闘争は完全に封印され、秩序維持の為の集中婚規範=制度や総偶婚規範=制度をはじめ、様々な規範・制度の共認圧力が絶対的な力として働いている。  
040604    
   この絶対的な力は、絶えざる闘争と破壊を回避しようとする根源本能(適応本能や危機逃避本能)を下敷きにした安定収束⇒秩序収束⇒規範収束によって与えられており、その秩序収束力⇒規範共認圧力は、危機時には解脱収束力⇒解脱共認圧力をも凌ぐ絶対的な圧力の場を形成する。そして、この秩序収束⇒規範(制度)共認の圧力こそが、サル・人類の恒常的な存在の場を形成している。その場(圧力)の中では、たとえ性闘争や私権闘争が発生し、それ自体は力によってしか制圧できないとしても、その制覇力の序列共認が形成されて性闘争・私権闘争をくるみ込み、絶えざる闘争と破壊を回避してゆく。従って、規範(制度)共認の圧力=場こそが、権力をも包摂して終う、より包摂的な場(圧力の場)なのである。  
040605    
   人類において、秩序収束⇒規範・制度の共認圧力は、それほどに絶対的である。当然、規範や制度が人々の意識≒価値観を規定する力も、ほぼ絶対的である。従って、私婚制や私有制をはじめ、私権法制がそっくりそのまま残っている限り、性闘争・私権闘争は発生し続け、従って性市場・商品市場は蔓延り続ける。そうである限り、認識転換は極めて困難となる。現に我々(『類』)が経験している様に、たとえ理論を共認し認識転換したとしても、現実生活の全てが個人を主体とし、個人に性権や占有権や参政権を与える法制度の下にある限り、法制に規定されて肉体的次元から自我や私権意識が発現し続ける。従って、新たな共認がなかなか現実の力とならず、従って肉体的な活力源に成ってゆかない。とりわけ性=婚姻を私的な選択に委ねる規範・制度の下に在る限り、集団破壊の性的自我や私権収束が至る所で顕現し、そうである限り、本源的な共認圧力=活力源が現実化しない。  
040606    
   要するに、人類の新たな活力源=同類圧力の場を形成する為には、認識の共認という意味での狭義の共認圧力だけでは不充分なのであって、その認識の共認が秩序収束力に基づく本源的な規範・制度の共認圧力に変換されて初めて、絶対的な(当然、現実的・肉体的な)活力源=同類圧力の場が実現する。従って、まずは参政権を手始めに、最終的には占有権や性権(選択権)に至るまで、それらの主体を個人から集団に移行させ、私権法制を全面解体して本源法制を確立してゆくことが不可欠となる。逆に言えば、既に生命力を失った自我・私権が未だに生成され続け、形骸化した性市場・商品市場が未だに生き長らえているのは、秩序収束力に基づく(しかし現状、それに替わるものがない)私権法制の共認圧力という人工呼吸装置によってであり(実際、それに替わるものがないのにそれを破壊すれば、秩序が崩壊=滅亡する)、私権法制に替わる本源法制の共認圧力が働き始めれば、自我・私権や性市場・商品市場など一気に吹き飛び、雲散霧消して終うに違いない。  
040607    
   さて、もともと本源集団を破壊した性闘争→掠奪闘争を止揚したのは、私権統合国家であり、それ以降、性闘争→私権闘争を統合し、私権(性権→占有権)の共認を核とする様々な法制度を作ってきた国家(国会)こそ、性を私的選択に任せる性闘争のパラダイムを含め、性闘争・私権闘争の全てを包摂し、その在り様を規定している全ての要である。従って、自我・私権を廃棄し、性市場・商品市場を縮小→封鎖する為に不可欠かつ最も有効な場は、私権統合国家そのものである。つまり、本源的な共認圧力=新たな活力を現実化する為に我々が楔を打ち込むべき場は、国家である。  
040608    
   実際、国家は性闘争・私権闘争の在り様(私的な性関係や性権・占有権や一対婚や自由な性)を絶対的に規定しており、それらが生み出した性市場→商品市場をも規定している全ての要=社会的な秩序収束の要である。従って、秩序収束の頂点に立つ国家権力さえ掌握すれば、その絶対的な秩序収束力=規範・制度の共認圧力によって、自我・私権や性市場・商品市場などどうにでもなる。従って、新たな共認圧力を現実の力=肉体的な活力源として固めてゆく為には、政権の奪取が不可欠である。今や、民主国家(国会)は社会共認に従う存在であり、また、本来国会は共認社会を統合する共認ネットワークの頂点に位置すべき機関である。だから、共認社会の実現を目指す運動が国家権力を掌握することに、(その権力を破棄することさえ出来れば)大きな矛盾はない。もちろん、殺し合いを阻止する為には、事実に立脚した可能性のある理論とそれに基づく正しい施策が不可欠であり、その為にも政権の交替が必要なことは言うまでもない。従って我々の提起する共認闘争は、必然的に新政権の樹立を目指す政権闘争となる。おそらく、共認闘争を担う共認ネットワークを母胎にして、新政権を目指す新政党が結成されることになるだろう。  
     
 
  ト.本源集団の再生  
040701    
   民主国家は、既に社会共認に従う一個の共認体となっている。しかしそれは、共認動物が棲息する場である以上、当然のことなのであって、共認動物が形成する集団は、国家であれ企業であれ、当然全て共認統合体である。その意味で、本来的(=潜在的)には、国家は私権闘争の統合体である以前に、何よりも国民の共認体である。ただ、性闘争・自我闘争を基底パラダイムとする集団は、それを制覇した力の共認=否応のない権力の共認を基軸とするしかなく、そこではとうてい仲間同士の共認によって集団が形成されているとは感じられないので、共認体ではなく権力体として意識されることになる。実際、それは性闘争や自我を封印してきた本源集団から大きく逸脱しており、共認統合体と言うより権力統合体と呼ぶ方が適わしい。しかし、権力の共認を基軸とした統合体であるとは言え、それでも広義には、秩序収束を基盤にした共認によって統合された共認統合体なのであって、実際、国家や企業は支配共認をはじめ至る所で形成される様々な共認によって統合されているのである。  
040702    
   しかも、私権圧力が衰弱し共認圧力が強まってゆくにつれて、国家の本質はますます私権統合体から共認統合体へと変質してゆく。今後、占有権力に続いて性権力が衰弱すれば、国家は一気に共認統合体へと近づくだろう。しかし、性闘争・自我闘争を基底パラダイムとしている限り、何らかの権力の共認を基軸とするしかなく、それでは決定的な限界がある。要するに、超肥大集団とバラバラの個体という性闘争・私権闘争のパラダイムのままでは、国家は権力共認→支配共認の統合体でしか在り得ず、それでは人類は滅亡する。国家が真の共認統合体となる為には、何よりも本源集団の再生が不可欠であり、その上でそれら本源集団を原点とする共認ネットワークの構築が不可欠である。  
040703    
   国家と同様に企業も、本来的(=潜在的)には、市場で利益追求に明け暮れる存在である以前に、何よりも一個の生産体であり、更にそれ以前に一個の共認集団である。(現代でも、思想の自由、結社の自由は、民主主義の大前提として表向きは共認されている。)もっとも、絶対的な私権の強制圧力が働いていた頃は、企業は何よりも先ず利益を追求する存在で、「本来は、それ以前に一個の生産体であり、共認集団である」事を省みる余裕など殆どなかった。しかし、私権の強制圧力が衰弱し、(福祉や環境や贈収賄に対する)共認圧力が強まってゆくにつれ、企業も利益追求存在である以前に、社会の成員たる一生産体(or 集団)である事を慮らざるを得なくなってきた。もちろん、いかに私権圧力が衰弱しても権力体である限り、その成員に結社の自由などある訳もなく、「本来は、自分たちで作る自分たちの集団である」という自覚は乏しいが、しかしそのままでは活力も統合力も衰弱して企業として生き残ることが出来なくなるので、いずれは『自分たちの生きる場を自分たちで築く』共同体に転換してゆかざるを得ないだろう。しかも、それは類が実証した様に、認識を転換しさえすれば30年前でも実現できたことなのである。  
040704    
   企業を私権統合から共認統合に変えるのは決して不可能ではなく、むしろ簡単である。企業を合議制の共同体に変えれば良い。例えば、会議を中央席から同心円形に二重・三重に囲む形にし(当社では「劇場会議」と呼んでいる)、まずは取締役を中央に座らせ、外側に部課長たちが座って自由に発言させるという風に、取締役会をオープンにしてしまう。それが出来たら次は、部門ごとに部課長が中央に座り、外側に全社員が座って自由に発言するという風にして、完全にオープンな全員参加型の体制に変えてゆく。もちろん、その為には経理を含めた全情報を全社員に公開する必要がある(その為には、相当量のシステム化が必要になる)ことは言うまでもない。  
040705    
   近代社会は、民主主義を標榜してきた。だが、民主主義を口にするのなら、何よりもまず日々の仕事の場=生産体を、自分たちで動かすことのできる共同体に作り変えるのが、本当ではないのか。日々エネルギーの大半を費やして生産活動を営む、最も身近な集団を自分たちで動かすことのできない権力体のままにしておいて、はるかに遠い超肥大集団=国家(議会)に四年に一回投票するだけの、西洋式の民主主義など全くのごまかしである。人類が五〇〇万年に亙ってその中で育まれ進化してきた『自分たちで動かすことのできる生産体or 集団』は、人間にとって決して失ってはならない絶対的人権である。人々から生命の母胎とも言うべき本源集団を奪い盗り、何もできない様に去勢しておいて(現に、サラリーマンからは何の運動も生まれなかった)、支配共認に染められた民に「主権」を与えただけのまやかしの「主権」在民や、支配共認の枠内に矮小化された「人権」尊重へと国民を染脳するのは、むしろ犯罪的でさえある。  
040706    
   企業を合議制の共同体に変革しさえすれば、三年以内に『自分たちの生きる場を自分たちの手で作ってゆく』ことの大切さを、皆が体得してゆくだろう。言い換えれば、共認と集団の大切さが体得されてゆくだろう。それは、長い間権力によって封鎖されてきた、人類本来の豊かな共認充足の再生に他ならない。しかし、それだけではなお不充分である。私権=権力を破棄し、真の共認集団を形成する為には、究極のところ性闘争を封鎖することが不可欠である。性闘争・自我闘争を封鎖しない限り、それを制圧する権力の共認が必要になる(注:社会主義国の失敗の究極の原因は、そこにある。つまり、恋愛や一対婚を無自覚に肯定したままでいたが故に、必然的に権力が必要になり、また必然的に市場社会へと移行していったのである)。共認集団の共認圧力(集団規範)の内部に性闘争(共認の破壊物)を封鎖することができて初めて、共認圧力が全的な活力源となる土壌(仕組み)が出来上がり、その枠組みの中で活力=共認充足を高める必要から、必然的に自我も封印されてゆくだろう。それは、闘争と生殖を包摂した全的なる本源集団の再生に他ならない。そして、それは人類を正常な自然の摂理の中に戻し、人類を精神破壊から救い、滅亡を回避する為に不可欠な道程である。  
040707    
   もちろん、恋愛や一対婚をごく当然のものと信じ込んでいる自我女や迎合男たちの抵抗は、大きいだろう。だが、抵抗しても無駄である。そのままでは、人類は滅亡する。人類再生の可能性がそこ(性を集団の中に組み込んだ本源集団の再生)にしかない以上、人類はそこに収束してゆく。人類の敵=性権力者や迎合男たちは、ただ絶滅してゆくだけである。現に、彼ら電源の切れかかったロボットたちは、何もしようとせず、ただ廃棄処分される日をじっと待っているだけではないか。それが嫌なら、考えればいい、立ち上がればいい。共

ハ.私婚関係から私権の共認へ  

ハ.私婚関係から私権の共認へ    
020301    
   パンドラの箱を開け、性闘争=縄張り闘争を顕現させて終った以上、そして本源集団を解体し、本源共認を破壊して、モグラの性闘争=縄張り闘争の本能の次元まで後退して終った以上、人類は原猿と同じく雌雄解脱共認の形成から共認を再構築してゆくしかない。ところが、掠奪闘争によって人類の雌雄関係=婚姻関係は、一変して終った。本源集団が破壊され、性=婚姻の相手を定めていた婚姻規範が消滅して終った結果、性=婚姻は私的な選択に任されることになって終ったのである。性が、無政府的で本能的な性闘争に任されることに成ったとも言える。  
020302    
   しかし、性の私的な選択の場では、男女の性闘争本能の強弱差から、必然的に女の性に強い価値が生じる。しかも、闘いが無くなり生産基盤も安定してくると、男たちは解脱収束を強め、性欠乏を更に肥大させてゆく。他方、私的な婚姻関係は、女の性的自我をますます肥大させてゆく。そこで、本源集団=母系集団という安定した存在基盤を失い、性的自我に収束した女たちは、性を武器にして己の存在権を確保する方向に(つまり自ら性の商人となる方向に)、可能性収束=性的需要収束してゆく。そして、男たちを挑発しつつ性封鎖(供給制限)して、自分たちの性が「滅多なことでは売れない」「この上なく高価なものである」という性幻想を捏造する。何しろ女は、自分で自分を「至上のもの」と思い込んだら終いで、男たちは女の思い込みに基づくこの期待に応望しようとすれば、女と同じ様に「至上のものなんだ」と思い込み共認するしかない。こうして、性的商品価値(=性資本)の共認がいったん形成されると、それを手に入れる為に男は、女の好き嫌いやあれこれの要求にも迎合し、女に合わせて同じ様に思い込み共認してゆくしかなくなる。しかも、それは最基底の男女解脱共認であり、それを覆すことはもはや誰にも出来ない。  
020303    
   権力とは、否も応も無く人々を従わせることのできる力であるとすれば、女の性資本(性的商品価値)や選択権は、紛れもなく男たちを否応なく従わせることのできる権力=性権力であり、この権力を共認した以上、全ての男は否応なく女(性権力)に迎合せざるを得なくなる。この女の性権(性資本)こそ私権の原点を成すものである。もちろん、人々を否応無く従わせることの出来るもう一つの権力=男たちの武力との力関係によって、必ずしも常に性権力が絶対者に成る訳ではない。しかし、男たちが解脱(性)収束を強めてゆくにつれ、性権力は武力をも凌ぐ力を持つ様になってゆくのである。  
020304    
   決定的だったのは、勝ち進んできた掠奪部族が、最後に豊かな土地を手に入れ、農耕部族(小国家)に転身していった局面である。そこでは当初、土地は部族の共有物(=王の占有物)であり、(元)将や兵は役割分担として夫々の土地を管理しor 自ら農耕に当たっていた。しかし、各土地毎の役割分担は、忽ち管理者たちの占用権→占有権に変質してゆく。だが、闘争存在≒集団存在たる男たちだけなら、あくまでも役割分担として(必要なら配置替え=土地替えを行って)統合することも出来た筈であり(それが出来れば、その方が集団統合力は強くなる)、それが出来ずに占有権に変質していったのは、闘争=集団共認とは全く別の(むしろ、集団統合に対する遠心力・分解力ともなる)私的な男女解脱共認が強く働いた結果である。  
020305    
   もともと反(闘争)集団性が強く生殖⇒安定志向の強い女たちは、性を武器に己の存在権を安定確保すべく、私有要求を強めてゆく。他方、男たちは女の性権力に迎合せざるを得ず、従ってその要求にも迎合せざるを得ない。しかもそれは、女の期待に男が応える男女解脱共認の形となる。かくして、性権力に主導された男女解脱共認を通じて女たちの私有要求が貫徹された結果、占有権の共認が形成された。しかも、その私有要求⇒占有権の共認は雌雄解脱共認に基づくものであるが故に、社会の最基底の共認と成って確立されていった。但し、武力に基づく占有力そのものは闘って得られる男原理の力であり、それを占有権に換骨奪胎したのが性権力を武器とする女原理である。男は力、女は権、この男と女のせめぎ合いが、私権社会の在り様を、根底的に規定している。  
020306    
   私的な男女解脱共認を最基底の社会共認とし、その私的な婚姻関係を基底単位とする以上、私権(性権→占有権)に基づく私的婚姻=私有婚が社会の基底的な制度として共認されてゆくのは必然である。かくして、元々の遊牧部族の勇士嫁取り婚は、農耕に転身して以降は、私権(占有権)に基づく一夫多妻制へと変質していく。そして、戦争が無くなり戦死する男がいなくなると、世代交代の度に(解脱収束し性欠乏が肥大した)息子たちに土地を分割して与えざるを得ず、土地が小さくなると多数の妻を養うことができなくなる。従って、土地占有権に基づく一夫多妻制は、世代交代の度に土地が細分割されて、必然的にかつ急速に(3~4世代で)、一夫一妻制=一対婚に移行してゆく。更に、それ以上小さく分割できなくなると、次男以下は嫁をもらえなくなっていった。(農耕に転じなかった遊牧部族が一夫多妻のままであるのに較べて、農耕国家の一夫一妻は対象的に見えるが、どちらも私権に基づく私有婚、つまり、男が女を買い取り私有するという婚姻制の本質は同じである。)この、多妻から一妻への移行は、女の自我(独占欲)と性権力(好き嫌い、選択権)を決定的に増大させて終う。この様な女の性権力の肥大期が、小国家都市国家)の成立前後から統一国家(巨大帝国)の支配秩序が確立されるまで、三〇〇〇年から二〇〇〇年もの間、続いたのである。(注:日本人は、この様な時期を、殆ど経験していない。)  
020307    
   今日、一対婚はあたかも人類の始原からそうであったかの様に、思われている。あるいは、初めはそうではなかったとしても、ごく自然に、一対婚という「あるべき形」に移行してきたのだと信じられている。(例えば、サル学者の中には、何とか一対婚家族の萌芽を見つけようという偏見に満ちた問題意識を持ってサル集団を研究している者さえ、多数いる始末である。)だが、それは大きな誤りである。事実は全く逆であって、一対婚は女と男の性的邪心を源泉とする掠奪闘争の帰結として、掠奪国家によって作られた私権(性権と占有権)に基づく婚姻制であり、かつ世界中が自然に移行したのではなく、掠奪国家が人口の過半を占める採集部族をはじめ全ての平和な部族を皆殺しにし、あるいは支配することによって強制的に普遍化されていった婚姻制である。  
020308    
   なお、この点でも日本は特筆に値する文化基盤を持っている。日本人は長い間、採集部族として総偶婚(それも、最も原始的な兄妹総偶婚)を続け、一七〇〇年前に朝鮮からやってきた侵略部族に支配され統一国家が形成された後も、長い間総偶婚の流れを汲む夜這い婚を続けてきた(夜這い婚は、昭和30年頃まで一部で残っていた)。国家権力によって上から押し付けられた一対婚が庶民に定着するのは江戸時代中期からであり、現在までわずか三〇〇年間ぐらいしか経過していない。婚姻様式が社会の最基底に位置するものであることを考える時、この総偶婚のつい最近までの残存(or 一対婚の歴史の浅さ)は、日本人の心の底に残る縄文人的精神性を物語る貴重な文化基盤である。  
     
