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日本人のルーツ最新研究~アジア集団の中で最初に分岐した特異集団だった

2018年 働き方を通じて日本人が再生される | メイン | 日本人のルーツ最新研究2~DNA研究で明らかになった「日本人の二重構造モデル」

2018年07月26日
日本人のルーツ最新研究~アジア集団の中で最初に分岐した特異集団だった
こんばんわ。久しぶりに更新します。半年間仮眠しておりました。再開最初の記事は縄文人の最新情報からです。
2017年12月に読売新聞で掲載された斉藤教授の記事は日本人のルーツを探る上で大きな発見、発信になっています。私たち日本人はアジア人ですが、アジアの最も東の日本人は当然西側のアジア人が進化、変化適応しながら最後に流れ着いたと思われてきたのですが、今回の研究結果で縄文人を作った基礎となるDNAは出アフリカした人類の内、最初に分岐した最も古いアジア人の一派であった事がわかったのです。日本語がなぜ他のアジアの国々と言語体系(膠着語)が異なるのか、その根拠にもなってきます。我々日本人の中には12%の日本で独自に進化した古代人(縄文人)のDNAが今でも作動しているのです。
リンクより転載させていただきました。

縄文人」は独自進化したアジアの特異集団だった!

日本人のルーツの一つ「縄文人」は、きわめて古い時代に他のアジア人集団から分かれ、独自に進化した特異な集団だったことが、国立遺伝学研究所静岡県三島市)の斎藤 教授らのグループによる縄文人の核DNA解析の結果、わかった。現代日本人(東京周辺)は、遺伝情報の約12%を縄文人から受け継いでいることも明らかになった。縄文人とは何者なのか。日本人の成り立ちをめぐる研究の現状はどうなっているのか。『核DNA解析でたどる日本人の源流』(河出書房新社)を出版した斎藤教授に聞いた。

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(中略)
問題は、縄文人骨をどこから手に入れるか、だった。ねらいをつけたのは、自身が東大理学部人類学教室の学生だったころから知っていた東大総合研究博物館所蔵の福島県貝塚の人骨だった。同貝塚は60年以上前に発掘され、100体を超える人骨が出土した約3000年前の縄文時代後期の遺跡。同博物館館長の諏訪教授に依頼すると、快諾。男女2体の頭骨から奥歯(大)1本ずつを取り出し、提供してくれた。
解析を担当する神澤さんがドリルで歯に穴を開け、中から核DNAを抽出。コンピューターを駆使した「次世代シークエンサー」と呼ばれる解析装置を使い、核DNAの塩基32億個のうちの一部、1億1500万個の解読に成功した。東ユーラシア(東アジアと東南アジア)のさまざまな人類集団のDNAと比較したところ、驚くような結果が出た。中国・北京周辺の中国人や中国南部の先住民・ダイ族、ベトナム人などがお互い遺伝的に近い関係にあったのに対し、三貫地貝塚縄文人はこれらの集団から大きくかけ離れていた。


縄文人は東南アジアの人たちに近いと思われていたので、驚きでした。核DNAの解析結果が意味するのは、縄文人が東ユーラシアの人びとの中で、遺伝的に大きく異なる集団だということです」と斎藤教授は解説する。20171214-OYT8I50004-N[1]

アジア集団の中で最初に分岐した縄文人

 20万年前にアフリカで誕生した現生人類(ホモ・サピエンス)は、7万~8万年前に故郷・アフリカを離れ、世界各地へと広がっていった。旧約聖書に登場するモーセの「出エジプト」になぞらえ、「出アフリカ」と呼ばれる他大陸への進出と拡散で、西に向かったのがヨーロッパ人の祖先、東に向かったのがアジア人やオーストラリア先住民・アボリジニらの祖先となった。

 縄文人は、東に向かった人類集団の中でどういう位置づけにあるのか。「最初に分かれたのは、現在、オーストラリアに住むアボリジニパプアニューギニアの人たちの祖先です。その次が、縄文人の祖先だと考えられます。しかし、縄文人の祖先がどこで生まれ、どうやって日本列島にたどり着いたのか、まったくわかりません。縄文人の祖先探しが、振り出しに戻ってしまいました」

 アフリカを出た人類集団が日本列島に到達するには内陸ルートと海沿いルートが考えられるが、縄文人の祖先はどのルートを通った可能性があるのだろうか。「海沿いのルートを考えています。大陸を海伝いに東へ進めば、必ずどこかにたどり着く。陸地に怖い獣がいれば、で海へ逃げればいい。海には魚がいるし、食料にも困らない。一つの集団の規模は、現在の採集狩猟民の例などを参考にすると、100人とか150人ぐらいではなかったかと思います」と斎藤教授は推測する。

