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304426 日本の歴史(年表) 第1回~列島形成から縄文時代早期まで

304426 日本の歴史(年表) 第1回~列島形成から縄文時代早期まで

これから日本の歴史を年表化していきます。
最新の情報やこれまで類ネットなどで追求した内容を盛り込んでいきます。

(年代は全てBCで表記)
★は中国、朝鮮半島の動き

気候・地理・移動)
BC31000年以前 日本列島は大陸と繋がっており、海流の影響が少なく列島は針葉樹に包まれている。
日本列島の人骨発掘は沖縄で30000年、24000年、静岡県で16000年、沖縄の湊川人が16000年とあるが、縄文人とは繋がっていない。 

BC23000年 現在より-5℃

BC23000年~18000年 寒冷化に伴いバイカル湖に居住していたC3系がサハリン経由で大陸から日本に移住。旧石器時代の中心になる。
細石刃石器を生み出す。専ら狩猟で生業。定住はしていない。
(※日本列島の人口は13000年頃で700人~3000人)

BC17000年 日本列島の海抜が現在より120m低い(最低海抜)

BC15000年 対馬海峡ができる(但し冬には氷橋ができ往来ができる)

BC15000年~10000年(縄文時代草創期)
鳥浜貝塚(櫛、釣り針など発掘 漁労の足跡)
BC14000年世界最古の土器発掘(青森県大平山本Ⅰ遺跡)
細石刃石器がなくなり、やじりとしての石鏃(じん)が出土しており、弓矢の使用が始まる。

BC12000年 北海道最北の宗谷海峡開通 日本海に生物が繁殖

BC11000年 森の民D2系が日本流入。1万年間に渡る気温の上昇、低下を繰り返す中でモンゴル高原から朝鮮半島を経由して北九州から流入。このD2系が後の縄文文化、日本文化形成の核になる。(D2系は現在でも日本人の中に4割程度見られ、世界でも珍しい)

BC10500年 現在より-4℃
玄界灘が開通。日本海に暖流が流れ込み、現在の日本列島の形になる。
日本海側が温暖化。針葉樹林帯が西日本から徐々に果実の豊富な落葉広葉樹林帯へ移行する。定住化と採集生産が本格的に始まる。    

BC10000年~5000年(縄文時代早期)
気候の温暖化から海水面が上昇。東日本を中心とした縄文文化が始まる。

BC8200年  現在より-5℃(最終寒期である後氷期が終わる)

BC7500年 南九州の上野原遺跡に最古の大規模定住集落跡

★BC7000年 長江流域で最古の稲作跡 

BC5300年 九州で喜界カルデラの噴火。以後西日本は数千年間噴火の影響を受け、人口増加が止まる。縄文時代の人口構成は落葉広葉樹地帯とも重なり、以後中部地方以東に9割という偏った配置になる。

BC6000年 列島の人口は約2万人

★BC5000年 長江文明が発生

BC4300年 ミャオ族の渡来、長江文明発の文化が日本列島に入る
 丸木舟、高床住宅、ヒスイ等江南文化


※縄文早期までの婚姻
人口がまだ少なく、一族の間での総偶婚(全員婚)=族内婚(クナド婚)であった。この婚姻形態が以後、江戸時代まで続く婚姻慣習の基本となる。縄文中期以降は人口密度の多い地域から族外婚(集団外と婚姻)をするようになり、共同体間の緊張圧力を婚姻によって緩和した。

次回は縄文中期~縄文晩期までの予定

304652 日本の歴史(年表)第2回~縄文時代前期~縄文晩期まで
 
田野健 HP ( 54 兵庫 設計業 ) 15/06/05 AM02 【印刷用へ】

第2回は縄文時代前期~晩期(弥生時代前夜)までを年表化します。
尚この時代の前提として中国・朝鮮半島からの影響が出てきていますので、次投稿には中国の同時代の動きを重ねてみます。
(※この投稿には中国の情報は入れておりません)