  ニ.私権の強制圧力と私権統合    
020401    
   ともあれ、人類は生存圧力に基づく同類闘争をいったん私権統合(国家)によって止揚した。しかし、それによって生存課題の全てが私権課題へと収束し、生存圧力の全てが私権圧力に姿を変えて終う事になる。(生存圧力は、絶えず本能(特に危機回路)を刺激し続けるが、私権圧力が直接に刺激し続けるのは自我回路であって、本能回路ではない。しかし、私権圧力は根源的にはモグラの性闘争=縄張り闘争の本能に発しており、私権刺激は間接的に性闘争=縄張り闘争本能を刺激するので、肉体的・本能的な圧力として作用する。)  
020402    
   私権(性権→占有権)の共認によって、社会の全ての財は私権(占有)の対象となり、人々は私権を確保しなければ生きてゆけなくなる。つまり、バラバラにされた個体の性闘争・私権闘争は、私権の共認を媒介として私権の強制圧力(それがないと生きてゆけない、否も応も無い絶対強制力)を作り出す。しかも、武力による収奪や資力による搾取によって作り出された貧困(=絶対的な生存圧力)は、私権の強制圧力を何倍にも強化し、絶対的なものにしてゆく。かくして国も、藩も、家も、個人も、全ての存在が私権(の強制圧力とそれへの収束)によって統合された私権統合の社会が形成された。そこでは、誰もが私権の獲得を目指して争い、互いに警戒心の塊となって、醜い自我に収束する(但し、絶対的な強制圧力が働いているので、近代の様に自我肥大はしない)。  
020403    
   この、私権闘争⇒私権の共認は、強制圧力を伴って私権序列の共認へと収束し、更に生涯固定の身分の共認へと収束する。それによって、私権闘争ははじめて統合され得たのであり、私権序列⇒身分序列こそ、私権統合の中枢を成すものである。かくして、財を収奪し、蓄積し、占有した少数の支配階級(持てる者≒消費階級)と、財=私権を奪われ、それ故に彼らの命に従うしかない多数の生産階級(持たざる者=働くしかない階級)との二大身分が、生涯→末代まで固定された身分社会が出来上がった。  
020404    
   ここでは、性闘争は(私権の共認によって)私権闘争へと収束し、更に私権闘争は身分序列へと収束する。従って、身分序列の私権統合が確立したことによって、一対婚も国家統合の基礎を成すものとして、身分序列に連なる家父長権(=占有権)の下に完全に組み込まれてゆく。そして、家父長によって娘の性の自由や選択権が封鎖された事によって性権力は衰退し、女たちは貞操や献身etc.一対婚規範(私権に基づくものではあるが、国家および家≒氏族の集団規範である)の下に収束して、ようやく集団に適応した存在に戻っていった。この期間が古代末から中世末まで、概ね二〇〇〇~一〇〇〇年ぐらい続いた。(注:日本は、概ね八〇〇年ぐらいである。)  
020405    
   ところで、私権社会では、言うまでもなく私権の確保が万人にとって第一義課題であるが、私権そのものは最終目的なのではない。最終目的は消費と遊興(平たく言えば遊び暮らすこと)であり、それこそが私権確保の目的である。集団を破壊した以上、もはや真の共認充足は不可能であり、私権が手に入れられるのは消費充足と遊興充足、そして究極的には支配充足しか無い。従って、私権社会では、最終目的たる「遊び暮らせる身分」を保障された消費・遊興階級こそが最終的な勝利階級であるが、その様な身分を手に入れる道は二つある。占有権力に基づく国家共認によって保障された身分(貴族や官吏や僧侶・学者や地主・資産家)と、性権力に基づく男女共認によって保障された身分(女と子供)である。これら遊興階級=勝利階級は、何れもその身分を権力によって保障されており、従って支配階級である。むしろ支配階級とは、権力に基づく共認によって支配or 遊興or 消費できる身分を保障された勝利階級であると定義した方が、分かり易い。  
   
ホ.性権力と占有権力のせめぎ合い    
020501    
   ここで、二つの支配階級が存在するのは、私権の強制圧力を主圧力とする占有権力の統合力が、絶対的な自己矛盾を孕んでいるからである。望み通りに統合が実現され、身分が盤石なものになると、彼ら自身には生存圧力が働かなくなり、忽ち生存課題が捨象されて解脱収束を強めてゆく。課題(≒闘争)捨象して解脱(≒性)収束した以上、闘争過程から生まれた占有権力より解脱過程から生まれる性権力の方が上位になってゆくのは、必然である。かくして、闘争捨象⇒解脱収束した男(=占有権力)の目的の位置に女(性的商品価値)が鎮座し、占有権力は性権力の下に従属するものとなる。逆に言えば、女(性権力)にとって男(占有権力)は、どうにでも懐柔できる下僕となる。だから、性権力 > 占有権力というパラダイムは、女の自我を肥大させ、依存収束を依存要求(それは依存捨象の自我収束に他ならない)に換骨奪胎して終う。そして、半ば無意識に男を懐柔し、操縦し、支配する様になる。現に5千年前、メソポタミアに初めて都市国家を建設したシュメール人は、その数百年後には早くも「山の神(=女房)」に抑えられてどうすることもできない男たちの嘆きの詩を石碑に刻んでいる。  
020502    
   占有権力は闘い取って得られる男原理の権力であり、性権力は男を懐柔することによって得られる女原理の権力であるが、両者の力関係は、生存圧力→私権圧力の強さによって大きく入れ替わる。私権圧力が絶対で私権の確保が困難な時には、女・子供は私権(家父長権)に従わざるを得ず、性の自由と性権力は封鎖される。しかし、身分によって私権の確保が保証された支配階級の内部では、彼らが解脱収束してゆくことによって、しばしば占有権力よりも性権力の方が強くなる。そして、現代の様に貧困が消滅し私権の確保が容易になると、占有力(男原理)よりも性権力(女原理)の方が強くなり、占有権力と男原理は去勢されて終う。  
020503    
   問題は、何れにしても本源集団が解体されたままであり、従って性が私的な選択に任されるというパラダイムは、不変だということである。確かに、生存圧力や闘争圧力が強い時には、女自身の性の自由は封鎖されてきた。初期掠奪集団では、男たちの武力によって女の性の自由は粉砕されたし、中世封建社会では、諸国が群立する緊張圧力の下、統合力を高める必要から不倫のタブーetc.宗教や規範の確立→身分制の確立が進み、女自身の性の自由は身分制に連なる家父長権(大きくは私権統合力)によって封鎖された。しかし、性=婚姻の相手を定めた集団規範が形成されない限り、たとえ女自身の性の自由を封鎖しても、性が私的な選択に任されるというパラダイムは変わっていない。このパラダイムの下では、性権力を女自身が持つか、家父長が持つかの違いがあるだけで、性が私的な選択に任されている以上、女に属する性権力(女の性的商品価値や女側の選択権)の共認が時と共に強まり、基底的な支配共認として絶対化されてゆくという流れは変わらない。  
020504    
   事実、掠奪集団も少し安定すると(まして第二世代の息子や娘たちの代になれば)、忽ち男の解脱収束が強まり、女自身の性権力が形成され始める。そして、それ(性の自由や選択権や商品価値)は、掠奪集団→都市国家(例えばメソポタミアシュメール人ユダヤ人)→古代帝国(例えばローマ人)を通じて強くなってゆく。封建社会では、規範(or 宗教)の確立etc.によって女自身の性の自由は封鎖されたが、しかし私婚(私的な選択に任された、私的な婚姻関係)の共認は規範の確立によってより強くなっており、従って性権(性的商品価値や選択権)は娘から家父長に移っただけで、性的商品価値や私的な選択権の共認は、むしろ強化されている。従って、これら私権規範によって私的な男女解脱共認はより強化され、それを基盤とする私権(占有権)の共認も、より絶対化されている。要するに、性権力を核とする男女解脱共認と占有権の共認は、掠奪時代・古代・中世を通じて一貫して強化され、絶対化されてきたのである。  
020505    
   そして、外圧が低下し、男たちが闘争捨象⇒解脱収束する度に、性権力が強化され、強化された性権力に基づく女主導の男女解脱共認が、社会の最基底の支配共認としてはびこっていった。それは、貴族をはじめ支配階級全般に及び、更に都市住民全般に及んでゆく。そして、いったん女原理の支配共認が芽生えると、それが一段と闘争捨象⇒解脱収束を強めさせるので、ますます女原理の支配共認が強くなってゆき、その悪循環で(破滅的な闘争圧力でも働かない限り)もはや歯止めが効かなくなる。事実、近世から現代までは一直線に、かつ止まる所を知らず性権力とその支配共認が肥大してゆく過程だったのである。  
020506    
   しかし、この支配共認は極めて見え難い。男たちは、この上なく高価な性を手に入れる為に自ら進んで女に迎合し、納得づくで女の要求を受け入れ、それを共認しているからである。だが、本当に共認しているのなら、後で嘆いたりしない。そもそも、男は男同士の闘いに勝つ事によって女を獲得してきた動物であり、女の思し召し(好き嫌い)に迎合共認すること自体が、男の本意に反している。男は、性を武器とする女の性封鎖によって否応無く、恐ろしく高価な性的商品価値を共認させられ、その意に反して女の私的選択権を共認させられて終ったのであり、その結果が際限のない性権力とその支配共認の肥大化である。  
020507    
   要するに誰もが当然のことと思い込んでいる好き嫌いや恋愛や男女の私的関係は、私権時代に固有の性的自我が作り出したものであり、そして反集団に根差すこの性的自我こそ、集団や国家を破壊してゆく元凶である。しかもこの悪魔は、常に美しい幻想で身を包み、その正体が極めて見え難い。だが、私権時代の男たちは、そうとも知らずに自らも性的自我(独占欲)の塊りと化して女の尻を追いかけまわしてきた(しかも頭では女を軽視し続けながら)。その結果が、今日の女支配=性権力支配を招いたのである。  
020508    
   もちろん、これらは全てパンドラの箱を開け、性闘争を顕現させて終った私権時代のみに固有の現象であって、集団規範によって性が律せられ、女たちが依存収束⇒首雄収束していた五〇〇万年に亙る人類本来の男女の在り様からは、著しく逸脱して終っており、その逸脱=性権力支配が、やがて人類を滅亡の淵に追い込むことになる。  
   