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2018年08月03日
「骨が語る日本人の歴史」~歴史学に根付く誤診を検証
面白い本を発掘したので紹介します。 「骨が語る日本人の歴史」片山一道 ちくま新書

発掘された古人骨を調べ、当時の人の様子を明らかにする「骨考古学」。その進展によって、日本列島の歴史は大きく書き換えられねばならないことがわかってきた。実は縄文人は南方からやってきたのではない。大陸から渡来した弥生人縄文人を駆逐したというのも本当ではない。そもそも「弥生人顔」など存在しない―旧来の歴史学に根強く残る誤謬を科学的視点から検証。人々の生身の姿を復原し歴史をひもとく「身体史観」を提唱する。骨考古学の第一人者が、日本人の実像に迫る。

実は「渡来系か縄文系か 」の二分論で議論できるほどに事は単純ではなかったようなのだ。
ひとつは「渡来系弥生人」なる人々の分布。どうも、ある地域に集中しており、そこでも、どの時期にも渡来人ばかり、ということではなかったようなのだ 。ひとつは 「伝来文化と渡来人の共時性」。そもそも、渡来人が多く来て、彼らが新しい文化と生活様式を伝播したから、日本列島全体の人々も生活様式も変わっていったのだとする図式は、どうやら無理筋かもしれない 。

縄文時代は一万年の長きにわたったにもかかわらず、だいたいのところ、縄文人骨の顔立ちや体形は一定しており、あまりに大きな時期差や地域差は認められない。しかるに弥生時代は七〇〇年ほどと短いが、その遺跡で出る人骨は、けっこう多様であり、地域差や時期差が無視できない。

それとまた、もうひとつ見逃せないポイントは、「弥生人」のタイプにも地域偏在性が認められること。北部九州や西部中国で出土するのは、おおむね渡来系「弥生人」骨に区分される。つまり弥生時代人骨は、そもそも渡来系「弥生人」が集中した地域で集中して発掘されているわけだ。かくして、「弥生人」すなわち渡来系「弥生人」の図式が描かれかねない。大きな落とし穴と言えよう。実際、北部九州とともに、弥生時代の重心があったと想定される近畿地方の状況は複雑きわまりない。渡来系「弥生人」とされる人骨も見つかるが、むしろ、それ以上の割合で縄文系「弥生人」の人骨が混在して見つかる 。どうも一筋縄ではいきそうにないのだ 。

そんな海峡地帯を越えて、弥生時代から古墳時代の始めにかけて、100万人以上もの人間が大陸側から渡来してきたのではないか、と試算したのが埴原和郎(東京大学)であるが(1987)。だが、そんな大規模な渡来人がいたという仮説には、易々と乗れない。なぜなら、あとでも触れるだろうが、弥生時代の渡来人の分布が北部九州や中国地方に限定され、せいぜい西日本に及ぶ程度だったからだ。それに弥生時代の日本列島の人口は、たかだか100万人規模でしかなかったと推定されているからだ。いくらなんでも、一桁多いのではないか、と懐疑する。いくら弥生時代になり、大陸側で人々がうごめき、航海技術が発達、渡海のノウハウが向上したといっても、まるでウンカが海を渡るがごとく海峡地帯を人々が渡ってきたとは、とても想定できそうにない。

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2018年08月09日
縄文を骨相学から語る(前半)~縄文人は日本列島で生まれ育った
前回の記事に重ねます。
2015年10月にるいネットに掲載された記事がちょうどこの著書について書かれています。少し長いですが、この著書を読むよりはるかに短いので興味のある方はじっくり読んでみてください。
引用:リンク1.リンク2

2105年5月に刊行された片山一道氏の「骨が語る日本人の歴史」という書籍を最近購入したが、この著書は歴史学といった先入観を排除して発掘された人骨という事実情報だけを元に縄文ー弥生ー日本の歴史を紐解いている。従来の教科書的歴史が扇動的で事実は別の処にあるという論点を多分に提起しており、非常にユニークで説得力のある著書だと評価できる。
いくつかこの本に書かれている「事実」情報をるいネットにも紹介していきたい。小見出しが非常に魅力的なのでそこと併せて紹介したい。
非常に文学的な表現の中に氏が提起したい事実情報が散りばめられているので注意して読んでほしい。