縄文前期といっても長い縄文時代の2/3は過ぎていますので、実質上は中期と呼んでもいいくらいの時期です。前期の始まりBC5000年から始まります。因みに縄文時代の各期の区分は土器の特性変化によって学者が定めたもので、他の時代と違って王朝や戦乱の背景はありません。
ただ、土器の形態変化が気候や集団の外圧と連動しているのも一つの特徴です。

(年代は全てBCで表記)

縄文前期~中期の気候)
BC6000年~BC3000年 ヒプシサーマル(高温)期
BC5500年 現在と同じ気温まで上昇
BC3000年 現在より+2℃高い平均気温 青森が東京と同じぐらい
      縄文海進で海抜が現在より5m高い。
      関東平野群馬県辺りまで海が入り込む

縄文前期)
BC5000年~BC3500年
 円筒土器文化が北海道南部~東北地方にかけて拡大
 ※本格的な土器文化が広がる。
 ※定住化が進み拠点集落が各地に点在するようになる
 この期間に列島の人口は2万人⇒11万人に拡大。

縄文中期)
BC3500年~BC2500年
 大規模拠点集落が東日本に登場する。
 ※三内丸山遺跡(BC3500年~BC2000年)
 最大人口500人(予測)の巨大集落。三内丸山の周辺にも同様の規模の集落が並存する。栗栽培が確認されており、大規模な建物跡もあり、祭祀や周辺集落のセンター的交流が為されていたものと思われる。
 黒曜石やヒスイの広域交易がこの時代に進む。
 新潟県~長野県での縄文文化も進み、有名な火焔土器もこの時代に登場
 この期間に人口は11万人⇒26万人(縄文時代最大数)まで拡大。

集団間が近接し、緊張圧力も高まるが、縄文時代を通じて戦争跡はない。
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縄文後期~晩期の気候)
世界的にはBC3500年から寒冷化、乾燥化が始まり、遠くメソポタミアではこの時代に人類最初の殺し合いの戦争が始まっている。
西洋と東洋は約500年の差が生じるが、中国から日本にかけてもBC2000年から急激な寒冷化が始まる。
※4200年前から地球規模の寒冷化が進み、長江文明を初めとするインダス文明などの古代文明は消滅する。⇒184606

縄文後期)
BC2500年~BC1300年
土器の形状は用途に応じて多様化していくが、この期間に縄文の縄目が消え、摺消縄文になっていく。
環状列石(秋田県大湯環状列石)の遺跡が登場するのもこの時期。
共同墓地、日時計など、石の意味合いには諸説あるが、気候変動に対する人々の思いが切実になってきている時代。

集落は分業、専業化が為され、千葉県や東京では大型貝塚が登場。
茨城霞ヶ浦沿岸で土器による製塩がなされていることが確認されており、塩の生産が為され、各地へ交易された。84204

縄文晩期)
BC1300年~BC950年
縄文後期から始まった寒冷化は晩期から弥生前期でピークになる。
BC500年には-1℃の極寒期を向かえるがここから反転し、AC0年には現在と同じ気温まで上昇する。
列島の人口はBC2000年~BC1000年の期間に26万人⇒8万人まで激減
過半は西日本に移動するが、東北地方のみこの時期に人口は減っていない。

晩期の最も大規模な遺跡が青森県の亀ヶ岡文化。
遮光土器などで有名だが、亀ヶ岡土器洋式は全国(奈良県、京都)に広がっている。
北九州や出雲に、この時代の寒冷化、大陸での呉越戦争の敗者(江南人)が中国から朝鮮半島を経由して小集団で何派にもわかれて渡来している。

亀ヶ岡文化や北海道南部の縄文文化弥生時代以降も続縄文時代として後1000年間は継続する。
一方で、北九州を中心に縄文晩期(BC900年)には渡来人の技術を受け栽培、水田稲作が始まる。⇒以降弥生時代の歴史へ

305143 日本の歴史(年表)第5回~日本の私権時代の始まり(概況)
 