ヘ.支配共認=権力の共認と表層観念の共認    
020601    
   性権力に基づく男女解脱→役割共認であれ、武力→占有権力に基づく私権の共認→身分の共認であれ、支配階級は常に、権力に基づく共認を基底的な社会共認(国家共認)として形成し、その社会共認によって、自らの権力と身分を盤石なものとして確立する。権力に基づく共認が基底的な社会共認となるのは、私権闘争が自分以外は全て敵とする(共認の余地のない)自我と自我の激突であり、従って私権闘争は否も応もない絶対的な力によってしか制圧=止揚できないからである。それ故、私権闘争を制圧・止揚した権力の共認が、秩序形成の上で最基底の社会共認となる。性権力はもっと複雑だが、本質は同じである。占有権力も性権力も共に私権である事には変わりがなく、男と女の私権闘争において占有権力を性権力が上回った以上、当然、性権力の共認が占有権力の共認を凌いで最基底の社会共認となる。(もともと性闘争は、男同士の間の力=占有権力によって止揚されていたが、その占有権力を性権力が上回ると、性闘争も性権力によって止揚される様になる。)何れにしても、まず権力そのものたる「性権=性的商品価値と私的選択権」の共認や「占有権」の共認が強制的に(否応無く)形成され、それを核にして、男女役割の共認や身分の共認が形成されてゆく。この様な私権時代固有の社会共認を、支配共認と呼ぶ。支配共認という言葉には、それが権力の共認に基づいているという意味と、それ以外の認識が全て排除され共認内容がそれ一色に染め上げられて終うという、二重の意味が掛け合わされている。  
020602    
   支配共認はそれに止まらず、更にその権力を正当化する為に、無数の架空観念(幻想観念)を生み出し、それらをも社会共認としてゆく。つまり、肉体を直撃する様な深層の共認である性権力や占有権の共認の上に、本源価値を幻想観念化した本源的架空観念(古代宗教や近代思想)の共認を形成して支配共認の全体が構成されており、真実=深層の権力の共認を架空観念の表層共認がスッポリ包み込んでいる。もっと正確に言うと、深層の権力の共認は否応無しの絶対的共認≒不快な、認めたくない共認であり、そうであるが故に自己正当化できる様に幻想観念化されたのが表層共認である。従って、人々は心地よく酔わせてくれる架空観念に浸って、真実(=権力の共認)をあえて見ようとはしなくなる。  
020603    
   それは、サル・人類が解脱動物だからであり、とりわけ共認を唯一の武器として進化してきた人類は、異性や仲間や集団との共認充足なしには生きられない動物だからである。ところが、性闘争→私権闘争→私権統合によって本源集団は解体されて終ったので、失われた本源価値(異性や仲間や集団との共認充足)を幻想観念化して、頭の中で共認充足するしかなくなって終った。しかも、その様な幻想観念(古代宗教や近代思想)を創り出した思想家たちは、本源価値を破壊した、本源価値の対立物たる現実を否定し、反現実or 脱現実のベクトルに貫かれた非現実の地平に、本源価値を再生する幻想観念(「神」や「人間」や「自由・平等・博愛」やそれらを具有した「個人」や、それらを実現する「民主主義」)を構築した。従って、現実否定から出発し、現実から目を背らせた上で成立している古代宗教や近代思想は、初めから現実を変革できる筈もなく、現にそれら(例えば神の世界や自由・平等・博愛を具有した個人)が実現された例しがない。  
020604    
   それでも人間は共認充足なしには生きられず、頭の中で自己正当化をはじめとする様々な解脱充足を得る必要から、本源価値を幻想観念化した古代宗教や近代思想は、強く共認されていった。性権力や占有権力などの権力の共認こそが人々が肉体化している現実の共認である以上、古代宗教や近代思想はあくまでも頭の中だけの表層共認に過ぎず、突き詰めれば、脳内を充足させる為の解脱剤でしかない。しかし、それでも人々がそれを必要としており、それ故にそれが社会共認と成った以上、それは共認動物の社会統合上、頂点に君臨する事になる。従って、それら古代宗教や近代思想は社会統合上の絶大なる力を獲得し、僧侶や学者は支配階級の一員となる。支配階級から見れば、はじめから現実を変革する力などなく、むしろ私権の核を成す家族や恋愛を美化して人々を共認統合してくれる幻想観念は願ったり適ったりで、自分たちの身分を脅かさない限り有り難く利用すべきものであり、僧侶や学者の方は、私権(身分)を求める存在(深層意識)と現実を捨象した意識(表層観念)は初めから断絶しているので、彼らの主張が認められ、かつ高い身分が保障されるとなれば願ったり適ったりで、両者の思惑はピッタリ一致する。こうして、いったん支配階級の中に組み込まれた後は、それら宗教や思想は、ひたすら現状維持に貢献する支配共認に変質する。  
020605    
   以上からも明らかな様に、古代宗教と近代思想は、全く同じ現実捨象→幻想収束の認識パラダイムの産物であり、従ってその効用も同じである。少なくとも近代思想は、その現実捨象の認識パラダイムにおいて、宗教を一歩も超えていない。だから、近代思想は宗教であり、麻薬である。ただ、近代思想が古代宗教と異なるのは、次の点である。古代宗教が本源価値に立脚しているのに対して、近代思想は、一方では性的自我や抜け駆け性闘争(性市場)や私権闘争(商品市場)という現実に立脚し、もう一方では本源価値風の欺瞞観念に立脚している。近代思想が観念に立脚するのは、ムキ出しの自我や性闘争のままでは共認が成立しないからである。人々に共認される為には、醜い現実を捨象し、本源風に美化しなければならない。でなければ、思想として成り立たない。しかも、顕在意識は常に醜い現実の方を捨象し、美化された欺瞞観念に収束する。だから、近代思想はそれが集団破壊を究極の目的とする性的自我に基づくものであることも、その最大の価値たる自由な性=恋愛が規範破りの抜け駆け性闘争であることも、それら一切の真実を捨象し、真の現実から目を背らせる。むしろ、それら真の現実から目を背らせ、それを本源風の欺瞞観念で美化し正当化することによってその醜悪な現実を覆い隠すことこそが、近代思想の唯一の存在理由なのである。従って、その思想(欺瞞観念に収束した顕在意識)と現実(醜い自我や性闘争や私益闘争に収束した肉体存在)とは完全に断絶しており、もし思想と現実(意識と存在)を同じ地平で突き合わせれば、その思想は忽ち瓦解して終う。要するに近代思想は、一から十までその全てが人々を欺いて共認を形成する為の詐欺観念で構成されている。だから近代思想は、その全体が人々をペテンに嵌める為の詐欺思想である。  
   
 
    ト.性市場→商品市場の発生と繁殖    
020701    
   古代・中世・近世を通じて、また西洋でも東洋でも、その身分によって生存を保障され、生存圧力を捨象した支配階級は、忽ち解脱収束して性欠乏を肥大させ、宮廷サロン(=規範破りの自由な性市場)で遊興に明け暮れる只の消費階級に堕落してゆく。(従って、彼らは必然的に滅亡して新興勢力に取って代わられたが、その新興の支配階級も忽ち堕落していったので、性市場は絶えることなく続き、戦乱も繰り返し起こり続けた。)  
020702    
   この消費階級の主役は、宮廷サロン=規範破りの自由な性市場で性的商品価値=性権力を獲得した、支配階級の女たちである。国家に集積された巨大な富を消費する消費階級が存在する以上、その消費の場=性市場に、私権の獲得を狙う遊牧集団etc.が交易集団に姿を変えて、金・銀・宝石や毛皮・絹織物etc.を持って群がってくるのは、必然である。つまり、私権の強制圧力は、必然的に支配階級⇒堕落した消費階級を生み出し、自ら働く事なく遊興に明け暮れる消費階級は、その性市場を母胎にして、必然的に(私権の強制圧力に追い立てられて働くしかない)生産階級に商品市場を作らせる。ここで最も重要なことは、『市場の真の主は、市場の外にいる』という点である。市場の真の支配者は、国家や性市場の中に、支配階級=消費階級として存在しており、彼らは直接に市場の建設を担ったりはしない。市場の創出と拡大を主体的に担うのは、私権の強制圧力に追い立てられて働くしかない生産階級自身なのである!  
020703    
   更に中世末、ヨーロッパ半島や島国日本では、封建体制を統合する中央集権の体制を固めることができたことによって、各国の統合状態が安定する。そして、中央集権による安定した平和状態が二〇〇~三〇〇年続き、戦争圧力が著しく低下する。それに伴って闘争第一の男原理が衰退し、解脱収束→軟弱化が進んで、規範破りの性闘争(=恋愛)が勢いを得、自由な性市場が繁殖してゆく。近世には都市全域が性市場化し(例えばルネッサンス人間主義、その中心は性であり、その象徴が「ロミオとジュリエット」や「曾根崎心中」である)、人間主義恋愛至上主義に導かれたその巨大な性市場を母胎として、急速に交易市場が拡大していった。  
020704    
   市場拡大という新たな富の源泉を発見した国家(支配階級)は、自ら市場拡大へと可能性収束してゆく。とりわけ西欧列強は、南北アメリカ大陸・アジア大陸・アフリカ大陸の未開部族や後進民族を虐殺(アメリカでは皆殺しに)して世界中の富を掠奪し、掠奪した富を源泉にして市場を急拡大させる事に成功した。市場拡大競争は、生産性上昇への期待圧力を生み出すと共に、列強間の戦争圧力をも生み出し、両者あいまって(主要には戦争圧力が)科学技術の進展を促す。そして、科学技術の発展は更に市場拡大を促すという、拡大再生産を実現してゆく。もちろん、それら全てが私権闘争⇒私権の強制圧力(とりわけ貧困の圧力)を大前提としていることは言うまでもない。  
020705    
   また、性市場の猛烈な繁殖は、自由な性(=恋愛)の称揚から個人主義と自由・平等・博愛の思想を生み出し、それらを下敷きにした市場の拡大=商人や労働者の拡大は、旧支配階級を打倒する必要から、民主主義の思想を生み出した。それらに導かれて、近代社会=市場社会=工業生産社会=民主主義社会が形成されたが、しかし市場や工業生産や民主主義(という言葉)は、決して近代社会の真髄を語ってはいない。それら全ては、規範破りの自由な性市場の繁殖に基づいており、そこにこそ近代の真髄がある。即ち近代とは、近世にはじまる規範破りの性闘争→性市場がそのまま繁殖し続け、それにつれて性権力=女原理が、共認を始め社会を全面侵触→全面支配してゆく時代である。  
020706    
   そして、最も恐ろしいのは、武力闘争や身分序列が、基本的に力で目的を達成しようとする男の方法論(正攻法)なので、反撥を生み(活力を衰弱させることがなく)、問題が見え易い(対策を考えることが出来る)のに対して、私権の共認や市場の共認は性市場や男女解脱共認を母胎としており、従って基本的に懐柔して納得づくで目的を達成しようとする女の方法論(懐柔法)なので、反撥が生じず、問題が殆ど見えないという点である。哀れな生産階級は、私権を共認している以上、私権闘争をも主体化せざるを得ず、豊かさ要求を共認している以上、市場拡大や利益競争をも主体化せざるを得ず、かくして否も応もない疎外労働にひたすら明け暮れることになる。だが、「暑いのでマントを脱いだ」旅人の様に、それが自分の意思であり、自分自身であると思い込んでいるその「自分」は、支配階級=消費階級(根源的には邪心存在)によってそう思うべく仕組まれ、囲い込まれて作られた自分なのである。これは、実に大掛かりなペテンである。(そういえば、ヒトラーは、「嘘は大掛かりであればあるほどバレ難く、真実らしくなる」と言っていたが、「資本論」に全力を傾注し、市場の中に真の原因を求め続けたマルクスなどは、頭のテッペンからツマ先まで、完全にペテンの術中に嵌まった事になる。哀れ。そして何と恐ろしい。)  
     
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チ.性権力を正当化する欺瞞思想    
020802    
   性闘争=恋愛の主体は当然個人であり、その個人は、当然規範から自由でなければならない(何しろ規範破りの性闘争なのだから)。そこで、恋愛が至上のものとして共認され、自由な性市場が繁殖してゆくと、下司な迎合男(近世・近代の思想家)たちが、活力溢れる性市場に幻惑されて(何しろ、そこは社会の最基底の男女共認が形成される場である)、「個人こそ社会の原点であり」、「自由こそ最も大切な価値である」などと主張して、現実には性市場にしか実在しない、個人や自由を社会全体の原点や価値にスリ替え、この事実に反するとんでもない架空観念が性市場の繁殖と共に広く行き渡って、社会共認となって終った。こうなると、モテない男まで「我思う。故に我在り。」などと訳の分からないことを呟いて、個人主義自由主義に加担してゆく。言うまでもなく、性的自我こそ、人類を滅亡に導く邪心の源なのであって、それが人間存在にとって原点である根拠やましてや至上のものである根拠など、どこにも存在しない。同様に、「個人が原点である」根拠などどこにも存在しないし、「自由が最高である」根拠もどこにも存在しない。それどころか、それらの観念は悉く生命存在の摂理や人間存在の事実に反した嘘(or 幻想)であり、そこにあるのは邪心存在にとってはそう思い込んだ方が意識を統合し易いという自我の思い込み(=自我統合)だけで、事実に基づく根拠など一切無い。(考えてみれば、既にこの段階で、共認動物たる人類の滅亡は刻印されていたのである。)  
020803    
   但し、ここで「思想家」という者の特性に触れておく必要がある。近代思想を作ってきたのは、一般に現実に対する否定性(不安や不満)が強く、それ故に自我収束→観念収束の強い観念タイプの人間、もっとはっきり言えばかなり偏った人間である。従って近代思想には、常にどこか病的で虚弱な観念主義の臭いが付きまとっている。しかし、病的であれ何であれ、その観念が女の性的自我や社会的存在理由を正当化してくれる都合の良い観念でありさえすれば、それは共認され、支配共認となる。その様にして近代思想は形成され、共認されていったのである。  
020804    
   この様にして、女(と迎合男)たちが恋愛(性闘争)や性権力の共認を男女解脱共認=最基底の支配共認として確立した以上、自由主義個人主義をはじめ、全ての社会共認が女原理一色に染め上げられてゆくのは必然である。ところが、生殖存在たる女は元来、貯蔵や豊かさ志向etc.身の安定を求める傾向が強いが、他方の闘争集団への収束力は貧弱で、従って依存性が極めて強い。しかも性的自我の本質は、反集団性・反規範性に、つまりは反社会性にある。だから、集団や社会の為に何を成し得るかという発想は皆無で、専ら自分の為に社会は何を成すべきか(してくれるか)という発想しか出てこない。そんな存在が、役割規範を破棄して性的自我に収束すれば、『集団や社会をどうする』という視点など完全に欠落し、専ら集団や社会に対して、豊かさや安定や保障を要求するだけの要求の塊と化して終う。つまり、集団=自己(集団あっての自分)という自然に則した存在原理が、集団捨象の自我収束によって徹底的に排除され、あるのは他者否定と自己正当化の塊たる自我と要求だけとなる。  
020805    
   しかし、剥き出しの自我では人々に共認されない。社会に要求する以上、それがあたかも本源的要求であるかの様に見せかけなければならない。そこで、際限なく肥大してゆく反社会的な自我やそれに基づく要求を正当化する為に、もっともらしく幻想観念化した権利という欺瞞観念を捏造した。権利とは、集団捨象の自我→要求をもっともらしく見せかける為の架空観念に過ぎない。だから、近代思想が掲げる権利は、どれを取っても「この権利は絶対である」という根拠など全く何も無いのであって、あるのは己の自我・私権を貫徹する為の一方的な要求だけである。だからこそ、近代思想は権利だけを絶対的なものとして主張し、義務を欠落させているのである。その上、性市場を基盤に絶大なる性権力を手に入れたことによって、女たちの性的自我と、それに基づく豊かさ要求や保障要求は際限なく肥大してゆく。しかも、豊かさが実現されればされる程or 私権が保障されればされる程、性権力を抑圧する私権(占有権)の強制圧力が低下して、性権力は際限なく肥大してゆく。かくして、自我・私権の塊となって性権力の拡大に収束した女たちは、必然的に要求主義・権利主義の塊となる。  
020806    
   しかし、それらは全て人々を欺いて共認を形成する為の欺瞞観念なので、彼らは決して醜い自我の現実には触れないで、美化された幻想観念しか見せないし、見ようともしない。従って、彼らが「個人」とか、「自由」とか、「市場」とか言う時、それは常に現実ではなく、美化された欺瞞観念を指すことになる。つまり、彼らには現実そのものを直視することができない。もし現実を直視すれば、その欺瞞思想は忽ち瓦解して終う。従って、当然のことながら実現されたのは醜い自我(エゴ)の現実のほうだけで、現実離れした、その奇麗事の欺瞞観念が言葉通りに実現されたことは、一度もない。要するに近代思想とは、反集団・反共認の自我を本源風の欺瞞観念で塗り固めただけの代物であり、狼(エゴ)が正体を隠す為に被る羊の皮にすぎない。そこには一片の真理も事実もない。あるのは、ただ欺瞞(or 詐欺)観念だけである。中でも「恋愛」と「個人」と「人権」と「福祉」は、本源価値を踏襲しているかの様に装いながら、その実、中身をすっかり自我や権利に換骨奪胎し、本源価値を破壊してゆく極めて悪質な欺瞞観念である。これほど粗悪で悪質な「思想」は、人類史上に例がない。  
     