縄文人は日本人の基層をなす】
縄文人の系譜と血脈、暮らしと文化、習俗と気質のようなもの、などなど、彼らの生き方と死に様はのちの日本人とアイヌ人たちの基層をなしたことだろう。大河の源流のようにして、のちの日本人の歴史の中で脈々と流れてきたのは間違いない。
彼らの人物像も生活像も独特ではあったが、どこからか特定の人々が「縄文列島」にやって来たからそうなったわけではない。まだ陸続きに近い状態だった旧石器時代に、東アジアの大陸方面から「吹きだまり」のように集まってきた人々が混合融合し、豊穣な自然に恵まれた「縄文列島」という舞台で、新しい革袋のなかで新しい酒が醸成するようにして、新しい人々、つまりは縄文人が形成されていったのである。その意味で「どこからも縄文人は来なかった」「縄文人は日本列島で生まれ育った」のである。そんな逆説的な言い方も可能なのではあるまいか。
地球の温暖化による「縄文海進」の結果、日本が列島化した縄文時代には、まるで時間が停止したように、緩やかに静かに流れていったに違いない。大陸世界とは、ほとんど没交渉だった。だからこそ、異貌異形の縄文人なる人々が生まれることになり、独特の人間の営みが育まれたのであろう。

縄文人はことに恵まれた海産資源のたまものなのか、次第に漁労活動に長けることになり、世界で最古の優秀な漁労民となった。だからこそ、世界に類をみないような貝塚生活が定着、派手な土器文化が栄えたのではあるまいか。土器類は「第二の胃袋」としてあるいは生活や文化、あるいは儀礼活動や交易活動などでの象徴的な存在となり、縄文人の生活を彩った。
もちろん、せいぜいのところが20万人ほどの人口規模でしかなかったのだから、なにも漁労活動に特化する必要はなく、採集民、狩猟民、園芸農耕民でもあり続けた。だがいかんなく生活の知恵を磨かなければならない漁労活動に長じるにつれ、縄文人の「なんでも屋稼業」は、よりいっそう磨きがかかったものになり、ユニークな装いを帯びるようになったのではなかろうか。
いずれにせよ、縄文時代とは、豊かな気候条件と生態条件に恵まれた時代。縄文人とは生活の知恵と知識を高度に磨いた日本列島ならではのユニーク人々。縄文文化とは、ことに土器文化や漁労文化などを見事に開花させた生活の総体。日本人の基層にあるメンタリティーや心象風景が息づいた時代なのだ。こうした時代を有していた事を、もっと日本人は誇りにしてよいのではなかろうか。
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縄文人の特異性とは大陸から切り離され、狭い国土に温暖、寒冷の両方要素が持ち込まれた事、火山帯によって作られた険しい山岳とその標高差が作り出す多様な動植物などが大陸では決して生まれない豊かさがそれを作り出した要因である。その地域に海で囲まれて1万年以上の期間、孤立した日本列島でまるでガラパゴスのように熟成したのが縄文人だと言うのである。従って縄文人は骨相学の点からも他地域では現れない特徴をいくつも有しており、非常に注目すべき存在らしい。

【ありがたき哉、貝塚遺跡】
日本列島の各地に散らばる貝塚遺跡はありがたい。縄文人の痕跡を守護する。そもそも貝塚は当時の海岸線沿いに分布していたのだが、今の海岸線からは奥まったところ、一段高い丘のような場所にある。一般に縄文後期に気候が温暖化して海岸線が海進現象で後退したためである。
貝塚海砂に覆われる。そこに人為的に集めた貝殻が多く堆積し、炭酸カルシウム分が優勢で土壌の酸性度が弱くなる。それによって人骨、動物骨の保存状態が非常に良い。出土する人骨の数は膨大な数(全国で1万人以上のオーダー)に上り、後のどの時代人にもまして縄文人については多くの事をしることができる。人口は希薄だったのに大量の亡骸が残っている。
貝塚はゴミ捨て場のイメージとは程遠い。生活廃棄物が捨てられてはいるが、集落の中心をなす生活空間であり、儀礼の場であり、死者を葬る墓場でもあった。