田野健 HP ( 54 兵庫 設計業 ) 15/06/20 PM10 【印刷用へ】

第5回は弥生時代(BC220年)~古墳時代大和朝廷(680年)までを見て行きます。

年表にかかる前にこの時代を貫徹する流れを文章にしておきます。

弥生時代は稲作伝来から半島経由の弥生土器の誕生をもって時代区分にしている。水田稲作伝来は前10世紀に九州に入っているが、拡大は遅々として進まず、稲作が全国に武器、銅鐸の青銅器文化をもって拡大したのは前3世紀以降である。弥生時代が500年早まったとするのではなく、北九州で戦争が勃発した前220年を弥生時代の始まりとする。
クニの始まりとなった弥生時代から大和朝廷形成までは中国、朝鮮半島の戦乱と連動しており。言い換えれば中国、半島の敗北部族の受け皿として、できあがったのが日本国と言える。一方で土着の縄文人、縄文晩期に渡来した江南人が形成した弥生人が新たな渡来人と混合し、文化的にも合流したのが日本でもある。従って渡来人が支配したのではなく、渡来人が日本に融合したのだ。

渡来人と一言でいっても時代ごとに何派も別れて渡来した。
役者だけ見ても以下のようにある。

呉越戦争の敗者である呉越人、秦帝国から逃れた徐福、魏の圧力から逃れた高句麗人、半島で敗れた伽耶人、国の滅亡で送られてきた百済の官僚、

彼らはそれぞれ敗北部族故に最初は日本国内で住み分けて定着するが、3世紀以降は縄張りが接触し、高句麗勢力対伽耶+土着勢力という構図の中で古墳を築造して日本列島にマーキングをしていった。その中で弱体だった伽耶勢力は百済を取り込み、蘇我氏の政治力を使って一気に大和朝廷を築き上げた。

弥生時代前半は呉越戦争の敗者が渡来。
呉越戦争の敗者は日本だけではなく朝鮮半島馬韓弁韓)にも渡来し、水田稲作文化を形成した。最も日本に近い、弁韓伽耶地域とも呼ばれ北九州地域と一体となって倭国を形成する。鉄の生産拠点でもあった伽耶は1世紀には北九州に九州王朝を作るが、これは半島側から見れば、倭国という集合体における日本側の拠点に過ぎない。

一方で中国に登場した秦時代に日本に亡命した徐福率いる技術者集団は各地に散らばり、その後の古代豪族の核となり、各地に伝説(徐福伝説)を作っていく。徐福直系の豪族が3世紀から始まる大和朝廷の中心者となった葛城氏であり、彼が各地の徐福ネットワークを作って畿内を中心に3世紀には王朝を形成していく。

その王朝を形成する契機は出雲から新潟にかけて渡来し始めた高句麗勢力である。
中でも出雲はそれまで拠点としていた伽耶+土着勢力が大規模な戦争で敗れ、中国地方及び畿内に移動する。(物部氏
高句麗勢力は出雲、尾張日本海側を占拠するが、畿内に入る事ができず、やがて関東を中心とした東へ拠点を移動する。それが日本史では描かれていない関東日本国という大和朝廷と並存する規模の国であった。日本には古代から西と東には異なる国があったことになる。(古事記日本書紀は日本支配の為の歴史書でそれら都合のわるい史実は残していない)

高句麗勢力が前方後方墳、土着+伽耶勢力(後に加わった百済勢力)が前方後円墳を形成して列島を埋め尽くすが、7世紀前半から始まる高句麗の弱体化―敗北によって国内の高句麗勢力は勢いを失う。以降は古墳築造が終焉し、それまで高句麗相手に連合していた伽耶系と百済系の争いが起きる。

一巳の変(645年)で蘇我氏は殺害されるが、蘇我氏の優れた外交、国内統合によって国家として祖形ができた日本は、その後登場した百済系の藤原不比等によって継続されていく。

次の投稿でこれらの史実を年表で追いかけていきます。

305334 日本の歴史(年表)第6回~日本の私権時代の始まり(弥生時代
 
田野健 HP ( 54 兵庫 設計業 ) 15/06/27 AM01 【印刷用へ】

305143で概観した弥生ー古墳ー大和朝廷の時代を年表で貫通してみていきます。渡来人と土着人(弥生人も含む)が交錯する激動のこの時代は次の時代の律令を以って一旦安定します。