リ.性権力と市場主義・民主主義    
020901    
   既に見てきた様に、市場の真の支配者は性権力者=性本階級である。しかも、性本階級は要求するだけであって、現実に市場を拡大していったのは資本階級と生産階級である。この内、資本階級(貴族や地主や大商人。私権の共認によってその財=権力を保障された階級)は、その権力=財の拡大を市場拡大に委ねられており、市場拡大は性市場の主たる性権力者の思し召しに委ねられている。従って、資本階級(国家階級)は、性本階級(性権力者=女たち)の意に従わざるを得ない。資本もなく、私権の強制圧力に追い立てられて働くしかない生産階級が、資本階級の、従って性本階級の意に従わざるを得ないのは当然だが、それ以前に、彼らはそもそも性市場において性権力者の意に沿うべく完全に懐柔されて終っており、だからこそ進んで市場の囚人となった階級である。性権力者に迎合し、その思い込み共認によって囲い込まれた囚人は、もはや市場から出ることを許されず、市場の中でひたすら利益競争と疎外労働に励むしかない。  
020902    
   そもそも女王バチ(性的商品価値)に群がる働きバチ(生産者)という性市場のパラダイムを母胎にして、その上に物的商品価値⇒賃金労働という同じパラダイムを重ねたものが、商品市場である。従って、性市場(性本階級の要求)を母胎にして市場を拡大していった資本階級と生産階級は、性本階級の意に従わざるを得ないのであって、彼らが恋愛と市場拡大(市場主義)の共認に引き続いて、自由主義個人主義を錦の御旗として掲げたのは当然である。従って、重ねて言うまでもないが、自由・個人主義とは性闘争→性市場→市場拡大を正当化する為の欺瞞観念であり、突き詰めれば性権力を正当化し、拡大する為のイデオロギー以外の何物でもない。  
020903    
   しかし、性市場→商品市場を拡大するには、自由主義個人主義だけでは不充分である。資本階級が市場を拡大し、富を拡大する為には、邪魔な束縛(ex. 身分制や通行手形)を断ち切る為にも、有利な利権(税制や商権、更には財投や戦争利権)を手に入れる為にも、国家権力を掌中にする必要がある。しかも、資本階級は少数だが、バックには市場拡大を求める圧倒的な性本階級と、彼女らに懐柔された生産階級がいる。そこで資本階級が打ち出したのが、旧支配階級(身分制の王侯・貴族)を打倒する主権在民の主張、つまり民主主義である。そして、既に性市場で新たな権力を握っていた性本階級(と彼女らに迎合する生産階級)の支持を得て、資本階級のブルジョワ革命(市民革命)は成功する。確かに、民主主義は資本階級が打ち出したものであるが、しょせんそれも豊かさと性権力の拡大を要求する性権力者たちの手の平の上で踊らされたものでしかなかった事が、その後、次第に明らかになってゆく。  
020904    
   既に述べた様に、元々が依存存在で安定(保障)志向の強い女たちが、自我・私権の塊となって性権力を拡大してゆく時、性権力者たちは必然的に要求主義・権利主義の塊となる。もちろん、市場を拡大(=富を拡大)する為には、例えば搾取し過ぎて市場が恐慌(縮小過程)に陥るのを防がなければならず、その為には労働組合法(→賃上げ)etc.を認めざるを得ないし、あるいは市場拡大の為には財政支出の一環として福祉制度を拡充した方が得策である。しかし、資本階級が当初(目先の利益もあるが、それよりむしろ男原理から)それらに反対していた事は紛れも無い事実であり、その彼らが初めはしぶしぶ、今や積極的に人権主義や福祉主義を認めるに至ったのは、要求主義・権利主義の塊と化した性権力者たちの思し召し(専横とも言う)の故以外の何物でもない。  
020905    
   それに対して、民主主義・福祉主義をより強く要求したのは、支配階級ではなく、大衆の方であるという反論と現象事実がある。しかし、大衆と言ってもそれは市場の住人のことであり、市場の住人である以上、(支配階級発の)豊かさ追求⇒市場拡大を自己目的化せざるを得ないのは当然である。また、市場で生きてゆく以上、自らの私権要求を実現すべく民主主義を主張し、福祉主義を主張するのも当然である。更にまた、(支配階級と違って)市場で生きてゆくしかない以上、民主・福祉の要求が(支配階級より)切実になるのも当然である。つまり、より強く要求したからと言って、彼らが主役だという事にはならないのである。(もし本当に彼らが主役なら、とっくに理想社会が実現されている筈である。)  
020906    
   その証拠に、彼らはそもそも市場でしか生きてゆけない様に囲い込まれた市場の囚人であるという、より決定的な事実には何ら異を唱えず、盲目的に従っている。それは、性闘争→性権力→男女共認によって市場(=都市)で豊かな刺激に囲まれつつ、より豊かな生活を目指すことが理想だと思い込んで終っているからであるが、彼らが「それが自分だ」と強く思い込んでいるその目的意識そのものが、実は性権力者によってそう思うべく誘導され、囲い込まれて作られた意志なのである。  
020907    
   あるいは、所有税(ex. 地税)がわずか1%なのに、生産税(法人税)がどんどん高くなり、65%も収奪されるに至っているという事も、顕著な事例である。性本階級やその手先である資本階級(つまり、近代支配階級)にとって、大切なのは蓄積(財or 資本)であり、地税etc.所有税を殆どゼロにして法人税所得税を極端に重くし、生産者(経営者や労働者)から取れるだけ毟り取る様にしたのが彼らであり、(ごく少数の資本階級にそんな事が出来る訳がないので、)真犯人が性権力者たちである事は、疑問の余地がない。  
020908    
   要するに、市場社会の真の支配者は、性権力者である。その母胎を成す自由な性市場や男女解脱共認を通じて、男たちはどうにでも懐柔できる。だからこそ、全ての社会共認は、最終的に男女同権と福祉主義(換言すれば要求主義・権利主義)一色に染め上げられていったのである。  
     
 
第三部:市場時代
     
    イ.支配共認に従う民主国家    
030101    
   民主主義は、私権統合国家の核心部を、(全く実質を伴っていない、形式だけではあるが、)身分制から合議制に変えた。その意義は大きい。合議とは共認であり、国家は社会共認に従う存在となったのである。だが、合議制になったにも拘わらず、なぜ国家→社会は根底から変わらないのか? その答えは、既に明らかだろう。確かに、国家は社会共認に従っている。しかしその社会共認は、全て支配共認なのである。支配共認とは、強制的に(否応無く)形成された「性権力」や「占有権力」、つまり権力そのものの共認であり、それを基盤にして、権力者=支配階級が己の権力や身分を正当化し、維持する為に形成された架空観念(欺瞞観念)の共認である。人々は、その私権を共認し、自由な性=恋愛を共認し、市場拡大を共認し、自由や個人や権利を共認している。そうである限り、私権統合→性権力支配→市場拡大→権利拡大のパラダイムも変わらない。西洋の民主主義は、権力によって否応無く支配共認に染脳されて終った民に主権を与えただけである。あくまでも支配共認の枠の中での合議、これも大掛かりなペテンの一つである。  
030102    
   支配共認に従う存在である以上、民主国家は必然的に性本階級の意のままになってゆく。ところが、性権力者たちの要求は、単に旧支配階級を打倒し、身分制を解体するだけでは止まらなかった。性的自由の本質は、反集団・反規範にある。従って、性権力と市場の相互拡大が進むにつれて、性的自由を抑圧する村落共同体やそこでの集団規範や、更には一対婚規範(婚前交渉のタブーや不倫のタブー)さえもが、徹底的に解体されていった。だが、集団や規範の解体は、人類を致命的な袋小路に追い込んでゆくことになる。  
030103    
   人類の命綱たる共認は、解脱共認と闘争共認で構成されている。女原理の男女解脱共認と男原理の闘争・集団共認でバランスを取っていると言っても良い。確かに、不全課題に対応する解脱共認(中でも雌雄解脱共認)は共認機能の最基底に位置しているが、その上部には個体や集団を超えた超越課題に対応する闘争共認の世界が存在する。そして、自然や外敵や他国との闘争圧力が強くなればなるほど、それら超越課題に対応すべく、集団統合力が強まってゆく。この外圧→闘争→集団の世界は、基本的に闘争存在たる男原理の世界である。そして、農業生産の時代(ほぼ近代初期)までは、自然や他藩との闘争圧力がまだまだ強く働いており、それらの課題に対応する村落や藩などの集団の統合力もまだまだ強かった。つまり、女主導の男女解脱共認によってどれだけ強く性権や占有権に収束しようとも、決して捨象できない、男女解脱共認を超えた外圧と超越課題が存在していた。従って、いかに私権第一とは言え、何よりもまず国や藩や村落の集団課題や集団規範に正面から対応しなければ、私権を確保することも維持することも出来なかった。言い換えれば、己の私権を超えて、考えなければならない外圧や超越課題や集団規範が存在していた。  
030104    
   だが、反集団の性的自我を原動力とする性市場→商品市場が社会の隅々までをも覆い尽くし、全ての集団が解体されて終った結果、人々は文字通り私権さえ確保すれば生存が保障される様になり、己の私権に関わること以外は、己の属する集団のことも社会のことも何も考えなくなって終った。つまり、性権力によって人類は、己の私権にしか反応しない(それ以外のことには全く反応しない)様に完全に囲い込まれて終ったのである。それにしても、社会のことなど何も考えない様にしておいて、その上で投票させる「民主主義」とは、何なのだろうか。ここにも、西洋式の民主主義の欺瞞性が又一つ、如実に現れている。  
030105    
   村落共同体や集団規範の解体は、外圧・闘争・集団という男原理の全面崩壊でもあった。その結果、存在基盤を失った男たちはますます女に対する迎合を強め、それに伴って社会共認はますます女原理一色に染められてゆく。しかも、女は性的自我に立脚しており、そうである限り女が集団や社会に立脚することなどあり得ない。女たちが「社会」や「権利」を口にする時、常にそれは己の自我・私権を貫徹する為の欺瞞であり、全ては自己を正当化し人々を騙す為の架空観念であるに過ぎない。当然、女の思い込みと要求(性的自我や、性闘争=性市場や、豊かさ=市場拡大)を正当化する為に作られた近代思想も、全てが人々を騙しペテンに嵌める為の欺瞞観念であり、全てが事実に反する嘘である。実際、その欺瞞の仮面を剥がせば、「自由」も「個人」も「権利」も、全てその正体は自我・私権を貫徹する為の思い込みであり、思い込みであるが故に、これほど無根拠で、排他的で、暴力的な観念は他になく、これほど柔軟性のない(都合の悪いことは事実さえ受け入れない)救い様のない固定観念は他にない。  
030106    
   だが民主国家は、この支配共認に従わざるを得ない。つまり国家(自治体を含む)は、性権力(と迎合男)の要求に従わざるを得ない。そうして市場拡大や福祉要求に応え続けてきた結果、国家は七〇〇兆もの借金を抱え込んで終った。これはGDP、つまり国民が1年間働いて稼ぎ出す額を超えた金額である。既に、国家財政は完全に破綻し、今やこの赤字=借金をどう返済するのかを考えることさえ、支配階級を含め全員が放棄して終っている。この様に国家を蝕み、徹底的に集団を破壊してゆく要求主義・権利主義こそ、人類を滅亡させる(その止めを刺す)人類のガンである。自己増殖し続けるこの悪性腫瘍の根が、性闘争(=恋愛)と性権力支配にあることは、言うまでもない。むしろ、性を私的選択に委ねる性市場とそこでの恋愛こそ、人類の悪性腫瘍そのものであると言うべきだろう。この性の私的選択というパラダイムを変えない限り、性権力支配→要求主義・権利主義→人類滅亡の流れは変わらない。とすれば、開けてはならないパンドラの箱を開けて性闘争を顕現させ、全ての動物がその中で育まれ進化してきた(人類もその中で人類に進化してきた)本源集団を破壊して終ったことこそ、自然の摂理に反した人類の最大の誤りだったのである。  
   

第二部:私 権 時 代   イ.人類の同類闘争=性闘争から掠奪闘争へ    

第二部:私 権 時 代  
     
    イ.人類の同類闘争=性闘争から掠奪闘争へ    
020101    
   遊牧は、羊を連れて小集団(小氏族)で独立して移動する生産様式である。しかも、遊牧部族は移動≒闘争集団ゆえに男原理の父系集団となり、元々の母系の勇士婿入り婚は父系の勇士嫁取り婚に移行している。その婚資(結納)は相当数の家畜である。従って、その小氏族=大家族そのものが、蓄財(家畜を増やすこと)を第一義目的とした私益集団的な色彩を帯びている。とりわけ、女は闘争集団に対する収束力が極度に貧弱であり、自らが生まれ育った生殖集団=闘争集団においてはじめて集団に全的に収束できるのであって、嫁ぎ先の闘争集団に全的に収束するのは困難であり、多かれ少なかれ集団との距離を残している。実際、他所者の妻たちは、夫々が別々の小氏族の出身であり、実家の小氏族を基盤にして自らの存在権を守っているので、嫁ぎ先の小集団に対して夫々に私益存在的な色彩が強くなる。  
020102    
   実家を基盤に集団との距離を保ち、私益存在的な色彩を帯びた母親に育てられた娘たちは、性的存在として誰の下に嫁ぐのが得か損かを、娘心に考えながら成長してゆく。つまり、性回路が私益=自我回路と一体化して終う。しかし、相手を選ぶ権利は家父長が握っている。そこで、許婚が気に入らないとか、夫が(他の女たちに較べて)かまってくれないとかの不満が生じると、性的存在理由の欠乏は全的に自我回路に収束し、性的存在理由を充足する機会を求めて、夫以外の男を挑発し誘惑する。その際、相手の男が集団性=規範性の高いまともな男なら、「規範を破ってはいけない」と女をたしなめるだろうし、家父長に報告されるかも知れない。従って規範破りの相手には、常に最も集団性・規範性の低い下司男が選ばれる。しかし、それは集団から見た場合であって、性的存在理由→性的自我に収束した女にとっては、己の期待に応えてくれる男が一番いい男(≒首雄)となる。かくして自我に支配された女は、その首雄収束の思い込み回路を使って、最低の下司男を最高の強者だと180度逆転させて思い込み、首雄収束を下司収束に換骨奪胎して終う。自我は、共認(集団や規範)に対する否定(反や破)をエネルギー源にしている。従って、性的自我の塊と化した女と男にとっては、規範破り=集団破壊こそが潜在的な究極の目的=快感となるのであって、この狂った性的自我こそ、人類の全ての邪心の源である。現にこの狂った性的自我は、規範破りの私的な性関係を構築し、その私的関係を核にして、最終的には集団を破壊していったのである。  
020103    
   人類が五〇〇万年に亙って封印してきたパンドラの箱を開け、性的自我から性闘争を顕現させた遊牧派生の不倫→駆け落ち集団=邪心集団は、全集団間に警戒圧力を生み出し、遂に五五〇〇年前の乾燥期、彼らによってまずイラン高原メソポタミアとインドの間の大高原)で、人類最初の同類闘争=掠奪闘争の幕が切って落とされ、次いで中央アジア高原に連なる遊牧部族の帯を介して、モンゴル高原(北方アジアの大草原)に伝播していった。  
020104    
   掠奪闘争は、部族から部族へと玉突き的に拡がり、勝ち抜き戦を通じて、次第により強大な武装集団の下に統合されてゆく。こうして、数百年に及ぶ掠奪闘争の結果、ほぼ全ての本源集団が破壊されて終った。元々、モグラの性闘争とサルの同類闘争は、性闘争=縄張り闘争の本能上でつながっていたが、性闘争の禁を破った人類も、本源集団を破壊し本源共認を解体してしまったことによって、いったんモグラ→サルと同じ本能レベルに後退し、性闘争を皮切りに同類闘争=掠奪闘争を繰り広げた事になる。  
020105    
   しかし、人類の同類闘争は、サルのそれとは全く異なる位相へと、人類を導いてゆく。サルは表情や身振りによって共認しているので、互いが見える集団内部でしか共認を形成することができない。それに対して、人類は観念共認によって集団を超えた共認を形成することが出来る。人類はバラバラにされた個体の私権闘争(その根源は性闘争)を、私権の共認に基づく私権の強制圧力によって統合し、観念共認による超肥大集団=私権統合国家を形成した。その点が、モグラやサルと違う点である。だが滅亡の危機を前にした今、それが人類の進むべき正しい道であったかどうかは、改めて根底から問い直されなければならないだろう。とりわけ、開けてはならないパンドラの箱を開けて性闘争を顕現させ、本源集団を破壊した性的自我については、充分に解明し総括しておく必要がある。  
020106    
   存在理由欠損を原点とする女の共認回路は、外圧が強く従って集団収束力が強い時には依存収束を強め、首雄や仲間の期待(=集団の役割規範)に応望収束して、集団の期待=役割に応えるイイ女を作り出す。女の性機能は、真猿以来その様にして形成されてきたものであり、またこの応望収束の強さこそが、順応性や肯定性という、男には無い女の秀れた資質を生み出してきた。要するに、この様に役割規範に応望収束すれば、女は菩薩となる。しかし、同じ女が集団否定に自我収束すれば悪魔となる。外圧→集団収束力が低下すると規範収束が弱まり、自我収束が強くなってゆく。そして、何かの契機で性的存在理由が充足されなくなると、性的存在理由欠乏の全てが自我に収束し、性的自我の塊と化して規範破りの私的な男女関係を構築し、集団を破壊してゆく。集団圧力や闘争圧力や規範圧力に対する反or 破をエネルギー源とするこの性的自我こそ、私権時代に固有の女の魔性の正体であり、それは(単に一人の男を破滅させるだけではなく)集団や部族や国家を破滅に導く、滅亡の元凶ともなる。  
     
