■知らんかった!日本人の習慣
算数?
もともと揉めた者同士が和解する時に、何も隠し持っていないことを示すために両手を広げたのが始まりと言われている。
「イヨー」というかけ声は「祝おう」から転じた。
3・3・3・1という独特のリズムにも意味がある。
昔から日本では「3」は非常に縁起がいい数字とされ、好んで使われた。
「三種の神器」「日本三景」「御三家」「三度目の正直」など。
だから3拍子を3度繰り返すのだ。
では、最後の「1」はなぜ?
3拍子×3回=9、しかし「9」は「苦しむ」で縁起が悪いので、もう1回手を打つことで丸く収めた。
◆年中行事など季節ごとのならわし
<初夢の「一富士、二鷹、三なすび>
なぜ「一富士、二鷹、三なすび」は縁起が良いのか?
この3つは徳川家康が好んだ物。?
家康は将軍となり江戸幕府を開いた後も、江戸ではなく富士山がよく見える場所に住んでいた。
家康は鷹狩りが好きだった。
家康はなすびが大好物だった。
江戸の人々は天下を取った家康の強運にあやかろうとして、この3つを並べた。
<節分>
なぜ節分に豆をまくのか?
豆は一見、枯れて死んでいるようだが、水を与えるとちゃんと芽が出る。
強い生命力から、豆には神聖な力が宿ると考えられていた。
この力で鬼を追い払ってもらおうということで豆をまく。
日本だけでなく世界にもこういう話はある。
ヨーロッパの「ジャックと豆の木」、これも豆の生命力から生まれた話。
節分の鬼の「トラのパンツ」にも意味がある。
昔、方角や時間は干支で表していた。鬼は北東の方角、すなわち鬼門から来ると考えられていた。北東=丑と寅なので、鬼は牛の角を持ち、寅のパンツをはいている、というふうになった。
<ひな祭り>
なぜ「桃の節句」と言うのか?
旧暦の3月3日が桃が咲く季節だから?
ひな祭りはもともとは中国の行事。
桃が咲く頃、紙や土で作った人形を川に流す行事があり、それが日本にも伝わった。
実は中国では桃には悪魔を打ち払う神聖な力があるとされていた。
日本の祭祀後の遺跡にも物の種が大量に出土するそうです。
理想の世の中を「桃源郷」と呼んだり、「桃太郎」が桃から生まれたのもここから来ている。
桃の力にあやかり子供たちが元気に育つことを願って、ひな祭りに桃を飾り、「桃の節句」と呼ぶ。
<こどもの日>
3月3日は女の子の日とされるが、じゃあ5月5日は男の子の日?でも「こどもの日」?
実は5月5日はもともと女性の日だった。
昔、田植えをするのは女性の役割で(これを早乙女という)、5月5日は田植えをする前に早乙女たちが家にこもって身を清める日だった。
つまり女性にとっては、1年で1日だけ家事も何もしなくていい日だった。
一方、5月は疫病が流行りやすい月であるために、魔除けの効果を持つ菖蒲湯に入ったりしたが、これが「勝負」に通じるということで、後に男の子の日になった(くっくり注:「尚武」にも通じる)。
ちなみに、鯉のぼりを揚げるのは何のため?
もともと鯉を揚げること自体にはあまり意味はなく、棒の方に意味があった。
家の前に柱を立てて、神様を招き入れるための目印にしたのが始まり。
やがて棒に吹き流しや鯉などの飾り付けをしていくようになった。
<七夕>
なぜ短冊に願い事を書いて笹に吊すようになったのか?
それは江戸時代の寺子屋にさかのぼる。
読み書きをさせようとしても、子供たちはなかなか集中しない。
そこで先生が「短冊に願い事を書いて笹に吊すと願いが叶うらしいぞ」。
すると子供たちは一生懸命に字を書き、それを笹に吊すようになった。
これが一般にも広まり、七夕には願い事を書いた短冊を吊すようになった。
<十五夜のお月見>
なぜお月見の時におだんごを縁側に備えるのか?
もともと月見は、その年にとれた野菜や果物を神様にお供えし、収穫に感謝しながら美しい月を見る行事。
昔、ある家のお供え物がどこかに消えてしまった。
「お供え物がなくなってる!おお、こりゃ縁起がいい!」
お供え物がなくなるということは、神様がこの家の作物を気に入ったということで、次の年、豊作になる縁起が良い印とされていた。
もちろん大人たちは、犯人が近所の子供たちだと知っていた。
それならば、お供え物は子供たちの好きな物にしてあげよう。
そこで思いついたのが、子供たちの大好きなだんご。
しかも取りやすいように縁側に置くことにした。
つまりお月見のだんごは、大人たちのやさしい気持ちなのである。
<大晦日の年越しそば>
なぜ年越しにはそばを食べるのか?