縄文人の骨相、人相を探る】
縄文時代の人々、縄文人とはいったいどんなタイプの人だったのか?どんな顔立ちや体形を特徴としていたのだろうか。保存性の高い貝塚で守られた事で、1万体に上る人骨から世界の石器時代人のなかでもいちばん詳しく調べられている。そして、多くの特徴がある。
まず骨格が全体に骨太で頑丈であり、ことに下肢の走行筋、租借筋などの筋肉群の付着部がよく発達していた事は特筆に価する。中世や江戸時代人とは容易に区別できる。大腿骨や上腕骨などの下肢や上肢の骨はむしろ小さめでコンパクトだが、その重量感はなんとも言えないほど頼もしい。頭骨はさながら鬼瓦のようである。
頭顔骨も独特である。寸詰まりの大顔もさることながら、もっとも特徴的なのが、きわめて大きくて強くカーブした前に突き出る鼻骨。それとともに強くエラの部分が発達し、全体に厚く大きく頑丈な下顎骨である。かなりの「鼻骨顔」であり、かなりの「あご骨顔」である。
なぜ縄文人の骨格はかくもユニークなのか。たしかなことは「氏」の問題ではない。「育ち」の問題なのだ。なにも特別な系譜に連なることではなく、彼らの独特な生活活動と生活基盤、つまりは生活の総体にこそ理由がある。

縄文人の身体ー顔型と体形】
縄文人は鼻と顎が特徴的である。鼻筋の通る出鼻大鼻、エラの張る受け口気味の下顎が2大ポイント。それに加えてとても寸の詰まった彫の深い横顔、おもわずのぞきこみたくなるような顔である。眉間が盛り上がり、目許がくぼむ奥目で鼻が高くそびえるから、とても顔の彫が深いのである。
後頭部が「絶壁頭」を為す者はおらず、たいていは「才槌頭」額の円くて広い「おでこ顔」は女性でも少なかった。ともかくユニークな顔立ちである。平均身長は成人男性で158cm、女性では147cmほどしかない。身長が低いわりに腕や脚は長めの体形であった。脚の長さの身長に比する率は52%、最近の日本人と変わらず、他の時代と比べると大きい。肩幅は細目ながら、腰まわりは大きめだった。それにより下肢の筋肉が発達していたからかなり均整が取れ、まるでクロスカントリーの選手のような体形だった。現代人に比べたら、女性のほうも筋肉質、ことに下半身が頑丈だった。
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これら縄文人の骨の特徴はほぼ1万年間ほぼ同じで、また地域による格差もほとんどなかったそうである。(多少の差異はあるが)
それは縄文時代の日本列島が置かれていた環境が東西、南北大きくは変わらなかった事を示している。そしてその生活を支えた基盤は採取、狩猟も然ることながら、漁撈活動にあった。


縄文を骨相学から語る(前半)~縄文人は日本列島で生まれ育った | メイン | 明治中期の日本庶民~小泉八雲 「日本の面影」より~

2018年08月12日
縄文を骨相学から語る(後半)~縄文人は存在するが、それに対応する弥生人はいない。
後半は弥生人について書かれた部分です。弥生人縄文人、対立する存在、対極の存在と見られがちです。教科書的には渡来系は全て弥生人、土着民が縄文人と考えられ、あたかも日本人の中に弥生系と縄文系の2種類の人種が混在しているように勘違いされがち。

事実は弥生時代の人骨データーが非常に少なく、また、少ない弥生人骨はいずれも渡来したばかりの大陸人の骨で、縄文人と混血して弥生人になる前のものであった可能性が高いというもの。弥生人とは渡来人が縄文人と混血を重ね何世代もかかって出来上がった人種で言わば日本人の総体で、弥生時代弥生人が来て日本に広がったわけではないのだ。今回もるいネット投稿から紹介します。
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野口氏の著書「骨が語る日本人の歴史」には弥生人の事も克明に書いてある。縄文人が地域差や時代差が極めて少ないのに対して弥生人は地域差も時代さも激しい人種のミックスした総体を為すという。所謂、縄文人は存在するがそれに対応する弥生人はいないのである。
引き続き本編から紹介したい。

>前章で縄文時代の人々を語るときにたんに縄文人としたが、弥生時代の人々については、いわゆる弥生時代人との意味合いで「弥生人」としたい。もちろんわけがある。

縄文人は1万年の長きにわたったにもかかわらず、だいたいのところ、縄文人骨の顔立ちや体形は一定しており、あまりに大きな時期差は認められない。しかるに弥生時代は700年程と短いが、その遺跡で出る人骨はけっこう多様であり、地域差などの身体現象の問題を詳細に論じるのが困難になる。実際に「弥生人」はさまざま。同時代人なのに、さながら「盛り合わせ」のような人々だった。
まるで「縄文人」そのものような「弥生人」や、「縄文人」に似た「弥生人」。その一方で朝鮮半島を越えてきた人々かその係累につながるような渡来系「弥生人」もいた。また、縄文系「弥生人」と渡来系「弥生人」とがミックスしたような混血「弥生人」、次の古墳時代の墳墓から抜け出てきたような「弥生人=新弥生人」もいた。