渡来人の系統にわけて見て行きます。
百済伽耶系渡来人の動き
高句麗系渡来人の動き
□徐福系(古代豪族)の動き
弥生人(江南人)+縄文人の動き

《縄文晩期》
~江南地方から少数で九州へ渡来、水田稲作が伝来~

ただ、稲作は遅々として広がらず、九州地方にとどまる。
☆前10世紀 佐賀 菜畑で日本初の水田遺跡
☆前9世紀 北九州 板付に水田遺跡
☆前7世紀 有明に水田遺跡

呉越戦争 
前473年 呉が敗北 敗者が日本、朝鮮半島に流れる
敗者とはいえ戦争経験者の呉の難民が集団規模で日本に渡来。
朝鮮半島にも稲作を伝え、後に馬韓弁韓といった江南人のクニを作る。

弥生時代
~日本での私権社会の始まり~
☆前4世紀 呉人渡来。吉野ヶ里に大規模集落が発生。
    環濠集落 2ヘクタール。高床式住居 多数の戦争跡
☆前220年 北九州で日本初の戦争跡~クニの統合が進む。

前314年 越が楚に敗北。越人が大量に日本、朝鮮に流れる。
  ⇒九州は呉人のクニがあるので、出雲から新潟にかけて越人が居住。
   今でも日本海側に越の地名が残っている。

☆前140年 青銅器(九州は武器、近畿は銅鐸)を用いた祀り、葬送が始まる。日本で金属器文化が始まる。

前221年 秦始皇帝 中国を武力で統一
□前219年 徐福が老若男女3000人(技術者集団)を率いて日本に亡命
  各地にバラバラに居住し、古代豪族(秦氏、葛城)の基盤となる。


~北九州にテクノポリス
★1世紀~2世紀 海を跨いで伽耶と九州に鉄の王国(倭国)が出来上がる。伽耶はその後金官伽耶に、九州は日本側の拠点として以後3世紀まで
継続する。金印を授与され奴国と呼ばれるが日本での独立国家ではなく朝鮮半島の拠点。

□1世紀前後 畿内に巨大集落 唐古鍵遺跡が登場する。徐福の末裔が畿内に集結する。

★2世紀 伽耶から来た物部氏が九州を避け出雲、岡山に拠点を作る
★九州の勢力で負われた部族が瀬戸内から畿内に移動。高地性集落発生。


高句麗人渡来~
■2世紀 高句麗が魏に追われ、朝鮮半島を南進。新羅伽耶を押さえ、日本列島に拠点を作り始める。

■2世紀~3世紀 鳥取県 青谷上寺地遺跡に53体の戦争遺体の人骨
高句麗一派が弥生人を駆逐し、出雲に拠点を作る。4隅突出墓は高句麗にしかない様式。
 ⇒乱暴者スサノオ伝説は高句麗がモデル。
 ⇒☆出雲の原住者(オオクニヌシ)は追われて畿内三輪山)へ移動
  ~出雲神話

3世紀 青銅器遺物がこの頃なくなる。《弥生時代終結

305365 日本の歴史(年表)第7回~日本の私権時代の始まり(古墳~大和朝廷
 
田野健 HP ( 54 兵庫 設計業 ) 15/06/28 AM01 【印刷用へ】

続きです。

=渡来人の系統にわけて見て行きます。=
百済伽耶系渡来人の動き
高句麗系渡来人の動き
□徐福系(古代豪族)の動き
弥生人(江南人)+縄文人の動き

古墳時代
☆□3世紀半ば奈良の箸墓に280mの最古の巨大古墳が登場
 高句麗勢力に押されて畿内で戦争圧力の上昇
 唐子・鍵遺跡を作った徐福系(葛城)と出雲から逃れた伽耶系(物部)が合流する。

☆3世紀の邪馬台国があったとされているが、畿内でも九州でもなく、邪馬台国の場所は日本ではなく、倭国朝鮮半島)にあった模様。刺青の風習からして江南人文化圏。184427