 
   ロ.私権文明を問い直す(東洋と西洋)    
020201    
   教科書が「人類の文明発祥の地」として教えるメソポタミア・エジプト・インド・中国は、全て掠奪闘争が繰り広げられた場所であり、それらの国家は、全て掠奪闘争の覇者によって作られた国家である。つまり、今日の「文明」は、全て掠奪闘争によって生み出された文明である。しかも、性闘争や私権闘争や掠奪闘争=戦争、あるいは環境や集団や精神の破壊、更には権力による支配・抑圧・疎外など、人類の罪悪と言われるものの全ては、性的自我(=邪心)を源とする性闘争→掠奪闘争→支配国家が生み出したものである。もちろん、性闘争→掠奪闘争→私権統合国家の流れが人類にとって必然の流れであり、かつこの性闘争・私権闘争系の「文明」が今後も更に進化してゆけるものであるなら、その流れに対して主観的に善悪の判断を下しても無効であり、無意味である。だが、この「文明」の帰結が人類滅亡であるとしたら、人々が戦争や破壊や権力を罪悪視し続けてきたのは基本的には正しかったのであり、それどころか、この「文明」が肯定視されてきたその根幹部そのものの是非が改めて問われることになる。  
020202    
   この私権「文明」は、人類を含めて全ての生物がその中で育まれ、進化してきた本源集団を破壊した上に築かれている。しかも、自然の摂理から大きく逸脱したその私権原理そのものが、今や機能不全に陥り、人類滅亡の危機が迫ってきた。とすれば、本源集団を破壊して終ったことが、人類の最大の誤りであった可能性が高い。ところが、西洋と東洋では本源集団の破壊度に大きな差がある。従って、この「文明」を見直す上で、西洋と東洋の違いがかなり重要なテーマとして浮上してくる。  
020203    
   人類最初の掠奪闘争がイラン高原の白人(コーカソイド)遊牧部族によって引き起こされ、それがモンゴル高原の黄人(北方モンゴロイド)遊牧部族に伝播していったことは既に述べたが、両者はその前身も、掠奪闘争の在り様も大きく異なっていた。コーカソイドはもとから狩猟部族でそれが遊牧に移行した人種であるが、北方モンゴロイドは、南方の平和な採集部族(南方モンゴロイド)が北方に移動して狩猟・遊牧に転じた人種である。乾燥期に入った頃、イラン高原にはもともと農耕・牧畜・遊牧などの諸部族が混在していた。しかも、イラン高原は急速に乾燥していったことにより、極めて深刻な食糧危機に陥った。従って、遊牧派生の邪心集団による掠奪闘争は極めて激しい容赦の無いものとなり、皆殺しが常態となる。従って、仲間を皆殺しにされて一人二人と生き残った者たちは憎悪と警戒心の塊となり、共認基盤を失って終ったことと相俟って、全面的にかつ強く自我収束する。そんな者たちが生き延びる為に寄せ集めの新たな掠奪集団を形成しては他部族を襲うという形で、数百年に亙って掠奪闘争が繰り返された。そんな生き残りの末裔が、西洋人である。それ故に、本源共認の基盤を根こそぎ解体して終った西洋人は、本源的な共認収束力≒集団収束力が極めて貧弱で、自我収束が極めて強い。しかし、自我だけでは共認を形成できない。そこで彼らは、専ら自我に基づく本源風の架空観念に収束し、架空観念で共認を形成する。  
020204    
   それに対して、モンゴル高原は見渡す限りの大草原であって、そこには同じ遊牧部族しかいない。加えて、イラン高原ほど乾燥が激しくない。従って、ここでは掠奪闘争というより覇権闘争の色彩が強く、皆殺しも発生したが、それより支配・服属という形が主流になる。従って、勝者はもちろん服属した氏族も、氏族集団としての本源性を強く残すことになる。東洋人は、概ねこの遊牧→掠奪の北方モンゴロイドが、採集→農耕の南方モンゴロイドを征服した混血であり、従って東洋人は小氏族(大家族)の本源性を色濃く残しており、西洋人ほど自我を肥大させていない。  
020205    
   この様な意識構造の違いは、夫々の思想の違いに典型的に現れている。同じ二六〇〇年前頃に、西洋ではユダヤ教(→その後キリスト教)、東洋では儒教が登場するが、西洋の観念信仰が自我に基づく極めて独善性・排他性の強い唯一絶対神を非現実世界に構築したのに対して、東洋の儒教は残された本源規範に基づく仁・義・信など、現実世界を導く関係規範に収束した。本源集団・本源共認を破壊して自我に収束した西洋人は、非現実の世界に失われた本源価値を(架空観念として)再構築するしかなく、かつそれが自我に基づくものであるが故に独善的・排他的な絶対観念(ex. 唯一絶対神)への思い込み信仰となるしかなかったのに対して、本源的集団と本源的共認が残存している東洋人の方は、本源規範を私権秩序と整合させることによって現実世界を律しようとした訳である。  
020206    
   本源集団を破壊した私権文明が滅亡の危機を迎えた今日、東洋人の心の底に残る本源集団性・本源共認性は、人類再生の基盤を成すものとして極めて重要になる。中でも、島国ゆえに一七〇〇年前まで掠奪闘争に巻き込まれることなく原始文明を発展させてきた日本人の心の底に残る本源的な共認体質は、極めて貴重である。もし、人類に絶滅を免れ得る資質が残されているとしたら、それは東洋人、とりわけ日本人の心の底に残された、類い稀なる縄文人的精神基盤なのではないだろうか。
  ハ.私婚関係から私権の共認へ    
020301    
   パンドラの箱を開け、性闘争=縄張り闘争を顕現させて終った以上、そして本源集団を解体し、本源共認を破壊して、モグラの性闘争=縄張り闘争の本能の次元まで後退して終った以上、人類は原猿と同じく雌雄解脱共認の形成から共認を再構築してゆくしかない。ところが、掠奪闘争によって人類の雌雄関係=婚姻関係は、一変して終った。本源集団が破壊され、性=婚姻の相手を定めていた婚姻規範が消滅して終った結果、性=婚姻は私的な選択に任されることになって終ったのである。性が、無政府的で本能的な性闘争に任されることに成ったとも言える。  
020302    
   しかし、性の私的な選択の場では、男女の性闘争本能の強弱差から、必然的に女の性に強い価値が生じる。しかも、闘いが無くなり生産基盤も安定してくると、男たちは解脱収束を強め、性欠乏を更に肥大させてゆく。他方、私的な婚姻関係は、女の性的自我をますます肥大させてゆく。そこで、本源集団=母系集団という安定した存在基盤を失い、性的自我に収束した女たちは、性を武器にして己の存在権を確保する方向に(つまり自ら性の商人となる方向に)、可能性収束=性的需要収束してゆく。そして、男たちを挑発しつつ性封鎖(供給制限)して、自分たちの性が「滅多なことでは売れない」「この上なく高価なものである」という性幻想を捏造する。何しろ女は、自分で自分を「至上のもの」と思い込んだら終いで、男たちは女の思い込みに基づくこの期待に応望しようとすれば、女と同じ様に「至上のものなんだ」と思い込み共認するしかない。こうして、性的商品価値(=性資本)の共認がいったん形成されると、それを手に入れる為に男は、女の好き嫌いやあれこれの要求にも迎合し、女に合わせて同じ様に思い込み共認してゆくしかなくなる。しかも、それは最基底の男女解脱共認であり、それを覆すことはもはや誰にも出来ない。  
020303    
   権力とは、否も応も無く人々を従わせることのできる力であるとすれば、女の性資本(性的商品価値)や選択権は、紛れもなく男たちを否応なく従わせることのできる権力=性権力であり、この権力を共認した以上、全ての男は否応なく女(性権力)に迎合せざるを得なくなる。この女の性権(性資本)こそ私権の原点を成すものである。もちろん、人々を否応無く従わせることの出来るもう一つの権力=男たちの武力との力関係によって、必ずしも常に性権力が絶対者に成る訳ではない。しかし、男たちが解脱(性)収束を強めてゆくにつれ、性権力は武力をも凌ぐ力を持つ様になってゆくのである。  
020304    
   決定的だったのは、勝ち進んできた掠奪部族が、最後に豊かな土地を手に入れ、農耕部族(小国家)に転身していった局面である。そこでは当初、土地は部族の共有物(=王の占有物)であり、(元)将や兵は役割分担として夫々の土地を管理しor 自ら農耕に当たっていた。しかし、各土地毎の役割分担は、忽ち管理者たちの占用権→占有権に変質してゆく。だが、闘争存在≒集団存在たる男たちだけなら、あくまでも役割分担として(必要なら配置替え=土地替えを行って)統合することも出来た筈であり(それが出来れば、その方が集団統合力は強くなる)、それが出来ずに占有権に変質していったのは、闘争=集団共認とは全く別の(むしろ、集団統合に対する遠心力・分解力ともなる)私的な男女解脱共認が強く働いた結果である。  
020305    
   もともと反(闘争)集団性が強く生殖⇒安定志向の強い女たちは、性を武器に己の存在権を安定確保すべく、私有要求を強めてゆく。他方、男たちは女の性権力に迎合せざるを得ず、従ってその要求にも迎合せざるを得ない。しかもそれは、女の期待に男が応える男女解脱共認の形となる。かくして、性権力に主導された男女解脱共認を通じて女たちの私有要求が貫徹された結果、占有権の共認が形成された。しかも、その私有要求⇒占有権の共認は雌雄解脱共認に基づくものであるが故に、社会の最基底の共認と成って確立されていった。但し、武力に基づく占有力そのものは闘って得られる男原理の力であり、それを占有権に換骨奪胎したのが性権力を武器とする女原理である。男は力、女は権、この男と女のせめぎ合いが、私権社会の在り様を、根底的に規定している。  
020306    
   私的な男女解脱共認を最基底の社会共認とし、その私的な婚姻関係を基底単位とする以上、私権(性権→占有権)に基づく私的婚姻=私有婚が社会の基底的な制度として共認されてゆくのは必然である。かくして、元々の遊牧部族の勇士嫁取り婚は、農耕に転身して以降は、私権(占有権)に基づく一夫多妻制へと変質していく。そして、戦争が無くなり戦死する男がいなくなると、世代交代の度に(解脱収束し性欠乏が肥大した)息子たちに土地を分割して与えざるを得ず、土地が小さくなると多数の妻を養うことができなくなる。従って、土地占有権に基づく一夫多妻制は、世代交代の度に土地が細分割されて、必然的にかつ急速に(3~4世代で)、一夫一妻制=一対婚に移行してゆく。更に、それ以上小さく分割できなくなると、次男以下は嫁をもらえなくなっていった。(農耕に転じなかった遊牧部族が一夫多妻のままであるのに較べて、農耕国家の一夫一妻は対象的に見えるが、どちらも私権に基づく私有婚、つまり、男が女を買い取り私有するという婚姻制の本質は同じである。)この、多妻から一妻への移行は、女の自我(独占欲)と性権力(好き嫌い、選択権)を決定的に増大させて終う。この様な女の性権力の肥大期が、小国家都市国家)の成立前後から統一国家(巨大帝国)の支配秩序が確立されるまで、三〇〇〇年から二〇〇〇年もの間、続いたのである。(注:日本人は、この様な時期を、殆ど経験していない。)  
020307    
   今日、一対婚はあたかも人類の始原からそうであったかの様に、思われている。あるいは、初めはそうではなかったとしても、ごく自然に、一対婚という「あるべき形」に移行してきたのだと信じられている。(例えば、サル学者の中には、何とか一対婚家族の萌芽を見つけようという偏見に満ちた問題意識を持ってサル集団を研究している者さえ、多数いる始末である。)だが、それは大きな誤りである。事実は全く逆であって、一対婚は女と男の性的邪心を源泉とする掠奪闘争の帰結として、掠奪国家によって作られた私権(性権と占有権)に基づく婚姻制であり、かつ世界中が自然に移行したのではなく、掠奪国家が人口の過半を占める採集部族をはじめ全ての平和な部族を皆殺しにし、あるいは支配することによって強制的に普遍化されていった婚姻制である。  
020308    
   なお、この点でも日本は特筆に値する文化基盤を持っている。日本人は長い間、採集部族として総偶婚(それも、最も原始的な兄妹総偶婚)を続け、一七〇〇年前に朝鮮からやってきた侵略部族に支配され統一国家が形成された後も、長い間総偶婚の流れを汲む夜這い婚を続けてきた(夜這い婚は、昭和30年頃まで一部で残っていた)。国家権力によって上から押し付けられた一対婚が庶民に定着するのは江戸時代中期からであり、現在までわずか三〇〇年間ぐらいしか経過していない。婚姻様式が社会の最基底に位置するものであることを考える時、この総偶婚のつい最近までの残存(or 一対婚の歴史の浅さ)は、日本人の心の底に残る縄文人的精神性を物語る貴重な文化基盤である。  
     
 
 
    ニ.私権の強制圧力と私権統合    
020401    
   ともあれ、人類は生存圧力に基づく同類闘争をいったん私権統合(国家)によって止揚した。しかし、それによって生存課題の全てが私権課題へと収束し、生存圧力の全てが私権圧力に姿を変えて終う事になる。(生存圧力は、絶えず本能(特に危機回路)を刺激し続けるが、私権圧力が直接に刺激し続けるのは自我回路であって、本能回路ではない。しかし、私権圧力は根源的にはモグラの性闘争=縄張り闘争の本能に発しており、私権刺激は間接的に性闘争=縄張り闘争本能を刺激するので、肉体的・本能的な圧力として作用する。)  
020402    
   私権(性権→占有権)の共認によって、社会の全ての財は私権(占有)の対象となり、人々は私権を確保しなければ生きてゆけなくなる。つまり、バラバラにされた個体の性闘争・私権闘争は、私権の共認を媒介として私権の強制圧力(それがないと生きてゆけない、否も応も無い絶対強制力)を作り出す。しかも、武力による収奪や資力による搾取によって作り出された貧困(=絶対的な生存圧力)は、私権の強制圧力を何倍にも強化し、絶対的なものにしてゆく。かくして国も、藩も、家も、個人も、全ての存在が私権(の強制圧力とそれへの収束)によって統合された私権統合の社会が形成された。そこでは、誰もが私権の獲得を目指して争い、互いに警戒心の塊となって、醜い自我に収束する(但し、絶対的な強制圧力が働いているので、近代の様に自我肥大はしない)。  
020403    
   この、私権闘争⇒私権の共認は、強制圧力を伴って私権序列の共認へと収束し、更に生涯固定の身分の共認へと収束する。それによって、私権闘争ははじめて統合され得たのであり、私権序列⇒身分序列こそ、私権統合の中枢を成すものである。かくして、財を収奪し、蓄積し、占有した少数の支配階級(持てる者≒消費階級)と、財=私権を奪われ、それ故に彼らの命に従うしかない多数の生産階級(持たざる者=働くしかない階級)との二大身分が、生涯→末代まで固定された身分社会が出来上がった。  
020404    
   ここでは、性闘争は(私権の共認によって)私権闘争へと収束し、更に私権闘争は身分序列へと収束する。従って、身分序列の私権統合が確立したことによって、一対婚も国家統合の基礎を成すものとして、身分序列に連なる家父長権(=占有権)の下に完全に組み込まれてゆく。そして、家父長によって娘の性の自由や選択権が封鎖された事によって性権力は衰退し、女たちは貞操や献身etc.一対婚規範(私権に基づくものではあるが、国家および家≒氏族の集団規範である)の下に収束して、ようやく集団に適応した存在に戻っていった。この期間が古代末から中世末まで、概ね二〇〇〇~一〇〇〇年ぐらい続いた。(注:日本は、概ね八〇〇年ぐらいである。)  
020405    
   ところで、私権社会では、言うまでもなく私権の確保が万人にとって第一義課題であるが、私権そのものは最終目的なのではない。最終目的は消費と遊興(平たく言えば遊び暮らすこと)であり、それこそが私権確保の目的である。集団を破壊した以上、もはや真の共認充足は不可能であり、私権が手に入れられるのは消費充足と遊興充足、そして究極的には支配充足しか無い。従って、私権社会では、最終目的たる「遊び暮らせる身分」を保障された消費・遊興階級こそが最終的な勝利階級であるが、その様な身分を手に入れる道は二つある。占有権力に基づく国家共認によって保障された身分(貴族や官吏や僧侶・学者や地主・資産家)と、性権力に基づく男女共認によって保障された身分(女と子供)である。これら遊興階級=勝利階級は、何れもその身分を権力によって保障されており、従って支配階級である。むしろ支配階級とは、権力に基づく共認によって支配or 遊興or 消費できる身分を保障された勝利階級であると定義した方が、分かり易い。  
     