弥生人は地域性がとても強くて、同じ地域でも前期、中期、後期で時期差が無視できない。もしも北部九州や土井が浜遺跡の人骨ではなく、たとえば西北九州や神戸新方遺跡の弥生時代人骨をなどを復顔材料に使えば「弥生人縄文人の顔立ちは非常に違う」と信じる方々の期待は裏切られてしまうだろう。一重マブタで平耳、薄い唇に淡い皮膚色、直毛で粉耳といった「弥生人の顔」神話が生まれたのは理由がある。

実はある一部の地域を除くと弥生時代の遺跡で発見される人骨の数は驚くほど少ない。日本のどの地域でも1990年代の頃までは、ほとんど「弥生人」骨は見つかっていない。人口が希薄で遺跡が少なかったからではない。日本列島の特殊な土壌事情がゆえに、そして弥生時代の遺跡の立地条件が故に、骨類が土に帰してしまい、人骨が残らないのだ。

ともかく縄文時代貝塚遺跡と比べて、骨の残存状態が著しく悪い。それが弥生時代の遺跡の特徴である。唯一の例外が北部九州地域と土井ケ浜遺跡などがある地域である。これらの土地、対馬海峡朝鮮海峡にまたがる海峡地帯のあたりだけは、弥生時代人骨が例外的に多く残存する。それに保存状態にもすぐれている。1950年代の早い時期から研究者によって集中的に発掘、研究活動が進んだ為に、尋常ならざる数の弥生時代人骨が発見され蓄積されている。
b_171212弥生時代の人骨出土 (1)
2017年発見された弥生時代人の人骨(佐世保

実際、この地域で見つかる人骨は、たしかに縄文人骨との身体的特徴の違いは目立ち、弥生時代人骨の「代表選手」「典型」のように取り扱われ、この地域で見つかる人骨こそが「弥生人」骨となり、縄文人弥生人は大きく異なるという論法に繋がっていった。
しかし、この地域は日本列島のごく一部でしかない。そして歴史的に大陸の玄関になってきたところでもある。そういう地理的、歴史的条件を考慮するなら、この地域の人骨を日本列島全体の弥生人の骨の無作為標本と見なす事は躊躇せざるをえない。
これら、北部九州地域の骨はこれまでに発掘された弥生時代人骨の全体の80%を占有するのだ。

おそらく倭人は、縄文人が各地域でさまざまに変容した縄文系「弥生人」を基盤とした。そこに北部九州から日本海沿岸部に住み着いた渡来系「弥生人」が重なった。続いてその当たりを中心に両者が混血して生まれた混血「弥生人」が加わった。これらが混成した総体こそが「弥生人」、あるいは倭人なのである。そうだとすれば、倭人あるいは「日本人」の内訳は一方で縄文人の流れを強く受け継ぐ人々がいた。その対極に渡来人の系譜に繋がる人々がいた。やがてそれらが混血した。つまり、縄文系か弥生系かの二分論で日本人論を展開するのはいささか乱暴なのである。

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2018年08月14日
明治中期の日本庶民~小泉八雲 「日本の面影」より~
小泉八雲は有名な「耳なし芳一」や「怪談」などの再話文学以外にも、パトリック・ラフカディオ・ハーンとして、日本の美しさを西洋に向けて紹介する紀行文や随筆、評論を多数遺しました。

今回ご紹介する『新編 日本の面影』は1894年に八雲が来日して最初に上梓した紀行文『知られぬ日本の面影』を小泉八雲研究を専門とする英文学者、池田雅之がまとめ直して刊行したものとなります。

著者がはじめて訪れた日本は、彼の目にどう映っていたのでしょうか。八雲作品を読む上で忘れてはならない、必読の1冊です。

小泉八雲は明治時代に島根県の松江に赴任し、1年余を過ごしました。本書に収録された紀行文はほとんどがこの期間に書かれたものであり、そこには西洋人である彼の目を通して見た明治の日本の姿が、美しく表現されています。

日本に魅せられ、日本人としてその生涯を終えた西洋生まれの作家、小泉八雲。本書は日本を愛した彼の原点というべき作品だと思います。彼によって描かれた美しい明治日本の景色に、今度は読者が魅了されてしまうに違いありません。

本名はパトリック・ラフカディオ・ハーン

ギリシャ生れのイギリス人で、来日前はヨーロッパからアメリカまで、世界各国を流浪し、アメリカで文才を見出され 明治23年(1890年)雑誌特派員として来日しますが、同年、英語教師として松江中学に赴任。 明治24年(1891年)1月に小泉セツと結婚し、熊本の五高へ転任。 明治29年(1896年)日本国籍を取得して「小泉八雲」と名乗ります。