■4世紀 前方後方墳による高句麗勢力の拡大
 出雲⇒尾張⇒関東へ
  ~畿内は古代豪族(葛城)の拠点で落とせず。

■5世紀~ 長野に馬文化の登場(大室古墳群)~高句麗勢力による開発
  関東に高句麗勢力+縄文人によって作られた大和と相並ぶ関東日本国が形成される。

5世紀 新羅高句麗に押され百済が弱体化
■(高句麗系の?) 蘇我氏が大和政権に参入。
  以後の百済渡来人を組織化、結集する。

★513年 仏教の伝来(百済から五経博士

大和朝廷時代開始》
★6世紀 巨大古墳の築造 畿内伽耶人+土着集団に百済人が合流。
 河内へ拠点が広がる。世界最大の構造物である仁徳天皇稜が築造
 渡来人の間で発生する戦争圧力を古墳競争で昇華。

★527年 磐井の乱 弥生から続いた九州勢力が大和に組み込まれる 

6世紀 高句麗本国の滅亡の危機。国内高句麗勢力弱体化

天孫降臨伝説~アマテラスは百済人?

★587年 蘇我氏が物部(守屋)を滅ぼす。
  伽耶系から百済系へ。蘇我氏による中央集権国家の基礎が作られる。
  仏教、屯倉の管理、戸籍制度、土木開発、寺院建設など進む

★6世紀 推古天皇~最初の女帝(推古はたぶん土着系)

★593年 聖徳太子摂政になる。17条憲法
    聖徳太子は架空の人物。蘇我氏自身の可能性が大。

★600年 遣隋使 日本国を名乗る。天皇を名乗る。

★645年 一巳の変~蘇我氏殺害《伽耶系の反乱》
★645年 大化の改新
    改新はしておらずほとんど蘇我氏のシステムを転用。
    以後、蘇我氏の中央システムが律令時代まで続く。

★646年 薄葬令により古墳築造禁止
古墳時代終焉》

663年百済滅亡
★663年白村江の戦いで敗北 勝目のない百済奪回を目指す謎の戦争
   伽耶勢力が国内の百済人減らしを目論んで仕掛けた可能性大

★664年防人制度 九州に水城作り唐の圧力に備える。
   この時代が最大の外圧

668年高句麗滅亡

★672年 (伽耶系)天武天皇即位 実質初代天皇 西日本統一
★701年 大法律令成る
★710年 平城京へ遷都
奈良時代開始》
★718年 (百済系)藤原不比等による養老律令成る(不比等実権を握る

307630 日本は東と西の2つの国の連合体~網野説
 
田野健 HP ( 54 兵庫 設計業 ) 15/09/10 PM03 【印刷用へ】

網野善彦氏は著書の中で日本は歴史的にも現在的においても東と西、あきらかに2つの集合体がある。それらは表面上は大きな対立がなく、共存しながらも、明確に境界線で相互に相容れない文化形態を育んできた。網野さんの書籍の中からこの東と西の差異の幹を紹介し、日本とは何かを考える上での基礎としていきたい。

>この日本列島には現在の日本人の祖先が古くからいたといわれていますが、<東日本><西日本>とではその実態は大きく違っていたのではないか。
歴史以外の分野の方言、言語、社会学等の学問研究では日本のいろんな問題を考える際に”東”と”西”に分けて考える事が多い。
方言の面では東と西には大きな違いがある。民俗の面でも東日本は”縦社会”西日本は<ヨコ社会>といえる。例えば「宮座」というものが”東”にはほとんどないという現象や神社のあり方。家父長権は”東”に強く”西”のほうはずっと弱いとか、他にいろんな事例を上げる事ができる。
歴史を遡っても考古学の分野にも旧石器時代から<東>と<西>に違いがあり、弥生時代の前期には一時的に東は縄文、西は弥生という時期が200年くらい続いている。古墳時代律令制時代を通じて東西の差は問題にされなくなるが、9世紀に入り、律令国家にガタが来ると、すぐに東と西の違いが表面化してくる。律令制は外から入れた制度であったため、9世紀に入ると地が見えてくる。それは平将門藤原純友の乱という形で現れてくる。ここからは東と西の問題を考慮に入れないと日本の歴史は理解できなくなる。10世紀から12世紀にかけてはっきりと東国国家と言ってもよい国家が確実に姿を現し始める。
その東国国家の先駆は平将門であり、その後を継承したのが頼朝の国家であると考えてよいのではないか。つまり東国の統治権を掌握した国家が鎌倉幕府なのである。その鎌倉幕府は後に鎌倉公方、北条氏に受け継がれる。鎌倉、室町、戦国を通じて日本列島には2つ以上の国家があったと考える方が事実に即している。