  ホ.性権力と占有権力のせめぎ合い    
020501    
   ここで、二つの支配階級が存在するのは、私権の強制圧力を主圧力とする占有権力の統合力が、絶対的な自己矛盾を孕んでいるからである。望み通りに統合が実現され、身分が盤石なものになると、彼ら自身には生存圧力が働かなくなり、忽ち生存課題が捨象されて解脱収束を強めてゆく。課題(≒闘争)捨象して解脱(≒性)収束した以上、闘争過程から生まれた占有権力より解脱過程から生まれる性権力の方が上位になってゆくのは、必然である。かくして、闘争捨象⇒解脱収束した男(=占有権力)の目的の位置に女(性的商品価値)が鎮座し、占有権力は性権力の下に従属するものとなる。逆に言えば、女(性権力)にとって男(占有権力)は、どうにでも懐柔できる下僕となる。だから、性権力 > 占有権力というパラダイムは、女の自我を肥大させ、依存収束を依存要求(それは依存捨象の自我収束に他ならない)に換骨奪胎して終う。そして、半ば無意識に男を懐柔し、操縦し、支配する様になる。現に5千年前、メソポタミアに初めて都市国家を建設したシュメール人は、その数百年後には早くも「山の神(=女房)」に抑えられてどうすることもできない男たちの嘆きの詩を石碑に刻んでいる。  
020502    
   占有権力は闘い取って得られる男原理の権力であり、性権力は男を懐柔することによって得られる女原理の権力であるが、両者の力関係は、生存圧力→私権圧力の強さによって大きく入れ替わる。私権圧力が絶対で私権の確保が困難な時には、女・子供は私権(家父長権)に従わざるを得ず、性の自由と性権力は封鎖される。しかし、身分によって私権の確保が保証された支配階級の内部では、彼らが解脱収束してゆくことによって、しばしば占有権力よりも性権力の方が強くなる。そして、現代の様に貧困が消滅し私権の確保が容易になると、占有力(男原理)よりも性権力(女原理)の方が強くなり、占有権力と男原理は去勢されて終う。  
020503    
   問題は、何れにしても本源集団が解体されたままであり、従って性が私的な選択に任されるというパラダイムは、不変だということである。確かに、生存圧力や闘争圧力が強い時には、女自身の性の自由は封鎖されてきた。初期掠奪集団では、男たちの武力によって女の性の自由は粉砕されたし、中世封建社会では、諸国が群立する緊張圧力の下、統合力を高める必要から不倫のタブーetc.宗教や規範の確立→身分制の確立が進み、女自身の性の自由は身分制に連なる家父長権(大きくは私権統合力)によって封鎖された。しかし、性=婚姻の相手を定めた集団規範が形成されない限り、たとえ女自身の性の自由を封鎖しても、性が私的な選択に任されるというパラダイムは変わっていない。このパラダイムの下では、性権力を女自身が持つか、家父長が持つかの違いがあるだけで、性が私的な選択に任されている以上、女に属する性権力(女の性的商品価値や女側の選択権)の共認が時と共に強まり、基底的な支配共認として絶対化されてゆくという流れは変わらない。  
020504    
   事実、掠奪集団も少し安定すると(まして第二世代の息子や娘たちの代になれば)、忽ち男の解脱収束が強まり、女自身の性権力が形成され始める。そして、それ(性の自由や選択権や商品価値)は、掠奪集団→都市国家(例えばメソポタミアシュメール人ユダヤ人)→古代帝国(例えばローマ人)を通じて強くなってゆく。封建社会では、規範(or 宗教)の確立etc.によって女自身の性の自由は封鎖されたが、しかし私婚(私的な選択に任された、私的な婚姻関係)の共認は規範の確立によってより強くなっており、従って性権(性的商品価値や選択権)は娘から家父長に移っただけで、性的商品価値や私的な選択権の共認は、むしろ強化されている。従って、これら私権規範によって私的な男女解脱共認はより強化され、それを基盤とする私権(占有権)の共認も、より絶対化されている。要するに、性権力を核とする男女解脱共認と占有権の共認は、掠奪時代・古代・中世を通じて一貫して強化され、絶対化されてきたのである。  
020505    
   そして、外圧が低下し、男たちが闘争捨象⇒解脱収束する度に、性権力が強化され、強化された性権力に基づく女主導の男女解脱共認が、社会の最基底の支配共認としてはびこっていった。それは、貴族をはじめ支配階級全般に及び、更に都市住民全般に及んでゆく。そして、いったん女原理の支配共認が芽生えると、それが一段と闘争捨象⇒解脱収束を強めさせるので、ますます女原理の支配共認が強くなってゆき、その悪循環で(破滅的な闘争圧力でも働かない限り)もはや歯止めが効かなくなる。事実、近世から現代までは一直線に、かつ止まる所を知らず性権力とその支配共認が肥大してゆく過程だったのである。  
020506    
   しかし、この支配共認は極めて見え難い。男たちは、この上なく高価な性を手に入れる為に自ら進んで女に迎合し、納得づくで女の要求を受け入れ、それを共認しているからである。だが、本当に共認しているのなら、後で嘆いたりしない。そもそも、男は男同士の闘いに勝つ事によって女を獲得してきた動物であり、女の思し召し(好き嫌い)に迎合共認すること自体が、男の本意に反している。男は、性を武器とする女の性封鎖によって否応無く、恐ろしく高価な性的商品価値を共認させられ、その意に反して女の私的選択権を共認させられて終ったのであり、その結果が際限のない性権力とその支配共認の肥大化である。  
020507    
   要するに誰もが当然のことと思い込んでいる好き嫌いや恋愛や男女の私的関係は、私権時代に固有の性的自我が作り出したものであり、そして反集団に根差すこの性的自我こそ、集団や国家を破壊してゆく元凶である。しかもこの悪魔は、常に美しい幻想で身を包み、その正体が極めて見え難い。だが、私権時代の男たちは、そうとも知らずに自らも性的自我(独占欲)の塊りと化して女の尻を追いかけまわしてきた(しかも頭では女を軽視し続けながら)。その結果が、今日の女支配=性権力支配を招いたのである。  
020508    
   もちろん、これらは全てパンドラの箱を開け、性闘争を顕現させて終った私権時代のみに固有の現象であって、集団規範によって性が律せられ、女たちが依存収束⇒首雄収束していた五〇〇万年に亙る人類本来の男女の在り様からは、著しく逸脱して終っており、その逸脱=性権力支配が、やがて人類を滅亡の淵に追い込むことになる。  
     
 
    ヘ.支配共認=権力の共認と表層観念の共認    
020601    
   性権力に基づく男女解脱→役割共認であれ、武力→占有権力に基づく私権の共認→身分の共認であれ、支配階級は常に、権力に基づく共認を基底的な社会共認(国家共認)として形成し、その社会共認によって、自らの権力と身分を盤石なものとして確立する。権力に基づく共認が基底的な社会共認となるのは、私権闘争が自分以外は全て敵とする(共認の余地のない)自我と自我の激突であり、従って私権闘争は否も応もない絶対的な力によってしか制圧=止揚できないからである。それ故、私権闘争を制圧・止揚した権力の共認が、秩序形成の上で最基底の社会共認となる。性権力はもっと複雑だが、本質は同じである。占有権力も性権力も共に私権である事には変わりがなく、男と女の私権闘争において占有権力を性権力が上回った以上、当然、性権力の共認が占有権力の共認を凌いで最基底の社会共認となる。(もともと性闘争は、男同士の間の力=占有権力によって止揚されていたが、その占有権力を性権力が上回ると、性闘争も性権力によって止揚される様になる。)何れにしても、まず権力そのものたる「性権=性的商品価値と私的選択権」の共認や「占有権」の共認が強制的に(否応無く)形成され、それを核にして、男女役割の共認や身分の共認が形成されてゆく。この様な私権時代固有の社会共認を、支配共認と呼ぶ。支配共認という言葉には、それが権力の共認に基づいているという意味と、それ以外の認識が全て排除され共認内容がそれ一色に染め上げられて終うという、二重の意味が掛け合わされている。  
020602    
   支配共認はそれに止まらず、更にその権力を正当化する為に、無数の架空観念(幻想観念)を生み出し、それらをも社会共認としてゆく。つまり、肉体を直撃する様な深層の共認である性権力や占有権の共認の上に、本源価値を幻想観念化した本源的架空観念(古代宗教や近代思想)の共認を形成して支配共認の全体が構成されており、真実=深層の権力の共認を架空観念の表層共認がスッポリ包み込んでいる。もっと正確に言うと、深層の権力の共認は否応無しの絶対的共認≒不快な、認めたくない共認であり、そうであるが故に自己正当化できる様に幻想観念化されたのが表層共認である。従って、人々は心地よく酔わせてくれる架空観念に浸って、真実(=権力の共認)をあえて見ようとはしなくなる。  
020603    
   それは、サル・人類が解脱動物だからであり、とりわけ共認を唯一の武器として進化してきた人類は、異性や仲間や集団との共認充足なしには生きられない動物だからである。ところが、性闘争→私権闘争→私権統合によって本源集団は解体されて終ったので、失われた本源価値(異性や仲間や集団との共認充足)を幻想観念化して、頭の中で共認充足するしかなくなって終った。しかも、その様な幻想観念(古代宗教や近代思想)を創り出した思想家たちは、本源価値を破壊した、本源価値の対立物たる現実を否定し、反現実or 脱現実のベクトルに貫かれた非現実の地平に、本源価値を再生する幻想観念(「神」や「人間」や「自由・平等・博愛」やそれらを具有した「個人」や、それらを実現する「民主主義」)を構築した。従って、現実否定から出発し、現実から目を背らせた上で成立している古代宗教や近代思想は、初めから現実を変革できる筈もなく、現にそれら(例えば神の世界や自由・平等・博愛を具有した個人)が実現された例しがない。  
020604    
   それでも人間は共認充足なしには生きられず、頭の中で自己正当化をはじめとする様々な解脱充足を得る必要から、本源価値を幻想観念化した古代宗教や近代思想は、強く共認されていった。性権力や占有権力などの権力の共認こそが人々が肉体化している現実の共認である以上、古代宗教や近代思想はあくまでも頭の中だけの表層共認に過ぎず、突き詰めれば、脳内を充足させる為の解脱剤でしかない。しかし、それでも人々がそれを必要としており、それ故にそれが社会共認と成った以上、それは共認動物の社会統合上、頂点に君臨する事になる。従って、それら古代宗教や近代思想は社会統合上の絶大なる力を獲得し、僧侶や学者は支配階級の一員となる。支配階級から見れば、はじめから現実を変革する力などなく、むしろ私権の核を成す家族や恋愛を美化して人々を共認統合してくれる幻想観念は願ったり適ったりで、自分たちの身分を脅かさない限り有り難く利用すべきものであり、僧侶や学者の方は、私権(身分)を求める存在(深層意識)と現実を捨象した意識(表層観念)は初めから断絶しているので、彼らの主張が認められ、かつ高い身分が保障されるとなれば願ったり適ったりで、両者の思惑はピッタリ一致する。こうして、いったん支配階級の中に組み込まれた後は、それら宗教や思想は、ひたすら現状維持に貢献する支配共認に変質する。  
020605    
   以上からも明らかな様に、古代宗教と近代思想は、全く同じ現実捨象→幻想収束の認識パラダイムの産物であり、従ってその効用も同じである。少なくとも近代思想は、その現実捨象の認識パラダイムにおいて、宗教を一歩も超えていない。だから、近代思想は宗教であり、麻薬である。ただ、近代思想が古代宗教と異なるのは、次の点である。古代宗教が本源価値に立脚しているのに対して、近代思想は、一方では性的自我や抜け駆け性闘争(性市場)や私権闘争(商品市場)という現実に立脚し、もう一方では本源価値風の欺瞞観念に立脚している。近代思想が観念に立脚するのは、ムキ出しの自我や性闘争のままでは共認が成立しないからである。人々に共認される為には、醜い現実を捨象し、本源風に美化しなければならない。でなければ、思想として成り立たない。しかも、顕在意識は常に醜い現実の方を捨象し、美化された欺瞞観念に収束する。だから、近代思想はそれが集団破壊を究極の目的とする性的自我に基づくものであることも、その最大の価値たる自由な性=恋愛が規範破りの抜け駆け性闘争であることも、それら一切の真実を捨象し、真の現実から目を背らせる。むしろ、それら真の現実から目を背らせ、それを本源風の欺瞞観念で美化し正当化することによってその醜悪な現実を覆い隠すことこそが、近代思想の唯一の存在理由なのである。従って、その思想(欺瞞観念に収束した顕在意識)と現実(醜い自我や性闘争や私益闘争に収束した肉体存在)とは完全に断絶しており、もし思想と現実(意識と存在)を同じ地平で突き合わせれば、その思想は忽ち瓦解して終う。要するに近代思想は、一から十までその全てが人々を欺いて共認を形成する為の詐欺観念で構成されている。だから近代思想は、その全体が人々をペテンに嵌める為の詐欺思想である。  
     
   