八雲は近代化・産業化に強い危惧を感じており、それが痛烈な西洋批判に現れているのと同時に、対極にある日本人と日本文化に魅了され、日本の風景のなかに、人間の、社会の本当の美しさを「知られぬ日本の面影」の中に綴ったのです。

以下は本文より引用です。

>日本の生活にも、短所もあれば、愚劣さもある。悪もあれば、残酷さもある。だが、よく見ていけばいくほど、その並外れた善良さ、奇跡的と思えるほどの辛抱強さ、いつも変わることのない慇懃さ、素朴な心、相手をすぐに思いやる察しのよさに、目を見張るばかりだ。

>日本がキリスト教に改宗するなら、道徳やそのほかの面で得るものは何もないが、失うものは多いといわねばならない。これは、公平に日本を観察してきた多くの見識者の声であるが、私もそう信じて疑わない。

>旅人が、社会変革を遂げている国を――とくに封建社会の時代から民主的な社会の現在へと変わりつつあるときに突然訪れれば、美しいものの衰退と新しいものの醜さの台頭に、顔をしかめることであろう。そのどちらにも、これから日本でお目にかかるかもしれないが、その日の、この異国情緒溢れる通りには、新旧がとてもうまく交じり合って、お互いを引き立てているように見えた。

>街道沿いでは、小さな村を通り抜けざまに、健康的で、きれいな裸体をけっこう見かける。かわいい子供たちは、真っ裸だ。腰回りに、柔らかく幅の狭い白布を巻いただけの、黒々と日焼けした男や少年たちは、家中の障子を取り外して、そよ風を浴びながら畳の上で昼寝をしている。男たちは、身軽そうなしなやかな体つきで、筋肉が隆々と盛り上がった者は見かけない。男たちの体の線は、たいていなめらかである。

>田舎の人たちは、外国人の私を不思議そうな目で見つめる。いろんな場所で私たちがひと休みをするたび、村の老人が、私の洋服を触りに来たりするのである。老人は、謹み深く頭を下げ愛嬌のある笑みを浮べて抑えきれない好奇心を詫びながら、私の通訳に変わった質問をあれこれぶつけている。こんなに穏やかで優しい顔を、私はこれまで見たことがない。その顔は、彼らの魂の反映であるのだ。私はこれまで、怒鳴り声をひとつも耳にしたことがないし、不親切な行為を目にしたこともないからである。

>これまで立ち寄った小さな田舎の村々と変わらず、ここの村の人たちも、私にじつに親切にしてくれた。これほどの親切や好意は想像もできないし、言葉にもできないほどである。それは、ほかの国ではまず味わえないだろうし、日本国内でも、奥地でしか味わえないものである。彼らの素朴な礼儀正しさは、けっしてわざとらしいものではない。彼らの善意は、まったく意識したものではない。そのどちらも、心から素直にあふれ出てきたものなのである。 >この村落は、美術の中心地から遠く離れているというのに、この宿の中には、日本人の造型に対するすぐれた美的感覚を表してないものは、何ひとつとしてない。花の金蒔絵が施された時代ものの目を見張るような菓子器。飛び跳ねるエビが、一匹小さく金であしらわれた透かしの陶器の盃。巻き上がった蓮の葉の形をした、青銅製の茶托。さらに、竜と雲の模様が施された鉄瓶や、取っ手に仏陀の獅子の頭がついた真鍮の火鉢までもが、私の目を楽しませてくれ、空想をも刺激してくれるのである。実際に、今日の日本のどこかで、まったく面白味のない陶器や金属製品など、どこにでもあるような醜いものを目にしたなら、その嫌悪感を催させるものは、まず外国の影響を受けて作られたと思って間違いない。

>この国の人はいつの時代も、面白いものを作ったり、探したりして過ごしてきた。ものを見て心を楽しませることは、赤ん坊が好奇心に満ちた目を見開いて生まれたときから、日本人の人生の目的であるようだ。その顔にも、辛抱強くなにかを期待しているような、なんともいえない表情が浮かんでいる。なにか面白いものを待ち受けてる雰囲気が、顔からにじみ出している。もし面白いものが現れてこないなら、それを見つける旅に、自分の方から出かけてゆくのである。

神道は西洋科学を快く受け入れるが、その一方で、西洋の宗教にとっては、どうしてもつき崩せない牙城でもある。異邦人がどんなにがんばったところで、しょせんは磁力のように不可思議で、空気のように捕えることのできない、神道という存在に舌を巻くしかないのだ。