>こうした国家の背景にはこの時代の土地制度の違いもあるわけで、中世でもそのまま確認できる。
東の方では親分、子分の関係、大きな家にいくつかの小さな家が結びつくような形が目立っていた。逆に西の方では同じくらいのレベルの家が相互に集まって「座」という組織をつくり、それが「宮座」という形で神社を維持するような社会のあり方が支配的だった。中世の武士団のあり方についても東では惣領を中心にして、そこに庶子達が集まってタテの関係を軸とした強力な主従的武士団を構成する。ところが西の方では一国の武士たちがお互いを傍輩と言い合って、同じレベルの人間同士としてヨコに結びつく傾向が非常に強い。また系図を見ても若さの一宮、二宮は女系の系図となっている。東のほうでは女性を追いかける系図はない。武士団の系図という形になっている。

それら中世の社会のあり方は現在においてもそう大きく変化していない。
このように300年、400年、いや500年~600年以前の社会のあり方と最近の日本の社会のあり方とが、人と人との結びつき方の面では同じような特徴を示していると思われる。時代を超えて東と西にはこのような社会構造の違いがある。これはもう民俗の違いと言ってもよいのではないか。東と西にはそれほど大きな違いがあるという事を強調しておきたい。

>さらに単位においての東西の違いがそれをさらに明確に証明する。
戦国時代のある時まで、東日本は6町=一里、西日本は36町=一里だった。そのため交通上の負担も東は「一里=一銭」で西では「一里=36銭」となる。枡についても各地で異なり、一里の長さも差異がある。
現在では東と西で電気の周波数が異なる事は誰もが知っている。
このように極論すれば東と西の社会はなにかの作用で二つに分かれた民族になり、国家になってしまう可能性もあったのではないか。

>鎌倉がその顕著だとするのは、幕府と天皇が合い並び始めたのは鎌倉からだった。交通路に対する権限や関所の設定について、東は幕府が受け持ち、西は天皇が差配した。交通権とは境界権の事であり、国家を成立する条件が整っていた。
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この網野氏が度々力説してきた日本とは東と西といった2つの国が並存しており、それは大きな変化を起こさず現在まで引き継がれているというのだ。日本にはフォサマグナという大地溝帯で東西が地形的にも分かれているが、ほぼその位置で東西に2つの文化、体制、共認が存在していたとして日本史を見ていけば様々な史実が浮かび上がってくるように思う。

そのように見て、東の日本史、西の日本史といった歴史書の書き直しが有効のように思う。

307785 百済王族、藤原氏1 ~藤原氏とは何者か?~
 
井上宏 ( 40代 新潟 建築コンサル ) 15/09/16 PM10 【印刷用へ】

現在まで、日本を牛耳っていると見られる藤原氏、彼らはどこから来たのか?そしてどのようにして日本を支配したのか?

遅れて来た倭種、百済王族・藤原氏 リンク より
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7世紀以来、千数百年にわたって日本の最高の名門貴族の座を手にした藤原氏とは何者なのだろう。藤原氏最大の謎は、日本で最も高貴な一族でありながら、未だにその出自がはっきりしていない、ということである。
藤原氏は『日本書紀』神話の、天照大神が盤戸隠から出た時に、注連縄を引き渡して、磐戸を「封印した」、中臣・忌部神を祖とする。その子孫と言うことで、藤原氏の出自と正当性は、『日本書紀』神話・磐戸開きに求められる。