ニ.サル時代の同類闘争と共認機能  

ニ.サル時代の同類闘争と共認機能    
010401    
   他方、同じ原モグラから出発して樹上に逃避の場を求め、樹上機能(後ろ足の指で手と同じ様に枝を掴める)を発達させて遂に樹上で棲息するに至った原猿は、大きな可能性を獲得すると同時に、大変な問題に直面することになる。まず、樹上には外敵が殆どいない。その上、樹上には栄養価の高い果実や木の実が沢山ある。従って、陸・海・空とは別の樹上という第四の世界をほぼ独占した原猿たちは、最高の防衛力と生産力を手に入れたことになり、忽ち森林という森林を埋め尽くして(その食糧限界まで)繁殖していった。  
010402    
   そこで、彼らの最強本能たる性闘争=縄張り闘争の本能が問題化する。この本能は、激しい個間闘争によって敗退した大多数の成体が行き場を失って外敵に喰われ、あるいは餓死することを前提にしている。簡単に言えば、大多数が死んでくれることによって調和が保たれる本能である。確かに、半地下(ほぼ地上)であれば縄張り(言わば土俵)から敵を追い出すのは簡単である。しかし樹上には何本もの枝があり、降りれば地上があり、しかも縄張り内には何百本もの樹がある。この様な縄張り空間では、1匹の覇者が多数の敗者を縄張りから完全に追い出すことは不可能である。たとえいったん追い出したとしても、追い出された者は樹上逃避できるので、外敵に喰われることなく大多数が生き残る。そして、生き残っている以上、彼らは常にどこかの覇者の縄張りを侵犯していることになる。敵(=縄張りを持つ覇者)はメスの掠奪は許さないが、縄張り周辺でのエサの掠め取りまでは手が回らない。もちろん、首雄が恐ろしいので、彼らは概ね各縄張りの境界線上にたむろすることになるが、そこでは充分な食糧を得ることができない。  
010403    
   かくして、樹上逃避機能を獲得したが故に死なずに、かといって縄張りもなく中途半端に生き残ることになった原猿たちは、本能が混濁して終う。しかも彼らは、絶えざる縄張り侵犯による過剰な緊張や怯えや飢えの苦痛など、全ゆる不全感に恒常的に苦しめられることになる。同じ性闘争本能を持つ肉食動物や草食動物がぶつかったのは本能の適応不足=限界であり、それは全ての生き物の本能が孕んでいる限界と同質のものであるが故に、彼らの限界も他の生物と同様に、無自覚のDNA変異によって克服されていった。しかし、原猿がぶつかったのは単なる本能の限界ではなく、絶えず生存の危機に晒され不全感覚が刺激され続けるという意識的な極限状態であり、しかも本能そのものが混濁するという本能の不全(縄張り闘争には勝てないのに、死なずに辛うじて生きている)故に、本能ではどうにもならない(従って本能を超え出るしかない)という未明課題だったのである。  
010404    
   彼らは恒常的に飢えの苦痛に苛まれ、いつ襲ってくるか分からない敵=首雄の攻撃に怯えながら暮らしていたが、それらの極度な不全感が生命の根源を成す適応欠乏を強く刺激し、生起させた。加えて、恒常的に強力な危機逃避回路(未解明だが、おそらくアドレナリンetc.の情報伝達物質)が作動する事によって(これも未解明だが親和系のオキシトシンetc.による性封鎖力ともあいまって)性闘争が抑止され、それによって、モグラ以来性闘争物質によって封鎖されてきた追従本能が解除された。かくして、不全感の塊であった境界空域の弱オスたちは、適応欠乏に導かれて強く追従本能に収束する。しかし、互いに追従し合っても、誰も(縄張りの確保あるいは不全感の解消の)突破口を示すことは出来ない。そこで、わずかに可能性が開かれた(=不全感を和らげることのできる)親和本能を更に強化し、追従回路(アドレナリンetc.)に親和回路(オキシトシンetc.)が相乗収束した依存本能に収束してゆく。つまり、「縄張りを持たない敗者たちが互いに身を寄せ合う」。  
010405    
   不全課題を抱えて依存収束した弱オスたちは、依存し合う中から、「どうする?」⇒「どうにかならないか?」と可能性を相手に求め、互いに相手に期待収束してゆく。こうして、依存収束⇒期待収束し、互いに相手を注視し続ける内に、遂に相手も同じく依存し期待している事を発見し(探り当て)、互いに相手の課題=期待を自己の課題=期待と同一視して理解し合うに至った。自分以外は全て敵で、かつ怯え切っていた原猿弱者にとって、「相手も同じく自分に依存し、期待しているんだ」という事を共認し合えた意味は大きく、双方に深い安心感を与え、互いの不全感をかなり和らげることが出来た。この様に、不全感を揚棄する為に、相手の課題=期待を自己のそれと重ね合わせ同一視することによって充足を得る回路こそ、(未解明だが、おそらくは快感物質β-エンドルフィンを情報伝達物質とする)共感回路の原点である。この安心感+が、相手+⇒仲間+共感を形成し、原猿たちは不全感の更なる揚棄を求めて、より強い充足感を与える(=得る)ことのできる親和行為(スキンシップなど)に収束していく。そこでは、相手の期待に応えることが、自己の期待を充足してもらうことと重ね合わされ同一視されている。つまり、相手の期待に応え充足を与えることは相手に期待し充足を得ることと表裏一体である。従って、相手の期待に応えること自体が、自己の充足となる。共感の真髄は、そこにある。共感の生命は、相手(=自分)の期待に応望することによって充足を得ることである。こうして、不全感に苛まれ本能が混濁したサルたちは、その唯一の開かれた可能性=共感充足へと収束することによって、はじめて意識を統合することができた。これが、サル・人類の意識の、第一の統合様式たる共感統合の原基構造である。  
010406    
   補:六〇〇〇万年~三〇〇〇万年も昔の原猿時代に形成されたこの共感機能は、その後真猿時代の共認機能(規範や役割や自我を形成する)や人類固有の観念機能を生み出してゆく。逆に云えば既に無数の規範や観念に脳内が覆われた現代人には、原基的な「共感」をイメージすることが極めて困難である。しかし、ごく稀にそれに近い感覚を体験することはある。例えば阪神大震災の時に、多くの関西人が体感した感覚が、それである。大地が割けたかと思う程の大揺れに見舞われ生きた心地がせず、足が地に着かないような恐怖に慄いている心が、外に出て誰かと言葉を交わすだけで(それ以前に、生きている人々の姿を見るだけで)、すーっと安らぎ、癒される感覚、その時作動していたのが意識の深層に眠る原猿時代の共感充足の回路ではないだろうか。特に留意しておきたいのは、その凄まじいほど強力な安心や癒しの力は、自分の家族や知人からではなく(そんな意識とは無関係に)、誰であっても誰かが居りさえすれば湧き起こってくるものであったという点である。  
010407    
   親和(スキンシップ)は皮膚感覚を発達させ、より不全感を解消する効果が高い+(快=ドーパミン)感覚回路を親和回路の周囲に形成していった。この+回路(ドーパミン)は、全ゆる不全感覚を捨象する(マヒさせる)事が出来る。従って、不全感を捨象すべく解脱収束したサルたちは、生存課題であれその他の何であれ、そこに障害=不全がある限り、それを捨象すべく+回路に収束する。これが、共認統合に次ぐ、サル・人類の意識の、第二の統合様式たる+統合であり、全ての捨揚統合の原点である。  
010408    
   原猿弱者たちは、この+回路によって怖れや怯えや危機逃避をマヒさせ=捨象し、仲間+縄張り闘争+へと+共認収束することによって、遂に闘争集団を形成し、縄張りを確保する事が可能になった。(これは、麻薬で怖さをマヒさせて闘いに打って出るのと同じである。人類に見られる闘いの前の踊りも、同じ効果を期待したものである。)こうして約3000万年前、遂に同類闘争(縄張り闘争)を第一義課題とする真猿集団が形成された。親和収束⇒+収束を母胎にして、より上位の闘争系・集団系の課題を共認し、その闘争共認に従って役割を共認し規範を共認してゆく、この第三の統合様式たる闘争系の共認統合こそ、サル・人類集団を維持させている主要な統合様式である。  
010409    
   要約すれば、樹上に進出したサルは、同類闘争(縄張り侵犯)を激化させ、飢えと怯えの不全感から解脱すべく、相手との期待・応望回路=共認機能を進化させていった。こうしてサルは、本能を超えた共認によって、はじめて自らの意識を統合することができた。サルが形成したこの全く新たな共認機能について忘れてならないのは、不全感から解脱する為の解脱共認(親和共認を含む)こそが、全ての共認の原点であり、その母胎の上に闘争共認や規範共認が上部共認として形成されているということである。  
010410    
   はじめ原猿の段階では、極限的な性闘争=縄張り闘争圧力(それは、同類を対象とする同類圧力であると同時に、自然や外敵を対象とする生存圧力でもある)の中で期待・応望回路を発達させたが、真猿以降は生存が集団によって保障される事によって生存圧力<同類圧力となり、性闘争や期待・応望(相互解脱)や同類闘争(縄張り闘争)などの同類圧力を主圧力として、更に共認機能を発達させていった。もちろん、大前提として、サルにも本能を刺激する生存圧力(自然圧力や外敵圧力)が働いているが、それら生存圧力より同類圧力の方が遥かに大きく、要するにサルは、同類圧力→同類課題を第一義課題として共認機能を進化させたのである。この共認機能こそ、サルの知能を著しく進化させたその本体であることは、言うまでもない。  
010411    
   この共認機能は、下部の解脱共認・仲間共認から上部の規範共認・闘争共認に至るまで様々な共認内容を形成し得るが、それらは全て不全課題や闘争課題etc.の課題に応えんとする期待・応望回路によって形成されたものである。従って、その課題=期待に対する充足度が次の最先端の問題となり、上記の全ての共認は、その充足度に基づく評価共認へと収束してゆく。つまり、全ての共認は課題共認⇒充足(内容)共認⇒評価共認へと先端収束することによって(言わば仲間の評価を羅針盤として)最良の内容へと収束し、共認内容が最良内容に固定されると共に、それ(評価収束→内容固定)によって、皆=集団の統合が実現される。これが共認統合である。  
010412    
   課題共認や規範共認は本能の代替機能でもあるが、本能にはない解脱共認や同類闘争共認が象徴している様に、共認機能は本能の単なる代替機能を超えた機能である。むしろサルが形成した共認機能は、本能を進化させるDNAの組み換えより遥かに容易に、かつ多様に、(本能の代替物でもある)共認内容を組み換えることが出来る機能であり、それまでのDNA進化という生物史を覆す、全く新たな進化機能の実現だったのである。  
     
   
  ホ.サル時代の雌雄分化    
010501    
   だが、共認機能は決して完璧ではない。それは、必然的に自己の破壊回路を生み出して終う。期待・応望回路は、役割充足欠乏(=期待に応えている充足の欠乏or 期待され認められることの欠乏)を生み出す。とりわけ評価共認は、期待・応望回路の周りに「与えられない期待や評価」に対する欠乏の塊を生み出し、そこから他者否定と自己賛美(正当化)を目的とする自我回路が形成される。(前述した-捨象+収束の+=ドーパミン快感回路で形成されている。)この自我回路が形成するのは、全て「与えられない期待や評価」の代替物であり、従って全てが実在しない幻想である。また「与えてくれない」相手や集団に対する他者否定と自己正当化の塊なので、共認の敵対者とも破壊者ともなる危険性を秘めており、言わば共認機能が生み出した鬼っ子である。  
010502    
   そして、この存在理由=役割を巡って、真猿以降、メスに決定的な変化が生じる。真猿集団は、同類闘争(縄張り闘争)を第一義課題として共認している。本能に基づく外敵闘争なら、メスも闘える。例えばライオンの雌はシマウマを倒せるし、サルの雌もリスを蹴散らせる。ところが、本能に基づく外敵闘争ではなく闘争共認に基づく同類闘争になると、同じサル同士の闘いなので体格が劣るメスは全く戦力にならない存在となり、存在理由を失って終う。その結果、メスは極度に依存性を強め、首雄に強く依存収束する(強固な依存収束回路を形成する)と共に、首雄の性的期待に応望すべく、自らの全存在理由をかけて性機能(挑発機能や発情機能)を発達させてゆく。例えば、メスの尻は赤く膨れ上がっているが、これはオスを挑発する為であり、一定期間だけであった発情期も次第に延長されてゆき、最も進化した真猿では、遂に年中発情することが可能な状態に至っている。かくしてメスは、首雄に対する性的役割(広義には解脱充足を与えること、その中心が性的充足を与えること)を、自らの第一義的な存在理由とする性的存在となる。従ってメスの脳回路は、存在理由の欠損を原点にした強力な首雄収束⇒性的役割収束⇒性機能収束の共認回路が主軸になっている。首雄との雌雄解脱共認を主回路としているとも言える。もちろん、それが生物を貫く雌雄の差別化というベクトルに合致した、一つの進化形であることは、言うまでもない。  
010503    
   しかしメスは、その決定的な役割欠損から、依存収束と同時に強力に自我収束しており、依存収束回路と自我収束回路が強く相乗収束し易い。とりわけ、性闘争の本能回路と自我回路は共に「自分以外は全て敵」とする回路なので、性闘争回路と自我回路は不可分に相乗収束している可能性が高い。但し、不可分と言っても、夫々の回路の伝達物質は異なるので、自我回路(ドーパミン)を刺激しなければ、純粋な期待・応望(役割欠乏=エンドルフィン)に基づく首雄収束⇒応望収束⇒性機能収束の回路が作動する。しかし、自我回路が刺激される時、メスの生殖収束→性収束は闘争集団の統合を乱し衰弱させる恐ろしい分解力・破壊力となって現れることになる。もっともサルの段階では、メスは集団を離れて生きてはゆけないので、その矛盾は集団統合の乱れや衰弱として現れはしたが、決定的な破壊にまでは至らなかった。  
010504    
   また、「自分以外は全て敵」とする性闘争回路と自我回路が不可分に相乗収束しているのは、オスも同じである。従って、真猿集団の内部に発生するオス間の性闘争(更にはエサの取り合いetc.の私権闘争)は、集団を破壊する危険性を孕んでおり、何としても止揚されなければならない。しかし、「全て敵」である限り、共認は成立しない。この様な欲と欲がせめぎ合い、自我と自我がぶつかり合う性闘争・私権闘争は、力によってしか制圧されない。そこで真猿は、性闘争・私権闘争を制圧した力の序列を共認することによって(力の序列を秩序原理とすることによって)、性闘争・私権闘争を止揚し、共認の破壊=集団の崩壊を喰い止めている。事実、真猿集団のオスたちは、15匹居れば1番から末端の15番まで序列化されており、一方では挨拶などの序列規範を守りながら、同時に絶えず序列闘争を繰り返している。(私権闘争は力の序列共認に収束するというこの原理は、人類の私権時代にも顕在化する。私権時代三〇〇〇年間は、力の序列⇒身分制が秩序の根幹となり、体制の主軸となっている。もちろん、社会主義国の指導者序列もサルの序列原理と同じである。)  
010505    
   最後に、サルの婚姻様式について簡単に見ておこう。原猿は概ね原モグラと同じで、1匹の首雄に2~3匹のメスが集中する首雄集中婚が主流である。同時に注目しておくべきことは、原猿集団は首雄と数匹のメスとその子供たちによって構成される生殖集団であるという点である。もちろん、首雄が闘いを担う闘争集団でもあるが、重要なのは、この集団が雌雄の解脱共認によって成立し、統合されているという点である。もちろん、その解脱共認の中心を成すのは性的な期待と応望の共認であり、この様な雌雄解脱共認は、驚くべきことに闘争集団である真猿集団においてもその核として存続し続けるのである。  
010506    
   言うまでもなく、真猿集団は闘争共認によって統合された闘争集団である。しかし、戦力にならないメスたちは、その闘争集団の中央に、あくまでも原猿と同じ雌雄解脱共認の世界(=生殖集団)を形成し続ける。つまり、メスはあくまでも生殖集団を拠点とし(メスの生殖収束)、首雄との雌雄解脱共認を存在の武器とし続けた(メスの首雄収束)。従って、真猿の婚姻制も首雄集中婚が主流で、中央に首雄とメスたちと子供たち、その外側にオスたちという、絵に描いた様な内雌外雄の同心円の隊形を取る。この、あくまでも生殖集団=性的な期待・応望に基づく雌雄解脱共認に収束するメスの習性は、原猿・真猿・人類の極限時代、そして遂に闘争を放り出して生殖だけの家庭を不可侵の聖域として形成した現代に至るまで一貫しており、全く変わっていない。  
     