>と同時に、同じような理由で、日本の古い庭園がどのようなものかを知った後では、イギリスの豪華な庭を思い出すたびに、いったいどれだけの富を費やしてわざわざ自然を壊し、不調和なものを造って何を残そうとしているのか、そんなこともわからずに、ただ富を誇示しているだけではないかと思われたのである。

>しかし、心得るべきことは、どんなに貧しくて、身分が低いものであろうと、日本人は、不当な仕打ちにはまず従わないということである。日本人が一見おとなしそうなのは、主に道徳の観念に照らして、そうしているのである。遊び半分に日本人を叩いたりする外国人は、自分が深刻な誤りを犯したと思い知るだろう。日本人は、いい加減に扱われるべき国民ではないのである。あえてそんな愚挙に出ては、あたら命を落してしまった外国人が何人もいるのである。

>日本人のように、幸せに生きていくための秘訣を十分に心得ている人々は、他の文明国にはいない。人生の喜びは、周囲の人たちの幸福にかかっており、そうであるからこそ、無私と忍耐を、われわれのうちに培う必要があるということを、日本人ほど広く一般に理解している国民は、他にあるまい。

西洋と違い、自我のかけらもなく、警戒心も私利私欲もなく、周りの人のために生き抜いている日本人は、世界一、幸せを手に入れる術を知っている人種です。 現在失いつつある本来の日本人の姿が、つい明治の時代まで色濃く残存していたのです。 日本人からは見出せない日本人の魅力を、小泉八雲は気づかせてくれていたのです。

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2018年08月14日
明治中期の日本庶民~小泉八雲 「日本の面影」より~
小泉八雲は有名な「耳なし芳一」や「怪談」などの再話文学以外にも、パトリック・ラフカディオ・ハーンとして、日本の美しさを西洋に向けて紹介する紀行文や随筆、評論を多数遺しました。

今回ご紹介する『新編 日本の面影』は1894年に八雲が来日して最初に上梓した紀行文『知られぬ日本の面影』を小泉八雲研究を専門とする英文学者、池田雅之がまとめ直して刊行したものとなります。

著者がはじめて訪れた日本は、彼の目にどう映っていたのでしょうか。八雲作品を読む上で忘れてはならない、必読の1冊です。

小泉八雲は明治時代に島根県の松江に赴任し、1年余を過ごしました。本書に収録された紀行文はほとんどがこの期間に書かれたものであり、そこには西洋人である彼の目を通して見た明治の日本の姿が、美しく表現されています。

日本に魅せられ、日本人としてその生涯を終えた西洋生まれの作家、小泉八雲。本書は日本を愛した彼の原点というべき作品だと思います。彼によって描かれた美しい明治日本の景色に、今度は読者が魅了されてしまうに違いありません。

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本名はパトリック・ラフカディオ・ハーン

ギリシャ生れのイギリス人で、来日前はヨーロッパからアメリカまで、世界各国を流浪し、アメリカで文才を見出され 明治23年(1890年)雑誌特派員として来日しますが、同年、英語教師として松江中学に赴任。 明治24年(1891年)1月に小泉セツと結婚し、熊本の五高へ転任。 明治29年(1896年)日本国籍を取得して「小泉八雲」と名乗ります。

八雲は近代化・産業化に強い危惧を感じており、それが痛烈な西洋批判に現れているのと同時に、対極にある日本人と日本文化に魅了され、日本の風景のなかに、人間の、社会の本当の美しさを「知られぬ日本の面影」の中に綴ったのです。

以下は本文より引用です。

>日本の生活にも、短所もあれば、愚劣さもある。悪もあれば、残酷さもある。だが、よく見ていけばいくほど、その並外れた善良さ、奇跡的と思えるほどの辛抱強さ、いつも変わることのない慇懃さ、素朴な心、相手をすぐに思いやる察しのよさに、目を見張るばかりだ。

>日本がキリスト教に改宗するなら、道徳やそのほかの面で得るものは何もないが、失うものは多いといわねばならない。これは、公平に日本を観察してきた多くの見識者の声であるが、私もそう信じて疑わない。

>旅人が、社会変革を遂げている国を――とくに封建社会の時代から民主的な社会の現在へと変わりつつあるときに突然訪れれば、美しいものの衰退と新しいものの醜さの台頭に、顔をしかめることであろう。そのどちらにも、これから日本でお目にかかるかもしれないが、その日の、この異国情緒溢れる通りには、新旧がとてもうまく交じり合って、お互いを引き立てているように見えた。