江戸時代、金細工職人たちが、仕事場に飛び散った金粉を集めるためにそば粉を練って作っただんごをとりもちのように使っていた。
だから、そばは金を集める縁起のいいものとされるようになった。
そこで年越しには「来年もお金が集まりますように」との願いを込めて、そばを食べた。
ちなみに当時の年越しそばは団子型だったが、それがいつの間にか細いそばで代用するようになった。
◆由来が怖い習慣
<指切りげんまん 嘘ついたら 針千本飲ます 指切った>
意図はやくざにも?
他愛ない子供の遊びだが、そこには恐ろしくも哀しい物語が。
江戸時代、吉原の遊郭。ひとりの遊女がいた。
特別な事情がない限り遊郭の外には出られない。
——ひとりの男が、遊女のもとに足繁く通うようになる。
やがて男は遊女が待ちに待った言葉を口にする。
「お前を嫁にもらいたい」
遊女が誰にもとがめられず遊郭を出る方法、それは客に嫁にもらってもらうこと。身請け。
が、身請けには大金もかかるし、男にとってもかなりの覚悟が必要だった。
そこで遊女は身請けの約束を守らせるために様々な手段を使った。
約束の言葉を記して贈る「起請文(きしょうもん)」。
女の命である髪を切って贈る「断髪」。
そんな中でもっとも強い思いが込められているのが、自分の小指を切って相手に贈る「指切り」。
自らの身体の一部を失ってまでして、遊郭の外に出ることを願った。
「ゆびきりげんまん…」には、女の情念が込められていた。
(くっくり注:Wikipediaによれば、実際に切る遊女は少なく、偽物の指が出回ったらしい)
ちなみに、「げんまん」は「拳骨で1万回殴る」。
もっとすごいことに、江戸の方には「死んだらごめん」という歌詞がついてる場合もある。
これは「死んだら約束は免除だが、この約束はいっぺんしたら死ぬまで続く」の意。
<てるてる坊主>
晴れを願う時、なぜてるてる坊主を軒下に吊すのか?
その裏には哀しい物語が。
昔々、中国にひとりの美しい娘がいた。
彼女の名前は晴娘(チンニャン)。
その美貌は村中の評判だった。
ある日、晴娘の住む村を激しい雷雨が襲った。
川は氾濫、あたりの家は流され大惨事となった。
怯えるばかりの晴娘、その時不気味な声が。
「晴娘よ。龍王様が汝を妃にとご所望じゃ。もしも従わねばこの村ごと川に流してしまうぞ」
家の者は恐れ震えたが、晴娘は家族や村人を救うため「従います。ですからどうか雨を止めて下さい」。
そう言った途端、まばゆい光がさし、激しい雨がピタリと止んだ。
そして晴娘の姿も消えていた。
それからというもの、6月、雨が降り続くようになると、親たちは娘がさらわれないよう、身代わりの紙人形を軒下に吊り下げた。
これが日本に伝わり、いつしか、てるてる坊主になった。
てるてる坊主には、みんなを救うために犠牲になった哀しい娘の物語が秘められていた。
◆商売が絡んだ日本人の習慣
<茶柱が立つと縁起が良い>
(黒幕)は静岡のお茶商人。
江戸時代中期からと言われている。
一番茶(新芽の一番良いところを摘んだもの)は人気がある。
が、二番茶はお茶が育ってきてるので茎が混じってしまい、人気がない。
そこで「茶柱が立つと縁起が良い」という宣伝を考えた。
安いし、縁起が良いというので飛ぶように売れた。
<お世話になった人にお中元・お歳暮を贈る>
(黒幕)はデパート・百貨店。
もともと中元とは7月15日のこと。
実はこの日に贈り物をする意味は何もない。
が、お盆の行事と引っ付いて、祖先の霊を供養して、子供から親に物を贈るという風習になっていった。
明治30年代に、この習慣に百貨店が目を付けた。
夏は売上げが落ちる時期だったため、キャンペーンを始めた。
お歳暮もこれと似た感じ。
もともと年末には、お正月の供え物を一族で持ち寄る習慣があった。
帰省ができない子供や、遠方に住んでる親戚がせめて贈り物だけでも、と贈り物をした。
ここにデパート・百貨店が目を付けた。
<11月15日に七五三のお参りをする>
(黒幕)は呉服店。
もともとは七歳・五歳・三歳、別々の日にちに祝っていた。
が、江戸時代に、呉服店がいっぺんに着物を売るために11月15日に全部まとめた。
なぜ11月15日なのか?
五代将軍の徳川綱吉の子供のお祝いをこの日にしたので、それにあやかっている。
ちなみに千歳飴は、やはり飴屋がフィクサー。
母の日に贈る「赤いカーネーション」と「白いカーネーション」の話が出ました。
かつては、お母さんが生きている人は赤いカーネーションを、亡くなった人は白いカーネーションを胸に飾り、感謝の意を表したそうなんですね。
が、「それは差別だということを言い出した先生方がいて、全部赤になった」。
習慣やならわしというのは、同じ日本でも地域によりけっこう差があったりするものですが、このカーネーションの場合もそうなんでしょうか?
地域差よりはむしろ世代差がありそうな気もしますが。