しかし、関裕二氏によると、疑問点として3点が挙がるという。
第一に、中臣(藤原)鎌足の登場(645年頃)まで、中臣氏の活躍がほとんど見られないこと。
第二に、その中臣(藤原)鎌足も、何の前触れも無く、唐突に歴史に登場する。しかも、正史・『記紀』にさえ、その父母の記載が確認できない。
第三に、中臣(藤原)鎌足の末裔・藤原氏はどういう理由か、常陸国茨城県)の鹿嶋からやってきたと捉えていたと推定できる。正史・『日本書紀』の中で証明された正当性を、自ら疑ってかっかたのかが、証明できないという。

さらに、藤原氏の祖・中臣氏は、神事に仕えた氏族というのが定説である。しかし、歴史上、確認できる藤原氏の行動は、神道よりも、仏教の布教に力を入れている。実際、藤原氏による、蘇我氏の滅亡を機に、古墳は姿を消す。そして、神道は影を潜め、仏教が華を咲かせるのでる。『記紀』によると、蘇我氏は仏教派だったのではないのか。

実際に、天皇家が仏教を取り入れるようになったのはこの時期からである。事実、天智系天皇天皇家菩提寺に祀られるが、天武系の天皇は祀られていない。この件については後に詳しく触れる。
神道天皇家の祖先を祀る宗教だったはずである。藤原氏登場以降、神道ではなく、仏教で、天皇の先祖を祀るように変更したという事実である。つまり、藤原氏以降・天皇は事実上、神ではなく仏として祀られていたということである。
 これらの確認出来る事実だけを見ても、藤原氏の言動は不自然なモノである。

(中略)
その中臣(藤原)鎌足大化の改新の折、唐突に歴史に登場する。
日本書紀』はいう。中臣(藤原)鎌足は、蘇我入鹿が君臣の秩序を乱し、国を傾けようとしていることを憎んでいた。この時、中臣鎌足は無位無冠の身であった。
そこで、皇族の中に入り込み、共に事を成す英傑を捜し求めていた。そして白羽の矢が立ったのが、中大兄皇子(後の天智天皇)であった。

(中略)
ちょうど同じ頃、百済王子・豊璋(ホウショウ)という人物が突如、日本古代史に登場する。
日本書紀』によると、舒明3年(631年)3月、百済義慈王の子・豊璋(ホウショウ)は人質として来日したのだという。
大化の改新蘇我入鹿暗殺の14年前のことである。

大化の改新の記載が有る、『日本書記』皇極記には、中臣(藤原)鎌足とこの百済王子・豊璋(ホウショウ)、そして、上宮王家(山背皇子ら聖徳太子一族)の暗殺、大化の改新による蘇我一族の暗殺記事が会い混じって記載されている。

(中略)
済明6年(660年)9月、百済は使者をヤマトに遣わした。そして、この年の7月に新羅と唐の連合軍が百済を攻め滅ぼした事、君臣は皆捕虜となったが、鬼室福信が百済王家再興の為、奮戦しているということを知らせた。
そして、10月。その鬼室福信が、人質として来日していた豊璋(ホウショウ)を召還し、新たに王に立てたいと申し出た。加えてヤマトに救援を求めてきたのである。
これに応じ、翌年9月、中大兄皇子は織冠を豊璋(ホウショウ)に与え、本国に送り返したのである。
人質であったはずの豊璋(ホウショウ)であるが、白村江の戦いの直前、百済に帰国し、国家の再興を目指す。

(中略)
そして、この人物が日本を離れたとき、実は中臣鎌足も忽然と歴史から姿を消しているのである。それも白村江の戦いという国家の一大事に中臣鎌足は行方不明になり、そして敗戦後、突然歴史に姿を現すのである。
衆知のように、中大兄皇子の側近中の側近であったと言う、中臣鎌足が、国家存亡の折、行方不明になったということ自体が理解できない。
関裕二氏は著書・『日本古代史の謎』・『藤原氏の正体』で、百済皇子・豊璋(ホウショウ)という人物と、中臣鎌足、つまり藤原鎌足は同一人物であるという。

確かに、そう考えると、中臣(藤原)鎌足の唐突な日本史への登場、百済救済の為の白村江への無謀な出兵、後述する壬申の乱での韓国軍の到来、さらに天皇家ご自身の神道道教から、仏教への移行。それに伴う道教の象徴・古墳の消滅など、すべての謎が解けてくるのである
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(引用以上)