>街道沿いでは、小さな村を通り抜けざまに、健康的で、きれいな裸体をけっこう見かける。かわいい子供たちは、真っ裸だ。腰回りに、柔らかく幅の狭い白布を巻いただけの、黒々と日焼けした男や少年たちは、家中の障子を取り外して、そよ風を浴びながら畳の上で昼寝をしている。男たちは、身軽そうなしなやかな体つきで、筋肉が隆々と盛り上がった者は見かけない。男たちの体の線は、たいていなめらかである。

>田舎の人たちは、外国人の私を不思議そうな目で見つめる。いろんな場所で私たちがひと休みをするたび、村の老人が、私の洋服を触りに来たりするのである。老人は、謹み深く頭を下げ愛嬌のある笑みを浮べて抑えきれない好奇心を詫びながら、私の通訳に変わった質問をあれこれぶつけている。こんなに穏やかで優しい顔を、私はこれまで見たことがない。その顔は、彼らの魂の反映であるのだ。私はこれまで、怒鳴り声をひとつも耳にしたことがないし、不親切な行為を目にしたこともないからである。

>これまで立ち寄った小さな田舎の村々と変わらず、ここの村の人たちも、私にじつに親切にしてくれた。これほどの親切や好意は想像もできないし、言葉にもできないほどである。それは、ほかの国ではまず味わえないだろうし、日本国内でも、奥地でしか味わえないものである。彼らの素朴な礼儀正しさは、けっしてわざとらしいものではない。彼らの善意は、まったく意識したものではない。そのどちらも、心から素直にあふれ出てきたものなのである。 >この村落は、美術の中心地から遠く離れているというのに、この宿の中には、日本人の造型に対するすぐれた美的感覚を表してないものは、何ひとつとしてない。花の金蒔絵が施された時代ものの目を見張るような菓子器。飛び跳ねるエビが、一匹小さく金であしらわれた透かしの陶器の盃。巻き上がった蓮の葉の形をした、青銅製の茶托。さらに、竜と雲の模様が施された鉄瓶や、取っ手に仏陀の獅子の頭がついた真鍮の火鉢までもが、私の目を楽しませてくれ、空想をも刺激してくれるのである。実際に、今日の日本のどこかで、まったく面白味のない陶器や金属製品など、どこにでもあるような醜いものを目にしたなら、その嫌悪感を催させるものは、まず外国の影響を受けて作られたと思って間違いない。

>この国の人はいつの時代も、面白いものを作ったり、探したりして過ごしてきた。ものを見て心を楽しませることは、赤ん坊が好奇心に満ちた目を見開いて生まれたときから、日本人の人生の目的であるようだ。その顔にも、辛抱強くなにかを期待しているような、なんともいえない表情が浮かんでいる。なにか面白いものを待ち受けてる雰囲気が、顔からにじみ出している。もし面白いものが現れてこないなら、それを見つける旅に、自分の方から出かけてゆくのである。

神道は西洋科学を快く受け入れるが、その一方で、西洋の宗教にとっては、どうしてもつき崩せない牙城でもある。異邦人がどんなにがんばったところで、しょせんは磁力のように不可思議で、空気のように捕えることのできない、神道という存在に舌を巻くしかないのだ。

>と同時に、同じような理由で、日本の古い庭園がどのようなものかを知った後では、イギリスの豪華な庭を思い出すたびに、いったいどれだけの富を費やしてわざわざ自然を壊し、不調和なものを造って何を残そうとしているのか、そんなこともわからずに、ただ富を誇示しているだけではないかと思われたのである。

>しかし、心得るべきことは、どんなに貧しくて、身分が低いものであろうと、日本人は、不当な仕打ちにはまず従わないということである。日本人が一見おとなしそうなのは、主に道徳の観念に照らして、そうしているのである。遊び半分に日本人を叩いたりする外国人は、自分が深刻な誤りを犯したと思い知るだろう。日本人は、いい加減に扱われるべき国民ではないのである。あえてそんな愚挙に出ては、あたら命を落してしまった外国人が何人もいるのである。

>日本人のように、幸せに生きていくための秘訣を十分に心得ている人々は、他の文明国にはいない。人生の喜びは、周囲の人たちの幸福にかかっており、そうであるからこそ、無私と忍耐を、われわれのうちに培う必要があるということを、日本人ほど広く一般に理解している国民は、他にあるまい。

西洋と違い、自我のかけらもなく、警戒心も私利私欲もなく、周りの人のために生き抜いている日本人は、世界一、幸せを手に入れる術を知っている人種です。 現在失いつつある本来の日本人の姿が、つい明治の時代まで色濃く残存していたのです。 日本人からは見出せない日本人の魅力を、小泉八雲は気づかせてくれていたのです。