ヘ.人類:極限時代の観念機能    
010601    
   足の指が先祖返りして、それ以前の獣たちと同様、足で枝を掴むことが出来なくなったカタワのサル=人類は、樹上に棲めるという本能上の武器を失った結果、想像を絶する様な過酷な自然圧力・外敵圧力に直面した。そこで、本能上の武器を失った人類は、残された共認機能を唯一の武器として、自然圧力・外敵圧力に対応し、そうすることによって、共認機能(≒知能)を更に著しく発達させた。  
010602    
   極限状況の中で、人類は直面する現実対象=自分たちを遥かに超えた超越存在たる自然を畏れ敬い、現実対象=自然に対して自分たちの生存(=危機からの脱出)への期待を込め、自然が応望してくれる事を切実に願った。つまり、人類は直面する過酷な現実対象=自然を凝視し続ける中で、元来は同類を対象とする共認機能を自然に対して作動させ、自然との期待・応望=共認を試みたのである。そして遂に、感覚に映る自然(ex. 一本一本の木)の奥に、応望すべき相手=期待に応えてくれる相手=精霊を措定する(=見る)。人類が万物の背後に見たこの精霊こそ、人類最初の観念であり、人類固有の観念機能の原点である。直面する現実対象(例えば自然)の背後に精霊を見るのも、物理法則を見るのも、基本的には全く同じ認識回路であり、従って精霊信仰こそ科学認識=事実認識(何なら、事実信仰と呼んでも良い)の原点なのである。  
010603    
   かくして人類は、生存課題の全てを本能⇒共認⇒観念(精霊信仰)へと先端収束させる事によって、観念機能(→二〇〇万年前の言語機能を含む)を発達させ、その事実認識の蓄積によって生存様式(生産様式)を進化させていった。そして遂に1万年前、弓矢の発明によって外敵と対等以上に闘える段階にまで生存力(生産力を含む)を高めて、過酷な生存圧力を動物一般レベル以下にまで克服した。人類は、ここまで五〇〇万年を費やして共認機能⇒観念機能⇒生存力(生産力)を進化させてきたが、その間、サルの主圧力であった同類闘争圧力は全く働いていない。しかし、忘れてならないのは、同類闘争圧力は働いていないが、極限的な生存圧力と、それ故の期待・応望の同類圧力は極めて強力に働いており、この強力な生存圧力⇒同類圧力こそが、観念機能と物的生存様式を生み出し、進化させてきたのである。  
010604    
   この観念機能(特に言葉)は、サルが頼りにする表情や身振りによる共認よりも、遥かに多様で容易な共認を可能にし、共認内容の無限の組み換えを可能にする。従って、観念機能こそ、DNA進化に代わる新たな進化機能=共認機能の完成形態であると言える。しかし、観念機能がDNA組み換えを超えた新たな進化機能であるという事は、その機能を獲得した人類は、その共認=観念内容によって進化もすれば退化もする可能性を孕むことになる。  
010605    
   人類の最先端機能たる観念機能は、あくまでも本能回路や共認回路を充足する為にある。もっと簡単に言えば、現実課題に応えるためにあり、行動を導く為にある。従って、観念機能は、精霊信仰以来一貫して目の前の現実世界(自然や同類)を対象化してきた。そして現実対象⇒事実認識の蓄積によって、人類の生存様式を進化させてきた。  
010606    
   しかし、本源集団が解体された私権統合社会では、現実課題に応える為の観念機能は専ら私権の獲得に収束し、自分のことしか考えられない人間を作り出した。当然その私権闘争は、本源価値を抑圧し、解体してゆく。しかし、共認回路の充足の必要は、絶対である(サル・人類はそれなしには生きられない)。そこで、観念機能は(私権追求とは別に)現実には失われてゆく本源価値を、頭の中だけで対象化することによって、共認回路を充足させる方向に向かった。こうして、現実対象不在の架空観念(神や愛や自由、つまり古代宗教や近代思想)が捏造されていった。それによって、人類を進化させてきた観念機能の認識ベクトルは、現実対象から不在対象(頭の中に内在する本源価値)へと180度逆転させられてしまったのである。それだけではない。本来の観念機能は、本能課題や共認課題に直結して行動と一体となって作動するが、現実対象を捨象したこの即自観念(頭の中に内在する本源価値を言葉化しただけの観念)は、現実の一切の活動から切り離され、ただ「観念」それ自体の為に存在する。これは観念の倒錯である。  
010607    
   こうして古代宗教や近代思想に代表される「観念」は、人々にとって、現実離れした、役に立たないモノになり果ててしまった。今や、かかる倒錯観念を駆使してメシを喰っている官僚や学者やマスコミ等の統合階級を除けば、誰も「観念」など信じていない。しかし、観念機能が人類の命綱(最先端機能)であるという事実は、不変である。それに、本来の観念機能を再生するのは、それほど困難なことではない。現実課題に応える為に、とことん現実を直視し対象化してゆきさえすれば、観念機能は再生されてゆく。この『実現論』は、その一里塚である。  
     
 
  ト.人類の雌雄分化と人類の弱点    
010701    
   人類はつい一万年前まで、まともに地上を歩くことが出来ず洞窟に隠れ棲むしかない様な、凄まじい外圧に晒されていた。従って、人類のメスはサル以上に極度に依存収束を強め、首雄収束⇒応望収束回路を発達させていった。しかも人類のメスは(首雄でも防ぎ切れない)飢えや怯えに晒され、サル以来はじめて自らの不全感を直撃されたメスは専ら解脱収束を強め、強力な解脱収束⇒性機能収束回路(エンドルフィンとドーパミンの快感回路)を形成していった。だから、人類の女は徹頭徹尾、応望存在であり、自らの役割欠損を専ら性機能に収束させてゆく性的存在である。もちろん、それら全ては首雄の期待に応えて役割充足を得る為であり、従って男たちはそんな女たちを、純粋にかつ積極的に肯定視してきた。それどころか、樹上機能を失い、絶望的な状況下に置かれたカタワのサル=人類が、その極限時代五〇〇万年間を生き延びることが出来たのは、性と踊りをはじめとする強力な解脱充足回路を形成し得たからであり、もしそれがなければ、人類は生きる希望を失って早々に絶滅していたであろう。この様なサル→人類を貫くメスの応望存在化⇒性的存在化が、生物進化を貫く雌雄差別化のベクトルに合致した、その一つの極限的な実現形態であることは言うまでもない。  
010702    
   凄まじい外圧に晒され、共認機能(更に観念機能)を唯一の命綱として生き延びた人類は、共認を破壊する性闘争や自我を五〇〇万年に亙って全面封鎖してきた。実際、この極限状況では、人類は期待・応望の解脱充足を生きる力の源にしており、その充足を妨げ、生きる力の源を破壊する様な性闘争や自我が徹底的に封鎖されてゆくのは必然である。あるいは、絶対的な課題共認・規範共認によって(つまり、絶対的な共認圧力=集団統合力によって)、性闘争や自我が発現する余地など、全くなかったとも言える。しかし、人類は外圧を克服してゆくにつれて、極めて厄介な自己矛盾に陥ってゆく。  
010703    
   問題は、共認機能が不全感を捨象する為の解脱共認(エンドルフィンやドーパミンの解脱充足回路)を母胎としていることである。もちろんそれは、本能ではどうすることも出来ない、本能が混濁するほどの凄まじい外圧→不全感から解脱する為に形成された回路である。しかし、その解脱充足回路=期待・応望回路が、唯一の開かれた可能性の実現として形成された以上、本能をはじめ全ての回路がそこ(=解脱回路)へと可能性収束するのは必然である。事実、サル・人類はこの解脱共認回路を命綱として生き延び、進化してきた。従ってサル・人類は、何であれ不全感が刺激されると(例えば、動物にとっては当然のことである暑さや寒さや雨に濡れることなどの不快、あるいは共認動物に固有の存在理由欠乏→自我の充足欠損の不快を感じると)、自動的に解脱充足回路に収束する。とりわけ、極限時代五〇〇万年に亙って解脱充足を生きる活力源として生き延びてきた人類は、解脱充足なしには一時も生きておれない解脱動物となって終った。動物なら、例えばネコなどは、よく縁側で陽光を浴びながら日がなじっと寝そべっているが、実は人間にはそれができない。人間は、時間があると決してじっとしておれずに、音楽を聴いたり本を読んだりテレビを見たり、あるいは誰かとおしゃべりしたり、とにかく何らかの解脱充足を味わっていないと生きておれないのである。人類固有の物的欠乏も、涙と笑いも、芸術も、全てはこの解脱欠乏が生み出したものである。とにかく、人間がいかに強く解脱充足を必要とする動物であるかを、人類は深く自覚しておく必要がある。  
010704    
   もちろん、強力な外圧に晒されている時には、サル・人類はこの解脱共認を母胎にして、その上に闘争系の共認を形成し、そこ(課題共認や役割共認)へ収束する。だが、外圧が低下すると、忽ち闘争(集団)収束力が低下して、時間さえあれば解脱充足を貪る様になる。つまり、元々は凄まじい外圧→不全感から解脱する為に形成された解脱回路は、外圧が低下すると、むしろその充足だけを貪る為の堕落回路となる。問題は、そこにある。人類は、外圧が低下すると解脱収束し、堕落してゆく。しかも、外圧が高く闘争・課題共認への収束力が強ければ僅かな解脱でも充分に充足できるのに、闘争・課題共認への収束力が低下すると、どれだけ解脱を貪ってもなお充足できなくなる。だから、解脱回路は共認の母胎であると同時に、麻薬でもあり、人類の最大の弱点ともなる。  
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   特に深く自戒すべきは、私権時代の男たちである。私権闘争存在たる男は、少なくとも顕在意識においては私権第一・仕事第一と観念しており、それ故に解脱過程を「必要ではあるが不充分なもの」、あるいは単なる発散過程であって「取るに足りないもの」と見做しがちである。従って、性や女についても同様に「不充分なもの」、あるいは「取るに足りないもの」と見做し続けてきた。現にこれまで、私権時代の男たちは誰一人、性や女の問題を社会構造上の最基底の問題として真っ正面から取り上げ、追求しようとはして来なかった。だが、実は意識下では(=肉体的には)、外圧の低下に即応して、何よりも強く性や女に解脱収束していたのである。にも拘わらず私権時代の男たちは、男支配の社会に安住し、表面上は性や女を軽視し続けてきた。それが、やがてどのような結末をもたらすことになるかを、この時代の男たちは誰一人気付けなかったのである。  
     
 
  チ.採取時代の婚姻様式    
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   観念機能(事実認識=洞窟・貯蔵・火・調理具・戦闘具・舟・栽培・飼育)の進化によって生存力を強化した人類は、約1万年前、弓矢によって外敵と互角以上に闘えるようになった頃から洞窟を出て地上に進出する。そして地上に進出した人類は、忽ち外敵を駆逐して、繁殖していった。その結果、繁殖による集団の拡大→分化を繰り返した人類に、ようやく同類闘争の潜在的な緊張圧力が働き始める。とは言え採集部族や狩猟部族は、互いに贈物etc.を通じて友好関係の構築に努め、闘争を回避していた。  
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   しかし、外圧が低下すると集団統合力が低下し、規範収束力も低下してゆく。同時に、外圧の低下につれて解脱収束(中心は性充足の欠乏)が強まってゆく。更に、集団規模が拡大したこともあいまって、原モグラ以来1億年に亙って踏襲してきた首雄集中婚を維持することが困難になっていった。こうして約1万年前、人類の雌雄(婚姻)関係は劇的に変化してゆくことになったが、豊かな山野や海辺に進出して木の実などの採集や漁労に転じた採集生産の部族と、従来通り獲物の豊かな森林で狩猟を続けた狩猟生産の部族では、全く異なる婚姻規範を形成する。  
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   東アジアの黄色人(モンゴロイド)をはじめとして、世界人口の過半を占めていた採集・漁労部族は、仲間の解脱収束→性欠乏の上昇に対して、皆が心を開いた期待・応望の充足を更に高める方向を目指し、部族内を血縁分割した単位集団(氏族)ごとの男(兄たち)と女(妹たち)が分け隔てなく交わり合う、総偶婚規範を形成した(但し、氏族を統合している部族レベルでは首雄集中婚が踏襲されている事例が多いので、正確には上部集中婚・下部総偶婚と呼ぶべきだろう)。なお、その後同類闘争の緊張圧力が高まると、再び集団統合力を強化する必要から、氏族ごとの閉鎖性を強め分散力を強める兄妹総偶婚は廃止され、部族内で定められた他の氏族の異性たちと交わり合う交叉総偶婚に移行してゆく。何れにしても、期待・応望充足を最大の活力源とする採集部族は、総偶婚によって期待・応望(=共認)充足を破壊する性闘争を完璧に解消して終うと共に、総偶婚によって一段と期待・応望充足を強めたことによって、その充足を妨げる自我回路もほぼ完全に封印していった。  
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   ここでの採集・漁労部族における女の役割は、注目に値する。採集部族では、弓矢を持った男たちが防衛する(狩猟もするが、獲物は少ない)安全域で、女たちが主要な食糧を採集する。もちろん、闘争過程の主役はあくまでも男たちの防衛であって、女たちの採集は従役である。それにしても、食糧の過半を女が採ってくるというのは、外圧の強い極限時代には考えられなかったことであるが、皆=集団の期待(食糧の採集という役割)に応えて、採集部族の女たちはよく働いた。しかし、それでもなお男たちの期待の中心は性であり、従って女たち自身にとっても、自分たちの中心的な役割は性役(男たちに性的充足を与えること=自らの性的充足を得ること)であった。役割欠損ゆえに性的存在となった女にとって、集団=全ての男たちの期待(=性役という女の役割規範)に応えることほど、自らの存在理由を充足させるものはない。従って、タヒチをはじめ採集部族の女たちは、極めて積極的に集団の期待=性役規範に応え、更に性機能を磨いていった。(近世になって西欧人が侵略の目的でやって来た時でさえ、タヒチやカリブの女たちは、彼らを性的に歓待した。これは、採集部族の人たちがいかに心を開いていたか=いかに警戒心が無かったか=いかに完全に自我を封印していたかの証明であり、また女たちが、集団の性役規範にいかに積極的に応えていたかの証明である。)  
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   それに対して、ヨーロッパの森林地帯に留まった白色人(コーカソイド)をはじめとする狩猟部族は、その狩猟という生産様式から、まだまだ強い闘争圧力を受けて強い集団統合力を維持し続けており、その結果、首雄集中婚の規範が長く残り続ける。しかし、外圧の低下によって次第に解脱収束が強まり、集団規模も拡大してゆく。そこで狩猟部族は、首雄集中婚を踏襲しつつ、首雄=族長という資格を一段下に拡張した勇士集中婚を形成していった(これは、女長老が采配する母系氏族の姉妹たち全員が勇士を迎え入れる、勇士婿入り婚とも言える)。だが、ここに大きな落とし穴があった。首雄は、原モグラ(哺乳類)以来の自然な存在であり、かつ唯一人である。それに、皆が評価し共認した族長に対して不満などあろう筈がない。仮にもし不満があったとしたら、直ちに皆が認める新たな族長に替わるだけである。しかし、勇士は一人ではなく何人もいる。しかも、勇士の資格は人工的に作られた資格である。従って、男たちの相対性と各々の正当化から自我を発生させて終う余地が大きい。何より問題なのは、首雄集中婚や総偶婚では集団規範によって性(婚姻)の相手は決まっており、従って娘たちは12歳前後で、思春期を迎えるや否や直ちに性関係に入ってゆく事ができる(=女の最大欠乏たる性的役割欠乏が充足される)のに対して、人工的な勇士婚では相手は決まっておらず、勇士が決まり婚姻が決まるまで、娘たちの性欠乏=存在理由欠乏は宙に浮いてしまうことである。  
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   もともと首雄集中婚の下でも、外圧が低下して解脱収束を強めた男たちの性欠乏は宙に浮いていた。しかし、モグラ以来、首雄以外の男の性は封鎖されてきたし、性の主役は女なので、女の性の相手を定めた婚姻規範が有る限り、問題は起きなかった。ところが、勇士婚規範によって、その女の性が宙に浮いてしまった。こうなると、規範破りの性関係が発生してくるのは避けられない。とは言え、狩猟生産の段階ではまだまだ闘争圧力⇒集団統合力が強く、規範破りの不倫は殆ど発生しなかっただろうし、万一発生したとしても、部族を捨てて逃げるほど反集団的には成れず、従って(恐らく男が)処刑されて一件は落着しただろう。しかし、牧畜生産に移行すると一気に闘争圧力が緩み、集団統合力も低下する(牧畜は、一般には採集部族と同様に女の仕事であり、従って牧畜部族に働く外圧は、採集部族に働く外圧レベルにまで低下したと考えられる)。そこでは勇士の資格が更に下に拡張され、規範破りの不倫も、時折は発生したに違いない。しかし、やはり氏族(親や兄弟や仲間)を捨てて逃げるほど、反集団的な意識には成り得なかった(集団を捨てて逃げる為には強固な反集団の自我収束が必要だが、そこまで強く自我収束し得る場が、狩猟部族や牧畜部族には見当たらない)。だが、彼らが遊牧へと移行していった時、彼らは遂に開けてはならないパンドラの箱を開け、集団を破壊する性闘争を顕現させてしまうのである。